東除川は大和川へと流れる

 傾斜角0.2度もない平坦な土地を流れる東除川は右に左に大きく蛇行する。蛇行部分を切り取り住宅地にしたり、大和川付け替え以後は落堀川として本流に流れ込みやすくしたり、大幅な改修が加えられ、東除川はここで途切れる。住宅密集地の間を縫って流れる東除川は、その歴史を垣間見せたりしながら、古市街道に入って行く。

左:恵我之荘から大和川までの航空写真 右:同カシミール3D。直線距離2.3kmに対し高低差7.5m、傾斜角は0.187度

大津道の謂れは大津神社にあらず

 今回の探検は、近鉄・高鷲駅からの出発となる。まず駅から数百歩の大津神社にお参りに。大津道というのが丹比道、後の竹内街道と平行する形で2kmほど北に、東西に真直ぐ付けられていたが、その謂れとなったのが大津神社だという。和田萃先生によると、大津道の大津というのは、開口神社(堺市)の西方にあった古代の港を指していて、『万葉集』にみられる「大伴御津」が想定されている。開口神社辺りから真直ぐ東に伸びる、後に長尾街道と呼ばれる道がまさに大津道で、大津神社からそこまでは0.5kmもあるので、大津道の大津神社説は眉唾物と言えるだろう。

右上から:近鉄・高鷲駅、大津神社鳥居、同本殿

 それよりも、大津神社の「津」は、古市大溝の水辺に立地したから付けられた名称で、渡来系の津氏が祖先神を祭った社だった、とされる謂れの方が重要に思う。西国から運ばれた文物をここから大溝の水運を利用して古市辺りまで運ぶ流通拠点だった、そんな風に考えられないだろうか。

再び川沿いを歩く

 大津神社北側に沿う道を東除川まで行くことにするが、この道は高鷲中央商店街でもある。周辺は住宅密集地なので商店街が成立するのだろうが、近年はスーパーなどに客を食われ、ちょっと寂れた感じに見える。朝早い時間だったので、店も開いていなく余計にひっそりしている。

上左:大津神社北側の道 同右:神社への坂道 同下:高鷲中央商店街 下右:大津橋

 東除川に架かる大津橋に着き、これからはまた川沿いを歩くことにする。住宅が際まで迫った細い通路を歩いていくと、何やら轟音が聞こえる。近鉄電車が鉄橋を渡る音だ。私も40年近く通勤でこの鉄橋を渡ってきたのかと思うと感慨深いものがある。藤井寺から阿部野橋までは普通電車もあるので、特急、急行、準急も含めて頻繁に電車が通過する。それはともかく、なんと低い鉄橋か、背丈ほどしかなく、少し腰をかがめて「頭上注意」して通らなければならない。

上左:近鉄線の低いガード 同右上:近鉄電車 同下:東除川沿いの児童公園

川の蛇行部分が住宅地に

 東側の川沿いを歩いていると「しなづせせらぎの道」という看板があり、その奥に曲がりくねった緑陰散策路が見える。歩いていくと、一周まわったように元の川淵に出てくる。密集した住宅地の中に周回遊歩道があるというのは妙な具合だが、どういうことだろうか?

東除川の蛇行部分を切り取った緑陰遊歩道「しなづせせらぎの道」

 今まで菅生や河原城で見てきたように、ここでも川の付け替えがなされた。つまり、川をまっすぐに付け替えて、蛇行する川に囲まれていた土地を住宅地に、川の部分をせせらぎが流れる遊歩道公園にしたようだ。カシミールの航空写真で調べてみると、その経過が一目瞭然だ。昭和20年代には恵我之荘住宅開発が西側から進んでいるが、まだ川は大きく蛇行していて、川に囲まれた土地は田畑だった。時代が進むにつれ周りは完全に住宅化され、昭和50年代後半には川がまっすぐに付け替えられ、元の田畑は住宅街に生まれ変わっている。さらに、付け替え前は恵我之荘の続きの土地だったが、川で分断された新しい住宅地はどの町会に属すのかというと、元の恵我之荘という町名のままなのだ。緑陰遊歩道の外側は島泉1丁目で、その中に飛地のように恵我之荘1丁目があるという具合だ。当然と言えばそうだが、この土地の歴史は複雑で、町会同士にいろいろ悶着があったのだろうな。

東除川蛇行部分の航空写真・左:田畑が広がる(昭和20年) 中:周辺に住宅地が迫る(昭和49年) 右:川が付け替えられ、蛇行部分は住宅地に(昭和59年)

 「しなづ」の謂れについて、推古天皇の発願によって創建された鳳凰寺の寺伝によると、旧の東除川のことを志那津川と呼ばれていた。後に孝謙天皇が行幸した折、志那津川の中の島を掘ると清水が湧き出、この地を島泉と呼ぶようになったという。この時、明教寺に改められ、今も川の側の高鷲小学校北側に建つ。

大津道は高鷲橋を渡る

 緑陰歩道の北側、高鷲小学校の辺りから堺大和高田線の道路辺りまで大きく蛇行していて、まっすぐな川筋はない。曲がる外側の岸壁を削り、内側に土砂を堆積しながら、古代から大洪水を繰り返して来たのに違いない。その曲がりが穏やかになって来たところに東西に真直ぐ伸びる道と交差する。これが長尾街道で元は大津道と言われていた古街道で、堺市の開口神社辺りから東へ、西除川、東除川を越え、雄略天皇陵とされる島泉丸山古墳の外濠に沿って藤井寺市街地へと伸びる。以前、古市大溝を探検した時、その流れ込み先であった大池でもあった津堂の南側辺りを通る街道で、津堂で荷や人を積み替え、古市大溝を舟で古市方面、また津堂から出る水路が合流する東除川へと運ばれ大坂市中へと行くのではないかと推測した。

上:大きく蛇行する東除川 下左:東西に伸びる長尾街道 同右:高鷲橋 

 大津道の東除川に架かる橋の名を高鷲橋とされている。現在の高鷲という土地からずいぶん離れているのに、高鷲橋と名付けられているのは不思議な気もするが・・・・・・。高鷲という地名は古事記や日本書紀にも出ている古い地名で、雄略天皇の陵を丹比高鷲原陵、また江戸期には高鷲丸山古墳とされていた。この古墳の近くにあるので高鷲橋とされたのは合点がいくが、しかしここに反論がある。古代には高鷲原はかなり広い範囲でとらえられていて、高鷲原の北とすれば雄略陵は今の島泉円山古墳に当たるが、高鷲原の東とすれば仲哀天皇陵の岡ミサンザイ古墳になるとする論がある。雄略帝は傍若無人であったが、国家経営において大躍進をした大王で、その偉大さから言って、陵墓は岡ミサンザイ古墳の大きさがふさわしいと考えているところだが……。

左:大和・河内の古道(岸俊男「古道の歴史」より) 右:「高鷲原」の想定域図

東除川の堤が古市街道だった

 様々な形の住宅が迫る川沿いを歩いていると、いつの間にか松原市に入っていた。どちらを向いても住宅が建て込んでいて、見通しが効かない。ぶらぶら歩いていると、住宅開発地の真直ぐな道ばかりの中、微妙に曲がる古街道らしき道を見つけた。松原市小川4丁目とある沿道には、古い民家が並ぶが、この辺りは古い集落に違いない。さらに歩いて行くと、工場の建物の向こうに広場と神社の鳥居が見えるではないか。深居神社とあり、別の看板に「河内国古市街道」と書いてある。

上左:古市街道が通る小川5丁目 同右上:東除川沿いの道 同下:工場街の道 中左:神社前の街道 同中右:深居神社 下左:神社前にある古市街道の看板 同右:神社から高架を潜り、大堀を抜け、落堀川に沿って西に行き、明治橋を渡る(赤線⇒青線)

 深居神社は、8世紀初めの創建で品陀別命(ほんだわけ)つまり応神天皇を祭り、津堂、若林、大堀、小川、川辺の総産土神だったが、中世に分離、今は小川町だけの産土神となった。由緒は古い。今は土盛もないが、祠の下は古墳だったのではないか、と見られている。古市街道とは、平野郷から南東の斜め方向に進み、古市で東高野街道と竹内街道に接続する。平野郷からこの小川までは、旧の東除川の堤を街道としたとある。ということは、この街道を遡れば、大和川付け替え前の旧東除川を辿れるということではないか。良いことを発見したぞー。

大和川を渡る

 古街道らしきゆるく曲がる道を行くと東除川にぶつかる。街道側を入り口にして川に沿うように墓地、大堀共同墓地が広がっている。昔からの墓地のようだが、かなり大きい。古市街道を見付けながら大和川を渡ろうとするのだが、この付近、西名阪道、阪神高速と阪和道が交差する松原ジャンクションで、高速や側道の高架道が複雑に絡み合っていて、古街道を探すなどと悠長なことを言っていられない。東除川沿いの道は、阪和道と側道の中央環状線を合わせて70mを超える幅の高架下を通るが、音はうるさいし暗いし最悪の環境。犯罪の巣窟になる恐れもある、ということで地元の大堀町会が安全キャンペーンをされている。

上左:大堀共同墓地 同右上:東除川に向かう街道筋 同下:阪和道の高架が東除川に架かる 下左:高架下の歩道 同右:高架を見上げる

 高架をくぐり抜けるとパッと明るくなり、大堀の集落が見える。ジャンクションのせいで家並みが分断されてはいるが、幾つか大きな家や蔵が残っている。旧村の中をゆるく曲がる道が付いていて、これが元の川の堤道だとわかる。ほんのわずか続くだけで、西名阪道の高架に飲み込まれて、その先を歩いて行くことができない。一方、今の東除川は大和川に沿うように大きく左に曲がる。これが付け替え時に新たに掘られた落堀川で、1.5kmほど西に行った三宅付近で大和川に合流する。

上:大堀の街道筋を歩く 下左:東除川を渡る阪神高速の高架 同右:街道沿いの邸宅

 元の川筋は大和川を渡って対岸の大阪市平野区川辺あたりから遡れるはずだ。まずは、少し下流に行って大和川に架かる明治橋を渡ることにする。阪神高速高架下から進むと、まずは川幅2〜30mのまっすぐな川を渡る。これが一級河川の落堀川の東除川で西方にも延々と続いていている。大和川に架かる明治橋からは、二上山から生駒の山々が彼方に見えて見晴らしが効く。古代人も川堤を歩きながらこの風景を眺めていたのだろう。橋を渡り、いよいよ大坂市中である、と言っても緊張感まるでなし。今回はここまでにして、古市街道でもある川堤を行く東除川(跡)探検は次回にしよう。

上左:落堀川の東除川 右上:明治橋 同下:橋から西方を見る 下:大和川を渡る
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phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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