古市から駒ヶ谷・飛鳥・春日へ

 これからは古市古墳群を離れ、古代の旅人もめざした東方に向かう。近鉄古市駅を降りるとすぐ東側に白鳥神社がある。ホームからは小高い丘に見えているが、この部分が後円部で西に前方部がある前方後円墳だったという。つまりくびれ部に線路を通し、駅にしたわけだ。それじゃここが白鳥陵となるのか、と少しロマンを感じたが、古墳を示す遺物が出ていなく、考古学的には墳墓と言えない、ということだった。

上左:古市から駒ヶ谷への歩行軌跡(カシミール3D) 同右上:古市駅前踏切 同下:白鳥神社正面鳥居 下左:古市駅前・南からのアプローチ。だんじりはこのスロープを一気に駆け上がる 同右:広々とした境内

白鳥神社のだんじり祭り

 駅前から神社へのアプローチは緩やかなスロープになっており、これはだんじりの道だと推測がつく。白鳥神社の秋祭りは、古市6町会のだんじりが神社境内に結集する豪壮な祭りだ。そのため本殿の建物に比べて境内は広々とした感じがする。本殿は東向きで、鳥居をくぐり石段を降りるとまっすぐに参道が伸びる。古市小学校を過ぎ、東高野街道の通りに突き当たる。その入り口に架かる鳥居に見惚れるが、ここをだんじりが潜るには低すぎるか?鉄の輪をはめてあるから高さを調節できるんかな?とか疑問が湧き出る。そこにゴミ拾いで奉仕している古市郵便局の職員が通りかかったので聞いてみると、「参道ですから、だんじりは潜るんやないですかね、私は見たことないですけど・・・・」と言う。そうかなぁ、と吹っ切れないまま歩いていると、「すいませーん」と私を追いかけて来る人がいる。先ほどの郵便局員さん、やはり潜らないようですと。律儀なことに、局に戻って聞いてくれたようだ。

上右上:白鳥神社東側に伸びる参道 同下:古市小学校前の参道 下左:参道の東側を見る 同右:東高野街道に面した参道入口の石鳥居。だんじりは潜れないと思われるが・・・。

西琳寺

 迫力ある五輪塔を見たくて西琳寺に立ち寄る。真言律宗を復興し、蒙古軍撃退の祈祷や西大寺の再興など鎌倉仏教最大の僧と言われるのが叡尊だが、西琳寺や教興寺の再興を始め、道明寺の尼寺建立など女性救済、河内鋳物の活性化など河内にも数々の功績があった。中央の一番大きな五輪塔が叡尊で、その左手前が道明寺を建てた了祥のものだ。

上左:西琳寺境内にある鎌倉期の迫力ある五輪塔 同右上:西琳寺への参道 同下:山門 下左:巨大な塔心礎 同右:本堂

 東高野街道を南に行くと竹内街道と交差している。東南角に古市六町蓑の辻会館があり、古市の中心部。少し東に行くと、両替商だったという銀屋があって、東側の外壁に石川を行き来した剣先船の船板が貼ってあったのを見たことがある。周りを建物が取り巻く大きな敷地だったが、今はこに10数軒ものレンガ張りを主体としたシックな住宅が建つ。

上左:美舗装された東高野街道 同右上:竹内街道との交差点、南東の角に古市六町蓑の辻会館が建つ 同下:東に向かう竹内街道 下左上:銀屋跡に建つ住宅街 同下:銀屋前の広場 同右:広場東端にある往時の銀屋のタイル画

 町中の街道を歩いて来たが石川の土手にぶつかる。古代にはそこから対岸、駒ヶ谷の方へはどのように渡ったのか気になるところだが、とにかくそこに架かる臥龍橋を渡る。石川本流の脇、西側に細い川が流れるが、当方自宅の近辺から流れる大乗川で、その少し下流で応神陵から藤井寺、津堂辺りまで流れる王水川へ配水される。元々石川の河南橋辺りから取られた古市大溝からの水なので石川の水とは言えるだろうが、本流に交わることなく、今度は王水川となって配水されるのである。

上左:銀屋跡東側を竹内街道が通る。銀屋東側の壁に舟板が貼ってあった・・・ 同右:石川へ東に伸びる街道の風景 下左:石川に沿って流れる大乗川 同右:臥龍橋東詰から東を見ると、二上山の山端がちらっと見える。

臥龍橋から

 臥龍橋は250mくらいある大橋だが、橋の上から来た道を振り返ると、緑の小山がポツポツと並んでいるのが見える。左から安閑陵、白鳥陵、少し離れて応神陵だろうか。ビルや家並みがなかったら清寧陵、峰ケ塚古墳、墓山古墳、仁賢陵などもつながって見えたであろう。こんな大王クラスの御陵の壮大な風景に見送られて東へ向かうというのは、格別な気分だったのではなかろうか。

上左:橋上から古市方面を見ると、左に安閑陵、右に白鳥陵が 同右上:南側鉄橋を近鉄電車が走る 同下:北側彼方に生駒山地が見える 下:古市の北方に巨大な応神陵、その右に仲津山陵が見える

 

 石川を渡り、しばらく川沿いを歩き、土手を下る左への道・竹内街道に入る。2車線の太い道だが、古街道らしくクネクネと曲がる。近鉄南大阪線が近づいてくると、そこは駒ヶ谷地区だった。今では日本的企業になったチョーヤ梅酒の本社が見えてくる。ぶどう酒の駒ヶ谷で「何で梅酒やねん!」と皆さん疑問に思うだろうが、この逆転の発想にこそ、チョーヤが全国的シェアを誇るようになった秘密があるのだろう。本社と言っても町工場っぽいが、駒ヶ谷駅の真ん前に構えている。

上左:古街道らしくクネクネ曲がる国道166号線 同右上:石川から離れ駒ヶ谷に向かう竹内街道 同下:近鉄南大阪線と並行する街道 下左:駒ヶ谷近く、右側はチョーヤ梅酒の倉庫 同右:駒ヶ谷駅前にチョーヤ梅酒本社ビルがある

 飛鳥川を渡ると知恵地蔵尊の祠があり、そこでしばし休憩。玉垣の寄付者の名に懐かしさを覚える。我らが郷土の大阪府会議員だった芝池信隆、本元清史、初代羽曳野市長の塩野庄三郎。これらご本人のことは知らないまでも、昭和も30年代のことだが、周りの大人たちのうわさ話や印刷物などで聞き覚え、見覚えがあった。その地蔵尊から駒ヶ谷の村中に入るが、やっと本格的に古街道の旅ができそうだ。白壁、板塀の古民家が並び、クネクネと道は緩やかに曲がる。大きな屋敷の前で道は直角に曲がると、そこは杜本神社の参道入口だった。

上左上:竹内街道の案内板 同下:知恵地蔵尊、その正面玉垣には懐かしい名が・・・ 同右:白壁・焼き板壁の古民家が並ぶ 下:街道が通る駒ヶ谷の風景

飛鳥千塚と杜本神社

 標高50m程度の宮山頂上にある杜本神社、駒ヶ谷の集落を見下ろす位置にある。平安初期には百済宿禰永継とその祖先の飛鳥戸氏を祀っていたとされ、元々は渡来系氏族の村の守り神だったように見られる。後に訪れる飛鳥戸神社で詳しく触れることがあろうが、この辺り周辺の山々には渡来系氏族の群集墓があちこちにある。8世紀を中心とした羽曳野5郡の氏族分布を郡別に見ると、近つ飛鳥、つまり後の安宿郡に在住した14氏族のうち9氏が渡来系で、住民の60%を超える人々が渡来系だったとされる。

上:杜本神社参道、宮山山頂にある本殿に続く 下:杜本神社本殿
上左:飛鳥千塚古墳群の分布図 同右:鳥居から見た町並み 下左:玉垣には真銅、麻野、金銅の苗字が並ぶ 同右:寄付者にも3者の名が・・・

 杜本神社への石段に沿って立つ玉垣に書かれた寄進者の名前に、金銅、真銅、麻野などの苗字が目立つ。これらの苗字は全国的にみても、羽曳野市内在住者がずば抜けて多い。同じ読みでも、金属名や繊維名の漢字を苗字にしていることに注目すると、それらは古代に渡来人が伝えた先進技術、金属加工や織物などの技術から派生している気がするが、どうだろうか。

近つ飛鳥

 駒ヶ谷の集落を抜けて月読み橋を渡り、飛鳥川左岸を上流に向けて竹内街道を歩く。なだらかな丘陵の間を流れる川筋に沿った道で、近鉄南大阪線が平行して走る。ブドウ畑の低い棚があちこちにみられるが、大きな建物もなく、彼方に二上山の山端が見え隠れしながら、古代から変わらないようなのどかな風景が続く。

上左上:飛鳥川に架かる月読橋 同中:飛鳥川上流を見る 同下:古街道と並行する近鉄南大阪線 同右:飛鳥から太子への歩行軌跡(カシミール3D ) 下:古代と変わらない飛鳥の風景

 近つ飛鳥、つまり羽曳野市飛鳥に差し掛かる。竹内街道に沿って広がる集落で、河内の地元にとって飛鳥といえばこの地域を指す。私の祖父の代に姻戚関係があり、飛鳥に何度か連れて来られたこともある。今はどの家かわからないものの親近感がある。集落入り口辺りの家々は飛鳥川に架かる橋を持ち、そこを渡って玄関に入る。飛鳥と言えば、川の作るこの風景をいつも思い出す。

上左:飛鳥集落の入口、前を川が流れ、橋のある家々の風景 同右・下:竹内街道沿いの昔ながらの家が並ぶ風景

 今回は飛鳥戸神社に行くため、地蔵堂のところで左に曲がり飛鳥川の流れに沿って坂を上る。軽トラぐらいしか通れないような細い道を行くと、道を跨ぐ形で石の鳥居が立っている。よく見ると、鳥居の右側の脚が路面上にあり、道の左側に偏って立っている。以前にはこの道はさらに細く、牛車なりの車両の運搬が普及し出した頃、右側を1m程度拡幅したのだろう。そのため右側の鳥居の足が道路上に立つことになった、そんなことだろうか。

上左:飛鳥周辺マップ(カシミール3D) 同右:飛鳥戸神社への道 下左:その道は軽トラしか通れないくらいの細さ 同右:道上に建つ飛鳥戸神社の石鳥居

飛鳥戸神社

 200mほど上り、家並みが途切れ、ブドウ畑が現れたところに飛鳥戸(あすかべ)神社があった。雄略天皇の時代、昆支王(こんきおう)は百済21代王・蓋鹵王(がいろおう)の子、または弟とされる人物で、高句麗と激しい勢力争いを繰り広げていた時、百済と同盟関係にあった倭に支援を求め昆支王を遣わした。その末裔とみられる飛鳥戸氏は飛鳥周辺を拠点として活躍したが、飛鳥戸神社は先祖である昆支王を祀るために創建された。ここはうっそうとした森に囲まれた神秘的空間の中にあるのでなく、谷間に落ち込む斜面を切り開いた狭い土地にあり、一段高い境内地に小さな祠がポツンと建つ。寄進者は多く、境内が良く手入れされているところを見ると地元の信仰は篤いようだ。

上左:飛鳥戸神社。石段を上り本殿へ 同右上:岡の中腹にある神社全景 同下:拝殿 下左:本殿 同右:岡の上から見た神社の本殿・拝殿

蘇我満智とは

 「百済本記」には上記とそっくりな話があり、高句麗に攻められ蓋鹵王が、子・文周に難を避け王統を続けて欲しいと告げ、木満致(もくらまんち)・祖弥傑取(そやけっしゅ)とともに南に落ち延びたとあり、その満致が蘇我氏の祖先で満智(まち)とされ、蘇我氏=渡来人とする説もある。その確証は得られないが、蘇我満智については雄略天皇の時代、『古語拾遺』に「蘇我満智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校しめ、秦氏をして其の物を出納せしめ、東・西の文氏をしてその簿を勘へ録らさしむ」とあり、蔵の設置と管理を蘇我氏の部下である秦氏と東•西の文氏という渡来系移住民を使って三蔵の管理システムができていたことが述べられている。雄略天皇の頃、蘇我満智は渡来人のリーダーとして活躍していたことがわかる。

 つまり、蘇我満智は蘇我稲目の3代前の先祖で、稲目が中央政府で実権を持つ6世紀中頃よりも以前、5世紀後半の雄略期を通じて大王に近いところで国事を執っていたと考えられる。河内における渡来人の居住地の配置やそののちに拠点となる寺院などの建設にも監督権があっただろう。西文氏を古市の西琳寺、船氏を野中の野中寺、葛氏を藤井寺の葛井寺へ配置するなど、これらの事業にも関与したであろう。5世紀後半、葛城氏本宗家の没落を見て、葛城と国境を接する太子方面への勢力拡大も意図し、その布石としても配下の飛鳥戸氏を飛鳥周辺の地を治めさせようとした、そのようにみてとれるのだが。

蘇我氏系図
蘇我氏の系図稲目の前に満智韓子高麗の3代が並ぶ

観音塚古墳

 さらに山の方に向かい、飛鳥戸氏の有力者が眠る観音塚古墳に向かう。南河内グリーンロードを渡り、仲村ぶどう園を過ぎると飛鳥新池に着くが、池の堤道の左側に開けた斜面が現れ、そこを上る。鉢伏山から派生する尾根の上、標高98mにそれはある。周りを見渡すと、どの山の斜面にもブドウ畑が広がる。この東斜面も以前はブドウ畑として利用されていたが、古墳発見以来、昭和56年(1981)に国史跡に指定され、遺跡整備された。

上左:頂上に観音塚古墳がある東斜面 同右上:グリーン道路を渡ると仲谷ぶどう園 同下:飛鳥新池 下:古墳上から見た周辺山地の風景、全面にぶどう畑が広がる

 古墳は大きさが約12mの円墳か方墳で、高さは約2.5m、北と西の山側には濠と考えられる凹地が見られる。南に開口部を持ち、奥に横口式石槨が営まれ、前室と羨道が続く。内部に入ることができ、まず前室の石積みの精巧さに目を見張る。付近で採れる石英安山岩を使用するが、表面は滑らかで、水平垂直に真っ直ぐの線の切石が隙間なくびっちり積まれていて、つい最近電気ノコで切ったのかと思えるくらい精巧な仕上げなのだ。天井石の内部を屋根型に整形したり、石室への高さに合わせた切石が据え置かれたり、実に几帳面な作りだ。石槨部は板石の組み立てではなく、石塊をくり抜き空洞を作りその上に蓋を載せている。よく見てもなかなかわからないのだが、石塊のくり抜きとわかった上で観察していくと、側面同士、それらと底部との角は滑らかで同じ石質で繋がっていることがじわじわと見えてくる。よくぞこんな巨大な空洞を彫ったものだと感心する。横口式石室と平滑な石面、高度な石積み技術は朝鮮半島からもたらされたもので、渡来系氏族が築いたものと見られる。石室の構造などから、古墳時代終末期、7世紀中頃に築かれたと考えられる。

上左:観音塚古墳全景 同右上:古墳周囲に濠があったように凹地が回る 同下:横口式石槨の説明板 中左:前室から石槨部を見る 同右:側壁の表面は滑らかで、精巧な石積 下左・中:天井石の内部を屋根型に整形している 同右:石槨部は石塊をくり抜いてあるので、石の継ぎ目がない

聖和台の意味は?

 上ノ太子駅に戻り一息ついて、竹内街道を太子に向け歩いて行く。近鉄線の踏切を過ぎると南阪奈道路の高架道が空中を跨ぐ。その南方に里山の東斜面を切り拓いた新興住宅街の聖和台が広がる。昔は所々にぶどう畑が点在するのんびりした風景だったが、すっかり変わった。何故「聖和台」という名か。南端に「和をもって尊し」とする聖徳太子が眠る叡福寺があるからだろうが、その御廟のみを残して周辺山地のことごとくを住宅地にしてしまっていて、その罪滅ぼしもかねて太子の教えを名称に付け加えた、ちょっとうがった見方かな?

上左:近鉄線踏切 同右上:南阪奈道の高架を潜る 同下:太子へ向かう国道166号線は竹内街道でもある 下左上:166号は旧道の竹内街道と別れる 同下:旧道の竹内街道 同右:聖和台、太子、春日周辺を示す航空写真(グーグルマップ)

 竹内街道の古市以東の大半は国道166号線となるが、駒ヶ谷、上ノ太子の街中ではセンターラインもない狭い道路だった。近鉄の踏切くらいから2車線道路になっていて、車の往来も激しいが、これは聖和台開発に伴って拡幅されたのだろう。まだ新しい住宅街の中の太い道路をしばらく行くと、右に入るクネクネした道が見えてきた。元の竹内街道と見られ一安心する。

二上山が大きい春日

 春日という集落に入って来たが、幼少の頃「あそこの嫁さん、春日から来やはってん」などと耳で覚えた地名の場所をリアルに行くことに、ちょっと興奮する。道が小刻みに曲がるところが、昔から手付かずのままにある古道の所以。竹内街道は標高110m程度の山並みの東麓を通るが、その沿道に広がるのが春日の集落だ。山沿いにお寺や墓地が見え、谷水を堰き止めた新池というため池の下を通って行くと、町名の元になった春日神社に行き着く。

上左:春日の町中の竹内街道 同右下:新池手前で左に曲がる。右手には墓地が広がる 下左:新池 同右:春日墓地が山裾に広がる

 山の中腹に神社が建ち、そこへ向かう坂道の参道がついている。それほど大きくはない集落にしては立派すぎる神社だ。石段をハーハー言いながら登り、参拝をすまして振り向くとびっくり、息を呑むような風景とはこのことか。私が日々目にしているのとはまったく違って、巨大な二上山が目の前にデーンと迫る。近くならばこそ、山肌の起伏が手にとるようにわかる。ありがたいことだと、思わずこちら向きにも手を合わせて拝みたくなる。大迫力の二上山を毎日眺められるとは、この地の人はなんて幸せなことだ、とうらやましく思う。ちなみに、「日の出マップ」によると、春日神社から二上山のど真ん中に日の出が見える日時は、3月31日と9月11日ころ、いずれも朝5時40分前後ということだった。

上左:春日神社から見た二上山は迫力満点 同右上:神社参道を上る 同下:本殿 下左:鳥居越しに見える二上山 同右:春日神社の日の出マップ。3月31日・10月11日ごろに二上山のど真ん中から日の出が見られる⁈

 目下、本殿下の石垣付け替えの工事中。大規模なもので大金がいるだろう。工事の人に聞くと、この辺りの方は皆さん春日神社を大事にしてますよ、ということだったが、私に言わせれば、ここから大きな二上山をいつまでも見ていたい、そんな気持ちがこの神社を大事にさせているのだと。そんな気持ちがつながって、大金のいる石垣改修工事も可能になった、重ねてそう思う。

上左:光福寺下の立派な古民家 同右上:新築された地蔵堂が古道脇に立つ 同下:小学生がにぎやかに帰ってくる 中左:鎌田邸の大楠は樹齢250年という 同右:街のあちこちで二上山がうかがわれる 下左上:街道上で中学生がふざけている 同下:すぐ左に太子町役場 同右:黒壁が美しい街道沿いの古民家

 落ち着いた雰囲気の町中を歩くと、どこからも二上山が見えるが、やはり春日神社からの眺めがダントツに良い。優に100年を超える邸宅がたくさん残り、どの家もよく手入れされている。地蔵堂も新築され、美装化された街道にはゴミひとつ落ちていないし、学校から帰る子ども達の声も明るい。経済も心も豊かな町のように思われて、あれもこれも二上山が間近に見えるからこそだと、一人合点しているのだ。気持ちよく歩いていると、もうすでに竹内街道は太子の町まで来ているのだった。

蘇我氏の野望

 渡来人の統括者としての蘇我氏は、葛城氏の没落を見届け、太子地域に勢力を広め、竹内峠越えから葛城の地へと進出をねらっていた。蘇我稲目・馬子の時代には遠つ飛鳥に本拠を移すことになったが、蘇我氏が政権中枢に入る頃から、東方への進出計画を持っていたはずだ。そこへの中継点として、近つ飛鳥、春日、山田、そして太子を我が物とする布石を打っていたに違いない。

 そのことは安閑天皇陵の時に考察したが、大和化を図るため和爾氏出身の妃を安閑天皇に嫁がせる計略の中にも見てとられ、その妃の名を春日山田としたことにも表れている。古市〜近つ飛鳥〜春日・山田〜太子〜竹内越え〜葛城〜遠つ飛鳥。この進展の並びの中に、蘇我氏がいずれ天下を取ろうとする野望が見え、日本国支配の計略が策謀されていた、そう考えるのだが‥‥。(探検日:2024.5.22)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(2)件のコメント

  1. 田中弘一

    お疲れ様でした。いつもらながら丁寧に南河内地区を伝えて下さりありがとうございます。

    1. phk48176

      いつもありがとうございます。これから暑いので大変です。今後ともよろしくお願いいたします。

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