花粉飛び交う春の日、鼻をクチュクチュさせながら探検に向かう。今回は、河内から太子を通り飛鳥に向かう、かなりロングランの旅になるが、その出発は近鉄・藤井寺駅から。改札を出ると、懐かしい顔がいくつも並んだイラストパネルが迎えてくれる。誰からも憎まれない、愛すべき性格をもった長谷川義文さん、彼のアットホームな絵が描かれている。藤井寺は小さい頃からよく来ていて知り合いもいたが、ここが住みよい町のように思えてしまうがな……。
上右:藤井寺駅前 下左:改札手前に長谷川義文さんのイラストパネル 同右:近鉄特急
西国三十三所五番札所・葛井寺
駅前商店街の「藤井寺一番街」アーケードを歩く。この道は、東除川探検の時に辿った「古市街道」であり、北へは踏切を越えて、岡、小山、津堂を、さらに大和川を渡って川辺、長原、平野郷に至るのである。しばらく行くと、西国三十三カ所の一つ葛井寺があり、この道はまた葛井寺への参詣道でもある。近畿各地の人々にとっては五番札所として有名なお寺であった、少なくとも50年以上前までは。
上:藤井寺一番街アーケード 下右:葛井寺西門 同下:西国三十三所御詠歌第五番「葛井寺」
盆や親族の命日、法事などでは、祖母が西国三十三番の御詠歌の導師を務め、我々はその口調に合わせ謳っていたものだが、御詠歌の内容はだいたい把握している。♪参るより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲♪という文句、藤で有名な寺で、懸命にお願い事をすると藤の花が紫の瑞雲のように見えありがたいことだと……。国宝の「十一面千手千眼観音菩薩」は、実際に千本の手があるということで、そのリアルさを一度拝見したいものだ。葛井寺は7世紀前半、百済からの渡来人・葛井氏の氏寺として創建されたと伝わっているが、日本で初めて体系的に刑法や行政法と民法を揃えた法典「大宝律令」(701年)の作成にも葛井一族は大きく関わっていたという。野中寺は渡来系氏族の船氏の氏寺、古市の西琳寺は西文氏の創建とされるが、羽曳野・藤井寺一帯は、大和政権を支えた有力渡来人たちの拠点が点在し、古代には文化先進の地であったことの証がこういう形で残っている。
上左:葛井寺本堂 同右:南大門 下右:南大門から南に伸びる古市街道
本堂は南向きで、朱色が美しい南大門から真直ぐ見通せるが、威圧感は全くない。それは、西に商店街からの入り口も開きL字型に曲がっていて、境内にシンメトリックな整然さがないからかもしれない。商店街と共にある寺で、買い物のついでにお参りしょうか、という気軽さもあって、親しげな雰囲気をもっている。南大門からは真直ぐ南に伸びる参道、つまりこれも古市街道で、南河内からの人々の参詣道でもあった。
辛國神社
葛井寺の南大門を出て西に70mも行くと辛國神社の一の鳥居に至る。つまり、江戸期の地図にもあるように葛井寺とこの神社は隣り合わせの位置になる。神社の創建も古代で、雄略天皇のとき、物部目大連が、物部氏の祖神・饒速日命を祭ったとされ、5世紀の後期に当たる。辛國という名称については、物部氏一族である辛國連が祭祀を司っていたところかこの名が付いたとされるが、辛國=韓国と読め、この一族が渡来系と予想されるものの、確定的な証拠はないようだ。
上左:辛國神社一の鳥居(両部鳥居) 同右:河内国丹南郡岡村絵図(江戸時代) 同下:長野神社より移設された石の鳥居 下右:参道周りの杜は自然樹林の面もちがある
辛國神社の一の鳥居は四脚鳥居という形式で、2本の本柱の前後にそれぞれ低い控え柱を設け、貫の木で連結したもの。両部鳥居ともいわれ、神仏習合の神社に多いと言われているが、この神社にはお寺の形跡がない。葛井寺の中にあった村社・長野神社を合祀したとあるので、ここは元々独立した神社であったと言えるのだが、四脚鳥居の意味が分からままお参りするのだった。一の鳥居を潜ると西へまっすぐ参道が伸びていて、その長さが180mもある。社の大きさから言って不釣り合いなくらい長い。その参道の両側には、松、楠をはじめ、照葉樹、落葉樹、広葉樹、針葉樹と各種の混合樹林を形成し、あまり手を加えない自然樹林の面もちがある。野山の中を歩いているようで気持ちが良く、「大阪みどりの百選」に選ばれているのも当然だと思われる。
雄略帝・物部氏・蘇我氏
辛國神社も5世紀までさかのぼれる古さがあり、特に雄略帝との関係が深いようだ。雄略帝の頃、執政官は直属の部下である物部氏、大伴氏の大連と、地域を治める大臣である葛城氏とその一族で占められていたが、葛城氏直系が雄略帝に滅ぼされた後は平群氏、許勢氏に継承されたものの短命で、蘇我氏が臣系氏族としてのし上がってくる。それは一方、物部氏、大伴氏の王権直属の連系氏族を中心に雄略帝への集権化を図る専制政治へと進んでいくことになる。そのような政治的背景において、雄略帝の時代に河内を支配下におさめた物部目大連が辛國神社を創建したのである。一方、蘇我稲目が宣化天皇の時代に大臣となり、6世紀以降に政権トップになるとされるが、それ以前の5世紀中、例えば雄略帝の時代に王権の「三蔵」を管理する命を受けたとされるなど、蘇我氏は権力中枢に進出している。蘇我氏の祖先は渡来系氏族とされるほどだが、渡来人を統括する役割を与えられることになり、藤井寺、野中、古市など河内での渡来系氏族の配置は蘇我氏が決めていったのだろう。
左:渡来系氏族の建てた寺院(葛井寺・野中寺・西琳寺・衣縫廃寺)右:大和・河内地方の豪族と渡来人の居住地(△印)(「図説資料新日本史」より)
葛井寺、辛國神社を回るだけで今回の古代史探検の趣旨があぶり出されたように思う。5世紀から6世紀にかけて、雄略帝を出発点として中央集権化を図る変革の嵐が吹きすさぶ時代であった。その中で蘇我氏がめざそうとしたものは何か。それは新しい時代を築こうとする葛藤でもあり、手本とするものがない「創造の過程」でもあった。河内から飛鳥への道をたどる古墳探検を通して、この新しい時代がもたらした意味を探っていきたい。
河内の先進地・藤井寺
葛井寺や辛國神社周辺は古代より栄えた街道筋の町で、その西側、春日丘一帯は大正期に道明寺~阿部野橋の大阪鉄道(現近畿日本鉄道)が開通したことにより開発された住宅地域である。そんな一画に藤井寺球場があったなんて、最近の人は想像できないだろうが、藤井寺は南河内では最も早く開けた都市的な町だった。
左:昭和20年(1945)の藤井寺 右:昭和49年(1974)の藤井寺
春日丘地域の東側、辛國神社の南側地域は、昭和20年代にはまだ田畑が広がる農地で、その中に広大な岡ミサンザイ古墳があった。高度成長期にどんどん宅地開発されて、今では古墳は閑静な住宅街に囲まれているが、開発が遅かった分古墳はほぼ往時の姿を留めることになる。
岡ミサンザイ古墳の地形
墳丘長245m、前方部幅180m、同高さ16.6m、後円部径150m、同高さ20mで、3段築成の前方後円墳だが、長らく仲哀天皇陵とされ、宮内庁も認めてきた。『延喜式』「諸陵寮式」において、応神天皇「恵我藻伏岡陵」を中心として、その北側である「恵我長野北陵」を允恭天皇陵とし、少し離れているが西側にある「恵我長野西陵」を仲哀天皇陵とするような墳墓治定がなされた。恵我長野とは石川沿いの南北に長い自然地形を指し、その西陵なら仲姫皇后陵である仲津山古墳ではないかという指摘は以前よりあったのだが、現仲哀陵は、岡ミサンザイ古墳という恵我長野とは別系統の羽曳野丘陵東麓に位置するのである。
『延喜式』巻21「諸陵寮式」は治部省関係であり、山陵について記載されている(国立歴史民俗博物館所蔵・土御門家本延喜式)。「恵我長野西陵」「丹比高鷲原陵」の記載が見える
古墳築造時期を考える際に最も有用な資料は円筒埴輪であるが、岡ミサンザイ古墳から出土した円筒埴輪は、允恭陵・白鳥陵に遅れ、峯ヶ塚古墳・仁賢陵に先行する時期のもので、5世紀末とされる。仲哀天皇は応神天皇の父親で、その天皇在位時期は4世紀末とされるので、1世紀近くずれることになり、岡ミサンザイ古墳は仲哀陵ではないことは確実なのである。岡ミサンザイ古墳の築造時期が5世紀末であるなら、その時期に在位し没した天皇としては雄略天皇が有力で、その活躍から見て大規模な前方後円墳がふさわしい。現在雄略陵と治定されている島泉丸山古墳は、円墳であり築造時期が古すぎるとされる。また同じく「諸陵寮式」において雄略陵を「丹比高鷲原陵」としているが、古代にはこの辺りは丹比郡に属し、藤井寺の西側の地域の高鷲にも近い。「原」が荒地を意味することから、高鷲地域に属するが、住居地や耕作地にも使っていない原野であった。標高22~4mの島泉丸山は低地で水の便もよく耕作地に適していることを思うと、標高が34~7mの丘陵地である岡ミサンザイの方が原野という表現にふさわしい場所だと言える。
左:高鷲原の想定域 右:主要前方後円墳の編年標(天野1993a) 8期(441-460・461-480) 9期(481-500)
元藤井寺市教育委員会で長年、古市古墳群の発掘調査をされてきた考古学者の天野末喜氏からの受け売りだが、地元の人間としての私も、土地の高低差や高鷲という地域性などがうまく理解できるので、天野案に賛成である。岡ミサンザイ古墳を雄略陵とするならば、それは大陸との関係が厳しくなる中、軍事力と経済力を高め、大王への中央集権化を図る大事業を行った「倭の五王・武」である雄略大王にふさわしい大規模墳墓だ。それはまた、応神帝の系列である石川に沿う恵我長野とは違う、羽曳野丘陵の東麓に墳墓を造っていくいくことに大きな意味があった。時代が変わったことを人々に印象付ける上でも、別の系列を成す場所に墳墓を築くことが重要であったと言えるのではないか。
左:雄略天皇系列(羽曳野丘陵東麓)と応神天皇系列(恵我長野)の天皇陵配置概念図 右:古市古墳群の空撮
陪塚・鉢塚古墳
雄略陵の陪塚と考えられる鉢塚古墳に行ってみる。住宅街の中の公園のように周りがフェンスで囲われ、その中にポツンと前方後円墳が収まっている。自由に中に入れて、墳丘にも上ることができるので、丘のある公園と言ってもよさそうだ。墳丘長60m、後円部の高さ6.5mの小型前方後円墳だが、葺石がなく、出土した埴輪から雄略陵と同じ時期の築造と考えられる。近くに寄ると墳丘長に対して高さがあり、一般の前方後円墳より腰高な感じがする。墳丘の土砂はかなり流れているが前方後円の形ははっきりわかる。墳丘上からは住宅越しに岡ミサンザイ古墳の森が見通せて、両者の親しげな関係をうかがわせる。
上左:鉢塚古墳全景 同右:周辺住宅と地図 下左上:前方部より後円部 同下:後円部より前方部 同右:墳丘上から住宅街越しに岡ミサンザイ古墳をみる
南西部が3m高い傾斜地に造る
住宅街の縁に沿って岡ミサンザイ古墳後円部の外提が円を描く。西側の道路に出て古墳の側面の外提に沿って歩くが、外濠を囲むコンクリート柵が延々と続く。途中柵の間から古墳を一渡り見渡すことができるが、245mの墳丘はかなり大きい。大王の墳墓としての前方後円墳は、仁徳陵で最大の規模に達し、それ以後急速に小さくなるが、岡ミサンザイ古墳は5世紀末の墳墓の規模としては突出して大きく、大王の墓にふさわしい。今はうっそうと茂る樹木によって見えないが、墳丘の形はかなり崩れている。中世に山城が築かれ改変されたり、雨水による小谷状の走路が刻まれたりしているが、それは元々葺石が施されていなかったからとみられる。5世紀末以降の墳墓は葺石が施されないことが多かった。
上:岡ミサンザイ古墳の後円部西側より全景 下左:前方部西側より外提全景 同右上:後円部外提外から
前方部中央は拝所が設けられ、住宅が近くに迫るとはいえ、そこへの通路はスペースも広い。後円部を除く外提には黒松が植えられているが、特に前方部には途切れなく並び、宮内庁により隙なく管理されている様子で、「仲哀天皇陵」という威厳を醸し出している。
上左:前方部西端より全景 同右上:前方部越しに後円部 同下:拝所 下:前方部外提の松並木(西側から・東側から)
外提部の東側に回っていくと、その中央部の水際に造り出しの土台部分が見える。深い常緑樹林に覆われていて、造り出しの形状がはっきり見えないが、水鳥が骨休めする場ともなっているようだ。東側の外堤上のコンクリ柵に沿う小道を行くと老人ホームや民家の裏側を通ることになり、その先は行き止まりになってしまった。コンクリ柵土台の崖路を伝い、途中で下に飛び降りるとそこはお墓、藤井寺共同墓地となっていた。元々は背丈より高い急崖になっており、ここから東側へはだんだん低くなっていく。
上左:東側の作り出し部 同右上:東側の外提沿いの道 同下:後円部東側 下左上:崖下の墓地 同下:藤井寺共同墓地全景 同右:古墳の外提崖下に墓地が広がる
外提部は現在どこをとっても35~36mの同じ標高を持つが、築造時には南西部に比べ東北部は3mほど低かったことが判明しており、築造時は自然地形の傾斜に従って施工されていた。堤の外側の標高を調べてみると、南西部で36m前後の標高、北部から東北部にかけては33.5~34mで2.5mほどの標高差がある。古市大溝の探検時に調べたが、この濠は後に灌漑用ため池としても利用されていて、外堤は最高2.5mに及ぶ嵩上げがなされていたとみられる。つまり私が飛び降りた高さの分が嵩上げされていた、ということになる。
左:古墳とその周辺の標高。外提一周はほぼ36mだが、周辺は西から東へと低くなる 右:昭和48年(1973)当時の空撮
街道の結節地点に造る
藤井寺共同墓地の東側に舟形埴輪を模した奇抜なデザインの藤井寺市立生涯学習センター「アイセルシュラホール」が建つが、この前を通る道が葛井寺から続く古市街道である。古代より岡ミサンザイ古墳の北1.5km辺りに大津道(長尾街道)、南1km足らずの辺りに丹比道(竹之内街道)が東西に通り、それらを繋ぐ南北に通る道が古市街道で、雄略天皇陵のすぐ東下を通っていたことになる。また、古市大溝の水路も付けられていた。つまりこの周辺は難波・堺、京と大和、高野、紀州などとの交通の結節点で、周辺には、抜け道、バイパス、水路も含め縦横に道が通じていた。この大古墳は、そこを通る内外の旅人に見せるために造られたと言っても良さそうだ。
上左:雄略天皇陵周辺に街道が結節する 同右上:古市街道。真直ぐ行くと葛井寺南大門に 同下:雄略陵東側を通る古市街道 下左:アイセルシュラホールから雄略陵(こんもりした緑)を見渡す 同右:古市街道から見た雄略陵
アイセルシュラホールの近辺から西を見上げると、坂の上に堂々と横たわる陵墓が現れる。それまでにあったように王権の抽象的権威を見せつけるのでなく、中央集権化していく中で、大王個人が成した偉業を偲ばせ、その威力を感じさせるような見せ方なのだ。允恭陵、仲津姫(仲哀)陵、応神陵という系列とは別に、大王個人へのシンパシーがいや増されるものと思われる。後に見て行く仁賢、清寧、安閑などの古墳を先駆けるような配置がなされたとみているのだが・・・・・・。
ため池としての外濠
旧古市街道を少し南に下り、左右に分かれる道を右に上ると、坂の上に雄略陵の森が現れ、その手前に割塚古墳の方墳が見える。坂の途中を切り開いて造られた墳墓で、今は駐車場の縁に押しやられているが、一時は雄略陵の陪塚ともみられていた。発掘された円筒埴輪の時代判定から雄略陵より100年ほど古いことが判明したが、元々この地にいた豪族の墳墓だと推測される。再び雄略陵に戻り、外提の南東隅を見ると、南からの配水管から御陵へと水が流れているのがわかる。その先を追うと、濠の堤に水門が築かれ、そこを通して先ほどの水が流れ込んでいるようだ。つまり、南の上流からの水を濠へ通し、ため池として水を貯留しようという企てだ。
上左:雄略陵地図。右下の用水路から給水する 同中上:割塚古墳 同下:古墳外濠に繋がる用水路 同右:古墳外濠の水門 下左:配水管を古墳へと水が流れる 同右:用水路は暗渠となって南方へ伸びている
今度は、この南へ伸びる用水路、そのほとんどは暗渠になっているが、それを伝って水源を探って行こう。この用水路をたどっていくと、確か、古市大溝の経路でもある中ノ池にたどり着くはずだが・・・・・・。(探検日:2024.3.30)