金剛バスが廃止になり、太子方面に行くには近鉄バスと太子エリア内の巡回バスを併用することになる。1時間に1本程度の運行だが、うまく使えばそう不便でもない、たまにしか出かけないヒマ老人としては‥‥。その近鉄バスで喜志から太子に向かう。前回からの続きで、磯長谷古墳群を中心に巡り、その足で竹内峠を越え大和の地へ行こうとしているが、今回はその前半、春日・山田の地を巡っていく。
「春日・山田」の地政学的意味
二上山から葛城・金剛山系の大阪側はなだらかであるが、東側の奈良側は急峻な斜面が続き、谷筋はほとんどまっすぐに御所平野に落ちていく。このブログ「葛城一族の跡を訪ねて」の時何度も経験したが、金剛葛城の山陵は陽が落ちると逆光効果もあって絶壁の如くで、神の出現を思わせる幻想的な風景を作る。一方、西側の複雑な山陵と谷筋が入り組む太子町区域では、古代より丘陵地を中心に人々が住み着き、多様な活動をもたらした。その中でも画期なものは、蘇我氏が大和政権の中枢でその勢力を拡張しようと計画的に配置した「王陵の谷」と言われる磯長谷古墳群と、現代にも継承される叡福寺を核とする宗教文化である。山あり谷ありの複雑な地形がもたらしたもの、古代人はこの土地にどのような意味をもたらしたのか、つまり安閑天皇妃の名前、「春日・山田」の地政学的意味をさまざまに考えてみたい。
敏達天皇磯長中尾陵道
王陵の谷を西側から入って行くが、入り口にも当たる場所に敏達天皇陵がある。ここは喜志から近つ飛鳥博物館へ行く時いつも通るのだが、御陵の名を冠したバス停があるとは知らなかった。バス道を離れ右に、つまり西の小高い丘の方に歩く。樹木がうっそうと茂る高みは敏達陵ではなかろうかと予想しながら上っていくと、果たして御陵の入り口があった。宮内庁管理の手入れの行き届いた御陵拝観道、つまり「敏達天皇磯長中尾陵道」と言い、175mもある長い坂道が続く。
上左:敏達量から葉室古墳群への歩行軌跡)カシミール3D) 同右:近鉄バス「敏達天皇御陵前」で降りる 下左上:バス停から見る敏達陵の稜線 同下:敏達陵への道 同右:敏達天皇磯長中尾陵道の入り口
敏達天皇陵
山尾根上の敏達陵に到着、拝所で手を合わせ裏に回ると、墳墓と拝所を区切るまっすぐな道が付いている。樹木はあたり一面に生えているが、よく見ると道の土手に沿って深い凹部がある。30mほど行くと直角に曲がり、そのままどこまでも続いている。道の外側は山塊の麓まで落ちる崖になり、内側は深さ2m、幅5m程度の溝を作っている。この溝は外濠で土手道が外堤、目の前で盛り上がるのが墳丘となる、れっきとした前方後円墳なのだ。墳丘、濠、外提などという見方をしない限り、樹木が生い茂る山としか言いようがない。後円部の円周部を回って反対側の外提に出てしばらく行くと、木もまばらになり墳丘のくぼみらしいものが見えてくる。やはり前方後円墳であることが確認できるのであった。墳丘長93m、後円部径58m、前方部幅67mという、大型古墳だ。
上左:墳墓と拝所を区切るまっすぐな道 同右上:敏達陵拝所 同下:道の土手に沿った深い凹部 中左:前方部から見た外提。外側は山裾まで崖になってる 同右:後円部の外提 下左:後円部の盛り上がり 同右:一段低くなる墳丘のくびれ部
敏達天皇は廃仏派!?
敏達天皇は、継体天皇と手白香皇女の間にできた欽明天皇が父で、母は継体の孫、宣化天皇の子・石姫であり、いずれも継体天皇の系列で大和化していく過程の中で生まれた。廃仏派と崇仏派が激しく対立する渦中にあり、敏達天皇は廃仏派寄りであった。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇14年(585)に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年、敏達は病が重くなり崩御したとされる。仏教を巡る争いは用明天皇の後継者を巡る争い(丁未の乱)を引き起こし、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼすまで続いた。その最中に登場してきたのが聖徳太子であった。
左上:五条野丸山古墳 同下:梅山古墳(檜隈坂合陵) 右:古市から河内太子に古墳がある天皇・太子と蘇我氏の系図
敏達とは異母兄弟である用明、推古は、欽明天皇と蘇我堅塩姫との子で、天皇系列が蘇我氏出身者主流になる。敏達天皇は、大和王権の系列外の継体から出てき、蘇我氏との関係を強化しようとしたが、意思半ばで崩御し、大和系列の母・石姫の太子西山古墳(現敏達陵)に合葬される形になる。6世紀末の前方後円墳最後の一つで、その位置は、蘇我氏との関係も持ちながらも推古陵や用明陵のある王陵の谷の中心部ではなく、そこへの入り口、河内との境に当たる場所に配置されたとみられる。
同じく継体の子である欽明天皇は、直接に蘇我出身の堅塩姫を妃にしたことから、蘇我稲目、馬子が政治の拠点を大和飛鳥に置こうとしていたころ、その先鞭を切るかのように墳墓を大和飛鳥に置かれた。梅山古墳とする説もあるが、6世紀末の最後の前方後円墳の一つであり、奈良県最大、墳丘長318mの五条野丸山古墳とされる。
葉室の集落
来た道を戻り、先ほどのバス道へ出る。近つ飛鳥博物館へは自転車で行くことが多いが、その効用というもので、最近、葉室の集落の中を通る近道を見つけた。古い家屋が続き、時代に取り残されたような雰囲気の中を行く。「北野重次郎」という名の戦没碑が村の辻に立てられていたり、廃屋だろうか急傾斜の屋根を持つ民家、人一人しか通れないような坂道があちこちに付いていたり、もう何百年もそのままの村という感じだった。斜面に家々が集まった集落だったので、太い道が付けられなかったからだろう、開発の手が入っていない。坂を登り切った所を太い道が横切るが、右に行けば近つ飛鳥博物館、左に上って行けば葉室古墳群に行き着く。
上左上:葉室集落の入り口にある地蔵 同下:北野・・・という名の戦没碑 同右:細い坂道 下左:急傾斜の屋根を持つ民家 同右上:リヤカーなら通れそうな坂道 同下:右に行けば近つ飛鳥博物館
葉室古墳群
右手に円墳のような土盛が見え、それを取り巻く道を下っていくと、幾つかの古墳が集まっているのがわかってくる。右手に見えていたのが釜戸塚古墳で、径45m、高さ5mの円墳、古墳周りには馬蹄形の掘割があった。全長15m程度の横穴式石室が埋められていたが、これは後に見る聖徳太子御廟と同程度の石室と考えられる。古墳周辺はベンチや遊具などがある史跡公園に整備されている。子ども達が自由に遊べる小山がある、これが径30m、高さ4mの円墳もしくは方墳と考えられる葉室石塚古墳。全長10.6mの横穴式石室があって、破壊されていたが家型石棺があった。うっそうと茂る竹藪で覆われているのが、東西75m、南北55m、高さ8.5mの長方墳、または双方墳とみられる葉室塚古墳だ。周りの一部に外濠が残る。
上左:円墳の釜戸塚古墳 同右:葉室古墳群全景 中左上:葉室石塚古墳 同下:
古墳群のある葉室歴史公園 同右:葉室石塚古墳の墳丘上から 下左:長方墳の葉室塚古墳 同右:外濠は今はため池に
磯長谷古墳群では、天皇陵以外で周濠があるのは、釜戸塚古墳と葉室塚古墳のみなので、これらは相当有力な豪族の墓とみられる。長方墳または双方噴の形式では、近くに推古陵と二子塚古墳があり、それらとの共通性も指摘される。葉室塚古墳は、規模的には大王クラスであり、敏達陵との関連性、また天皇に匹敵する豪族、特に蘇我氏の墓とする説もある。葉室古墳群の南方にあり、同時期に造営された一須賀古墳群は、蘇我氏に関係のある渡来人の墳墓とされることから、蘇我氏との強い関連性も認められる。古墳群の築造が古墳時代終末期の6世紀末、および7世紀前半とされるが、まさに蘇我氏が勢力を大きく伸長させていた時期で、蘇我氏の意図に基づいて築造されたのは間違いなかろう。
春日、山田、葉室そして太子
富田林太子線の自動車道に出ないで、手前の小高い丘を通る小道を行く。二上山を南方の近い距離から望むことになり、その分、南側の雌岳が大きく見え、雄岳と同じ大きさになって現れる。私が普段見慣れている形でないので、これも二上山なのかと不思議に感じながら、いつまでも見入ってしまう。コロナ前には割と繁盛していた料亭「花さき亭」は健在のようで、もう10年前になろうか、町会の役員会で宴会したのが思い出される。こんな田舎で、というのは失礼だが、おいしかった。標高94mのこの地から谷を隔てた丘陵の南面に墓地が広がるが、それは山田西共同墓地と言い、太子ではなく山田地域である。
上左・同右上:山田へ向かう地道 同下:料亭「花さき亭」 中左:高さは同じように見える二上山 同右:山田西共同墓地 下:春日、山田、葉室、太子の地域境界線
一口に太子と言っても、春日、山田、葉室、畑、そして太子という地域があり、それらが合併されて太子町となった。町役場周辺で太子と山田の間に春日が食い入る複雑な形になっている。古代史としては、行政区域の太子町とは別に古代からの地域、字名が重要なのだ。古墳で言えば、叡福寺・聖徳太子御廟は太子、用明陵が春日、推古陵が山田、敏達は西に離れて葉室と太子の境目にあり、それぞれの地区が一つずつ天皇陵をいただくという形だが、これは偶然だろうか。
推古天皇山田高塚古墳
山田地区は面積も大きく、二上山から南部の平石峠辺りまでの山地を占め、奈良県と境界を接して広がっている。山田という名にふさわしく山沿いに田畑が広がる。人が住む山間部は二上山の南部、竹内峠を隔てた神山(標高326m)から幾つにも分かれた尾根裾の丘陵地に存し、複雑な地形を形成している。
左上:葉室から見る二上山 同下:山田から平石方面を見る 同右:二上山と神山の山裾に広がる山田地区(カシミール3D)
葉室から山田に入っていくと南方に視界が開け、いく層にも重なった田畑の中で一際高くそびえる森が否応なく目に入る。それが推古天皇陵で、東西59m、南北55mと東西に長い長方墳。墳丘は3段築成で、3段目が特に高く傾斜も急になっていて、南斜面に横穴式石室が二つ並ぶ双室墳と推定される。橿原市の植山古墳で合葬された推古天皇とその子の竹田皇子の墓をここに改葬されたものとされる。律令制へと大きな改革を成し遂げた女帝にふさわしく、その偉業をたたえるかのように、極めて良好なランドマークになっている。
上左:そびえ立つように見える推古天皇陵。北西側から見る 同右上:北東側から見る 同下:東側から見る 中左上:拝所 同右:葉室から山田への歩行軌跡(カシミール3D) 下左:西側から見あげた推古陵 同右:推古陵付近から見た棚田が広がる山田の風景
葛城と接す春日・山田
推古の父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘で馬子の姉の堅塩姫だった。同じく欽明の子の敏達とは違って、政権中枢で最大の権力をもった蘇我稲目・馬子とは血縁の仲だった。兄に用明天皇、その子であり推古の甥であった聖徳太子、こういう血縁者同士が隋となった新生中国を手本にしながら、独自の改革の道を探っていった。政敵であった物部守屋氏を撃ち(丁未の乱)、仏教を国教とし、国をまとめる精神支柱とした。仏法を受け入れなかった敏達に対して、用明は天皇として初めて仏法を受け入れた。配下の豪族に仏教寺院の建立を命じたが、これは先進文化の受容のみならず、王権に対する忠誠の証しでもあった。こういった政権の在り方が、磯長谷に展開された墳墓の形状やその配置となって表れていると言えるだろう。
春日・山田地区は河内から大和・葛城につなげる接合部で、二上山を越えるとそこは葛城の地である。雄略帝の時、葛城氏本流が滅亡し、その支配力が衰えていく中で、蘇我氏は葛城地域へ進出する機会を伺っていた。推古朝に都から難波へ大道を引くとしたのが竹内街道であるから、この事業は葛城地域への支配が明確になった証だったと言える。推古天皇の革新性と強大さの象徴として山田地域に巨大方墳が築造され、その前段階に春日地域に用明陵が築かれた。さらに聖徳太子が眠る御廟周辺、つまり太子地域を聖域とした。蘇我氏による磯長谷支配の先駆けが葉室地域に築かれた敏達天皇陵、河内・太子さらに葛城の支配が明確となって後、孝徳天皇陵を竹内街道沿いに築いた。蘇我氏の支配領域を河内から葛城・大和に拡張していこうとする野望は、すでに雄略朝に芽生えていたとみられるが、その意図の下に近つ飛鳥、春日、山田へと支配力を強めてきたことは今まで見てきたことである。さらに付け加えるなら、古市で触れた仁賢天皇皇女が安閑天皇の妃となり、春日山田皇女と名付けられた政治的な意味が、ここにきて明確になったと言えるのである。
自宅から自転車で近つ飛鳥博物館まで行けるという地の利のよさに改めてうらやまし〜い!
今回は蘇我倉山田石川麻呂のことに触れられませんでしたが、山田地域を河内側の本拠としていたのでしょうね。飛鳥の山田寺跡のあたりの地名にも山田があり、東側に山地で川もあり….地形的にも河内側と飛鳥の両山田は似ていて興味深いです。
重箱の隅をつつくようですが、「葉室の集落」の段落の4行上、「蘇我出身の堅塩姫を皇女にした」とあるのは誤植ですよね? 欽明天皇の妃です。
全くその通りです。訂正しております。こんな誤り、他にもいろいろあるのでしょうね。今後ともよろしくです。実は、わたくしも壬申の乱、大海皇子の進軍軌跡を歩くという企画を立てているのですが、いまだ実行にあらずです……。次回は竹内峠越えをします。次々回は、横大路を長尾から桜井まで、一日かかって歩こうと予定しています。どうなることやら?
このたびは、私の母方の故郷を紹介下さりありがとうございます。母は、畑で生まれ春日で育ち、祖母は、葛城市の当麻寺から祖父の元へ嫁入しました。ちなみに父親は、奈良県平群町から、養子として婿入りしています。
コメントありがとうございます。昔は近隣の村同士で、嫁に行ったり、養子を迎えたり、そんなことのようでした。私の祖父の妹は太子の植木家に嫁に行っていますが、次回に「伝・蘇我馬子墓」を訪ねますが、現在、植木要という方が墓碑を立てています。蘇我氏と植木氏はつながりがあるのか?なんて考えています。