廿山川から東除川へ

 水源地の探検をひとまず置いて、川の流れに沿って下りながら東除川を探検する。東除川源流である廿山(つづやま) 川が東池尻で狭山池からの川と合流し、富田林・大阪狭山両市の境界を流れていく。山地を切り開いた住宅地から羽曳野丘陵西裾の一番低いところを縫って田園地帯の中を流れるが、様々な土地の形で変えていくこの川の役割や表情を探っていきたい。

住宅地の雨水を集めて

 水源地に近いところは富田林市寺池台2丁目で、戸建て住宅が並ぶが、少し下ると1丁目、右側は高辺台3丁目となり、両側の丘の上にマンションが並ぶ団地風景になる。その寺池台と高辺台の境界の谷筋に用水路風の東除川源流、つまり廿山川が流れている。幅2m程度の用水路で住宅街からの雨水を集めて、北方向に流れる。南海・金剛駅に直結する道路橋をくぐり、久野喜台の団地群を過ぎる辺りで左、つまり西にカーブする。

上左:寺池台1丁目の団地 同右上:高辺台の団地風景 同下:金剛駅への道路がまたぐ 下左:久野喜台団地の下側 同右:橋を潜り左へ曲がると久野喜台の住宅街へ

 そこからは平地になり、戸建ての住宅街の中を流れるようになり、5mは超えているだろうか幅も広くなる。用水路の護岸に大きな楕円の穴が開いているが、土管を斜めに切ったもの。つまり、周辺の住宅街のあちこちから雨水を集めてきて、暗渠のパイプとなって護岸をぶち抜いている。よく見て行くと、右から左から護岸には何本もパイプの穴が開いている。元々東除川は洪水を防ぐ排水路であったわけだから、山地が開拓されて住宅地になっても排水路としての機能は維持されているという訳だ。

上:久野喜台からの水を流すパイプ 下:久野喜台の住宅街を流れる水路

狭山池の偉大な役割

 東除川は排水用の川で、大雨が降った後には水量が大きく、普段は少ない。石川のように常時水量が一定していないので灌漑用水としては利用できない。羽曳野丘陵の西側、東除川と西除川に挟まれた低地部に当たる地域では、灌漑用水の確保はもっぱらため池だ。その水は、主に狭山池の西・中・東の樋を通して無数ともいえる大小のため池に通水される。全国的にみてもこの地域のため池の密度は最上位にあるという。また、巨大な狭山池はダム湖としての役割も期待でき、大雨の時には一定期間溜めておける。満杯になりそうな時には、東・西除川に放出すればよい。慶長年間の狭山池改修工事は、大規模な水樋による通水機能、ダム機能と東•西除川の排水機能を最大限に発揮させる画期的な事業だった。このような狭山池の灌漑と洪水回避の偉大な機能を説明し顕彰するという意味で、安藤忠雄設計の巨大な狭山池博物館が造られたのだが、この博物館をご存知でない方は是非行かれることをお勧めする。

上左:狭山池の水樋から無数のため池に水を送るジオラマ 中:中樋付近から切り出した堤の断面展示(いずれも狭山池博物館) 下:南方を見る狭山池の景観

ため池の機能を測る

 東除川が久野喜台3号公園を過ぎ、富田林市と大阪狭山市の境界を北向きに流れる。人通りが賑やかになり車の往来も頻繁になる。橋を渡る人が多いなと思ったら、すぐ西に南海・大阪狭山市駅あるのだった。駅前に当たるのだろう、マンションが林立している。川沿いに建つマンションの駐車場入り口付近に行くと大きなため池の新池が見えてきた。

上右:富田林市加太付近を流れる 下左:大阪狭山駅への橋 同右:新池に向かう

 マンションへの通路となる橋の下を東除川が流れるが、水路をよく見ると堰が設けられ、その手前に50cm四方くらいの取水口が開いている。堰の高さも50cmくらいで取水口の高さと同じ。つまり、ここで水を堰き止め取水口に水を取り入れ、暗渠を通って新池に流すようになっているようだ。

左:新池に流す堰と取水口 右上:マンションへの橋 右下:新池

 新池の東側の堤を囲むように東除川が付いているが、北へ行くに従い川底が深くなっている。つまり、東側の道が北へ低くなっていく。その分池の堤を高くしなければならないが、北角付近に堤を切って川に水を落とす堰がある。かなり大きな落差だ。これらは池が洪水で溢れないようにする工夫だが、それを確かめるためにカシミール地図で各地点の標高を調べてみる。

右上:ため池防災事業の説明板が立つ東側の堤 同下・下左:川沿いの道は下っていく 下右:東除川に水を落とす北角にある堰

 取水口辺りが79m、池底は推測で77m以下、堤の標高はどの地点もほぼ80mと一定だが、水面を取水口と同じ高さの79mに維持し、それ以上の水を排水口の堰から東除川に流す、そういう仕掛けになっている。池北角辺りの川の高さは73.5mなので、この堰から5m程度の落差で水を落とす。東池尻にある新池は狭山池に近くても狭山池から取水していなく、東除川から取水している。つまり、狭山池から東除川への放水路を付ける前にはすでに廿山川(現東除川)から取水していたと考えられる。ため池の取水と排水を行う水管理は江戸期以前にはできていた、ということだ。大阪府営ため池防災事業の説明板には「東池尻新池地区12haの農地の灌漑用水を賄う」とある。12haとは300m×400m程度の広さだが、こんな大きいため池でもその程度の広さしか賄えないのだから、かなり多くの池が必要になるということだ。

東除川へ

 新池北側に南海狭山コーポという大きなマンションがある。この辺りは標高が低く73〜4mで、東除川を挟んだ東側が80mを超える河岸段丘になっていて、川が西へ回り込む対岸の丘陵斜面に階段状に造った加太町共同墓地がある。加太町会だけでは墓地が賄えないようで、石材会社など使って一般募集している。周りは新興住宅も増えて外部からの墓石の持ち込みも多いのだろう。昔は、東除川と西除川に挟まれた低地に広がる田園風景が眺められる風光明媚な墓地だったに違いない。

上左:南海狭山コーポ前を流れる 同右:加太町共同墓地 下左:狭山池(右側)からの流れが合流する 同右:北方へ向かう東除川

 さらに行くと、左から、つまり西から合流する同じような水路が見えてくる。これが狭山池の要らない水を除くために付けられた水路・東除川である。この川をさかのぼって狭山池まで行きたい気もするが、今回は古東除川(廿山川)の探検なので、徐々に標高を下げながら北へと流れていく東除川に沿って進もう。

5軒の家から始まった五軒家村

 東除川は大阪狭山市と富田林市の境界を流れるが、川の東側の羽曳野丘陵には住宅地、西側の平地には田畑が広がっている。カシミール地図を見ると少しでも高いところへと住宅開発がされたようで、川沿いの低地は田畑のまま、という状態だ。道沿いに五軒家受水場という水道施設があるが、東側の丘陵地は五軒家という地名。江戸時代にこの川の水源地・廿山村に他村とのいざこざが原因で、5軒の家族がこの辺りに移り住んだことから始まったという。そこは標高80mを超える丘陵地で、5軒から始まった村も神社を構える大きな集落へと発展していった。現在も丘陵地の方に住宅が広がり、その南部には藤沢台という大住宅街を形成している。昔も今も人の暮らしに地形がもたらす影響は大きいことがわかる。

上左:東除川の西側には田畑が広がる 下左:道沿いにマンホールが・・・ 同右:五軒家受水場 同下:丘陵地に五軒家の集落が広がる

畑のマンホール

 川沿いの道を歩いていると、何やらマンホールのようなもの、というよりマンホールが、田んぼとの境界線上に並んでいる。妙な風景に思えたので、そのことを通りかかったおじさんに聞くと、上流の住宅地から来る下水道が埋まっているのだと。大阪狭山市南部の高台に開発された広大な住宅地の下水が自然流下でここまで流されてくるということだ。川の側で長年住んでいるこの方が言うには、市の広報では、大水の場合は高台の施設に避難しなさいと。狭山池や西•東除川により上流の水害は防げるが、下流は改修で水害を守ろうという気がない、水に浸かってもしょうがないらしい、と皮肉たっぷりに話される。急進展で山を削り大規模住宅地を造ってきた行政の危機管理の脆弱性を問題にしておられる。

狭山水みらいセンター

 しばらく行くと、東除川は大きく東に曲がりブッシュの中に入って行き、川に近づけなくなる。川が曲がらずに真直ぐ北に流れると、大鳥池、裏池、新池などの連続する池に繋がる。古代にはこの一帯は沼地で水が澱んでいた。沼地に流れ込む水を止める必要があったのだろう、直角に東へ北へと2回曲がる川の形を見ると、後世に人工的に付け替えたように思うが、どうだろうか。一番手前の大鳥池の側まで行くと、なんとまあ、池面全体に太陽パネルが浮かんでいるではないか。古代史探検でもあちこちに太陽パネルを見るが、こんなに広いのは見たことがない。ため池が多い狭山だからこそだと思うが、これだけ大規模だとあっけらかんとして、情緒も何もない。

上左:雑木が生い茂る川淵 同右上:川筋から離れる道路 同下:大鳥池に浮かぶ広大な太陽パネル 下左から:狭山水みらいセンター、センターの平面図、斎場

 直角に曲がる川が囲んでいるのが狭山水みらいセンターなる下水処理場で、富田林、河内長野、大阪狭山各市にまたがる施設だ。先ほどの道に沿って並んでいたマンホールの下の下水道はここに集められる。施設の見学コースやせせらぎ公園や運動広場などを合わせた広大スペース。川筋から離れ、車がビュンビュン走る道路沿いを行くと、墓地、斎場、資源再生センターなどの公共施設が集結し、それらの見返りのように周辺に植物園、リス園、花見広場、冒険広場などの市民公園が敷設されている。どんどん川筋を離れてしまうが、どこへ行き着くのだろうかと迷いながら歩くのだった。(探検日:2023.11.8)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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