東除川堤の古市街道を行く

 大和川が付け替えらえて以降、新大和川以北の東除川は埋められたが、その川堤は古市街道として残った。古東除川はどのような経路をたどったのか、建て込んだ市街地の中を川のようにくねくね曲がる街道をたどる。川なき川を訪ねた先は平野川へと行き着くのだった。

左:大和川以北の歩行軌跡 中:古市街道経路図(YamaReco) 右:6ⅿ程度の高低差を歩く(カシミール3D )

川のように曲がる古市街道

 大和川を渡り、右岸堤を少し戻ると川辺八幡神社の杜が見える。この神社も品陀別(ほむたわけ)命を祭り、深居神社といい、古市の誉田八幡神社といい、古市街道には八幡さんが多い。八幡さんの根元でもある応神天皇陵をめざす何かの信仰流布があったのではないか?この神社も大和川付け替えで移転させられた一つだが、川辺と大堀、小川などの松原とは完全に分断させられてしまった。そのことは置くとして、川跡探しに戻ろう。

上左:川辺八幡神社 同右上:大和川右岸堤防から東を見る 同下:堤防下に神社の杜 下左:大阪市保存樹の楠 同右:神社への参道を示す白い鳥居

 東除川の川筋は神社前から一本東へ入った道で、いかにも古街道という雰囲気を匂わせる。住所は平野区長吉川辺、元々豊かな土地柄で、板塀・白壁の蔵や屋敷が街道沿いに並ぶ。「川辺」の川は大和川でなく、ひょっとして東除川なのかも知れないと感づいてこの道を見ると、いかにも川の堤のように緩やかに右に左に曲がっている。今では新建築の住宅が多数を占めるが、時折築100年は超えているだろうという古い住宅も見かけられる。

上:古市街道沿いに建つ板塀の古民家 下:街道沿いの公園と曲りくねる街道

長原の町割りは昔のまま

 長吉長原地区に入ると、何か見たような風景に出くわす。そうだ、ここを曲がったら志紀長吉神社があるんだっけ。近くに母の妹、叔母の嫁ぎ先があって、何度か来たことがあった。「長原の宮さん」と呼んで親しい印象があったが、果たしてその通りの神社があった。南から広い参道が伸びるが、町中は路地と言ってもよい狭い道が縦横に張り巡っていた。昔には古市街道からの視点はなかったし、ましてや東除川の川筋に当たるとは思ってもみなかった。

上左:志紀長吉神社 同右上:街道から神社への道角 同下:路地の先に神社の杜が見える 下左:長吉長原の町中の路地 同右:再び街道筋に出る

 街道に戻り北に向かって進むが、車が対抗できない細い道路で、南行きの一方通行だ。長居公園通や中央環状線などの太い道路が付き、市営住宅や公共施設がいろいろできて、大きく変わったという印象のある平野区だが、川辺や長原の一角は昔のままの町割りで、開発に取り残された感がある。もう40年も前の話だが、「ながら(長原)も地下鉄が付いて便利になったわ」と話していた叔母はもういない。昔のままの長原だけど地下鉄一本で梅田にも行ける、そりゃ便利で暮らしやすいというのは実感だったのだろう。

東除川は長居公園通を越えて

 街道は長吉小学校前を通り、わずかに右左にくねりながら、さらに北方に進む。東除川は、大和川付け替え前、江戸期の初めには長吉出戸辺りで大きく東に曲がっていた。水利上の解決策として水路が付け替えられたのだろうが、元々の川筋は北方に流れていたと見られる。この件は後ほど見るとして、古市街道は、長居公園通を挟んでさらにゆるゆる曲がりながら伸びているが、東除川もそのように流れていたのだろう。そのことは、現在の地図からも一目瞭然なのだ。

上左:街道沿いの長吉小学校 同右上:小学校グランド前 同下:マンションと旧宅が混在する 下左:出戸付近の長居公園通 同右:長居公園通を越えたところの街道

 再び町中に入るが、今度は少し左に傾き北西方向に伸びる。この辺りは長吉出戸4丁目で、元は田畑だったのだろうが、長居公園通が通り再開発されて住宅が増えるとともに、工場や水泳学校、事務所ビルなどが建つ。しばらく行くと大きく左に曲がり、バスが通る太い道路に出る。斜向かいに細い道が直角に付いているが、この街道の進み具合から見てつながっているようには見えない。では、この太い大阪府道186号大阪羽曳野線がそうなのか、と一瞬疑うが、地図上では緩やかに右に左に曲がっていて、太いといえど古道の面持ちがある。元々の川幅はこのくらいの太さがあったのだろうから、この道を行ってもあながち間違いではなさそうだ。大型トレーラーや大阪市バスがビュンビュン走り過ぎるが、よく曲がっていて、ここ4〜50年で付いたような道ではなさそうで、東除川の川筋であることに確信を持つ。住所が平野区喜連東4丁目とあり、市営住宅の中層ビルが規則的に建ち並ぶという昭和の団地風景が展開される。

上:ビル、工場、アパート、大阪水泳学校もある長吉出戸4丁目の街道筋 下:大阪市バスも通る府道186号線沿いには市営住宅の団地が並ぶ

水路再び発見

 古市街道は常磐会学園大学を過ぎたところの角を左に曲がり、常磐短大や平野スポーツセンター前を通り、西に向かう。その後は右に左に直角に曲がりながら平野郷の町中に入るのだが、直角に曲がるのは川の流れとしては不自然だ。恐らく旧河川は常磐会学園大学前を通り過ぎ、そのまま北に向かうと見る方が自然だ。私の探検もここで古市街道とは別れ、700m先の平野川をめざすことになる。

上:常盤会学園大学を過ぎ左に曲がり、平野郷に向かう 中:真直ぐ行くと、共同墓地、高層マンションが 下左:右側が一段高い、堤道か? 同右:道沿いに溝が走る

 平野霊園や高層の市営住宅などが続くが、しばらく行くと急に道幅が広くなり、それも右側の道が一段、1mほど高くなっていて、さらにその右側には水路が走っている。なるほど、この道は元の東除川の堤で、古市街道そのものだと推測される。水路は幅2mもなさそうな溝だが、東除川の流れの延長線上にあると言える。大和川で途切れた東除川の水の流れと、ここでこうやって再会できたわけだ。ちょっと胸に来るものがある。

そして平野川に流れ込む

 水量は溝底の幅20cmくらいのところを通るわずかしかないが、確かに水が流れている。水路に沿って行くと、道端や家の裏側を回ったりしながら平野川に流れ込んでいた。つまり、この流れ落ちるところが、廿山を水源地とする東除川が行き着くところ、江戸期の狭山池から排水がされる前、古代にもあったこの川、上流では廿山川、下流では志那津川と呼ばれた東除川の最終地点と言えるものなのだ。幾多の改修を経ていくらかは移動しているとは言え、廿山からの水はこの合流地点まで流れ着いていたのである。

上:水路は住宅の裏を流れ、平野川に向かう 下左:ついに平野川に流れ込む 

 平野川も川筋は時代ごとに移り変わることはあったが、古代大和川や石川から取水された大乗川などを水源とし八尾や平野辺りの農地を潤し、ここで東除川、さらに西方の西除川などとも合流し、古代には河内湖に、近世までは大和川の下流である長瀬川などに流れ込み、大河となって難波の海に流れ込んでいたのである。これで、源流から続いた古代東除川の探検が完了したのだが、一つ気になることがある。近世に大きく付け替えられ、別のルートを通り平野川に流れ込んでいたという「新東除川」とも言える川筋についてである。平野区出戸辺りに戻りその川筋を調べてみたい。

近世の東除川

 大和川の付け替え以前ではあるが、東除川は江戸期に大きく流れを変えているという。長吉出戸辺りで東に曲がり、中央環状線手前で北に向きを変えているらしい。平野川の右岸、北側の沿道を歩いていると、中環の東側の八尾市南亀井町1丁目辺りで、この川に注ぐ大きな地下溝を見付けた。東除川はここに流れてきていたのだろうか

左:長原・出戸・六反辺りの航空写真(平成初め頃) 右:同地域のカシミール地図

 近畿自動車道と大阪中央環状線の高架工事に伴って、この地域は大規模な再開発がされ、田畑であったところに団地や工場、倉庫などが建て込むこととなった。そのため、川跡を正しく辿ることはできないが、ところどころに残る用水路や堤道を頼りに、付け替えられた近世東除川のルートを探っていきたい。

大規模な土地区画整理事業

 1970年代から始まる平野瓜破地区土地区画理事業に伴って、広範囲な発掘調査が行われ、80年代から平野・瓜破遺跡発掘調査報告書が発行されている。それらを概観していると、その11号に東除川の川筋が発掘され、その形を推定する報告があった。奈良時代以前には川幅約12m、深さ約1.5m、平安〜室町時代には約23m、約2.5m、室町〜江戸時代(大和川付け替えまで)には60m以上の川幅があることが分かった。かなりな大河であるが、さらに古市街道は右岸、江戸期の川筋に沿う東側の堤上の道であった。

上左:長吉長原を流れていた東除川の川跡図(平野・瓜破遺跡発掘調査報告書より) 同右:長居公園通を越えてすぐ右に進む川堤跡と見えた道だが・・・ 下左:その道はコミュニティプラザ平野にぶつかり途切れる

 幅が60mもある川が長吉長原から出戸に出る手前でカーブしていたとするなら、長居公園通の下を流れていたのではないか?古市街道を長原から長居公園通を渡ったその先に、ちょうど街道から右に曲がる小道がついている。これが川の左岸の堤道ではないか、といかにもそう確信させるほど良い曲がり方をしている。しかし、そこを辿って行くとコミュニティプラザ平野にぶつかり、堤跡が途切れる。ここは元・出戸池という大きなため池があったところで、埋め立てられ公共施設や運動場などが造られた。この大河が池に注ぎ込むとは考えられないのだが・・・。

左:昭和20年の空撮。古市街道沿いの川は、出戸池の手前で右に大きく曲がるような川跡がみられる 右:昭和36年の空撮。近世の東除川は右に曲がり、中央環状線手前で左に曲がり長居公園通を越えて北に進む

 そこで、昭和20年の航空写真をよく見てみると、長原から出戸の町並の中に、それとは連結しない別の家並みがうねるように続くのを発見した。まさに古市街道から反れ、出戸の手前で右に大きく曲がり、中環の手前で北側に曲がり、長居公園通を越え蛇行しながら北に進んでいる、そのように見ようとすればそう見えるのである。幅も60mくらいはありそうな大きなうねりを見せている。その先は不確かだが、中環を越えない所で平野川に注いでいるように見られる。これが近世の東除川だとすると、先に見た平野川に注ぐ地下溝は何だろうか。

左:中央環状線手前の共同墓地には北へ進む川筋跡のようなくねる道が付いている 右:中環から川筋に向かう昔からの道も見える(長吉出戸6丁目)

用水路とせせらぎ

 中央環状線を越えれば全くの新しい町で、直行する道路で街区を作っている。川をなくした罪滅ぼしかのように、住宅や工場が林立する間の広場にせせらぎが流れる遊歩道が整備されている。それは大阪市域にあって、その北側は八尾市になるが、この辺りから中環にかけて両市の境界が複雑に入り組んでいる。八尾市域では、せせらぎへの改修前の用水路のままの状態であり、工場街の間を行く。用水路は2本あり、太めのそれは真直ぐ北に、細いのは何回か直角に曲がりながら共に平野川に到達し、先ほど見た地下溝から水を注ぎ入れている。中央環状線から東側の長吉長原東、長吉六反という地域は標高9~10mのほとんど起伏のない地形で、平安期からの条里制が敷かれた田畑であった。そのため水路は人工的に開削されたもので、東除川からも引かれたであろうし、南側の微高地からも水路を引いたとみられる。先に見たせせらぎや用水路も東除川からの水路跡とは限らないのだが、それらが集まって平野川に水を落としていた。

上左:長吉出戸と六反の間を流れるせせらぎ 上右:近畿道を越えて東側の新しい町に来る 中:八尾市側の用水路 下:用水路は地下溝となって平野川に注ぎ込む 

大阪市と八尾市の複雑な境界

 平野川への合流点は、八尾市南亀井町1丁目と大阪市平野区長吉出戸7丁目の境に位置する。平野川はこのまま北西に行くが、八尾市域は大阪市域に食い込む形で、八尾市を南側に前回見た東除川の流れ込み口まで両市の境界線を流れる。というか、昔は複雑に曲りくねった平野川が境界になっていて、八尾市としては「平野川は我が物」という意識が高く、平野川が現在のように滑らかな流れになっても境界は入り組んでいる。水利権が絡まった境界争いがあったように思うが、どうだろうか。

上左:大阪市と八尾市の境界は、平野川を挟んで複雑に入り組んでいる 上右・下:両市境界を流れる平野川のさまざまな表情

 時代の変遷とともに姿かたちを変え、廿山川、志那津川そして東除川と名も変え、流域により様々な役割を担ってきた一つの川、その水源地から流出先まで一歩一歩たどって来た。多くの意外な事実が知れて楽しくもあったが、川というものの長い歴史を丸ごと受け入れるには、私の力量ではとても叶うものではなかった。さまざまな資料や地図類に目を通し、とにもかくにも歩き回り、その中で何らかの着想、できれば古代史についてなにがしかの新発見ができれば、と念じているのである。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(2)件のコメント

  1. 田中弘一

    郷土の歴史を辿って下さるありがとうございます。

    1. きたつじみのる

      コメントありがとうございます。これからもよろしく、です。

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