いよいよ叡福寺・聖徳太子御廟へと向かう。竹内峠で隔たれて二上山の西南に位置する神山、その尾根筋がつくる丘陵部に東條、山田と春日、そして太子の集落が乗っていて、古来安定した生活基盤が成り立っている。この丘陵部の両側に谷が走り、北側の谷筋が叡福寺前を通る旧道の府道32号線であり、南側にはバイパスの美原太子線が通っている。南側の谷筋を下り、関電の変電所を過ぎた辺りで少し上るとぶどう畑が続き、太子に属する向少路という集落に入る。一時代前に戻ったような、細い道沿いに昔ながらの家々が並んでいる。
蘇我馬子の墓?
「伝蘇我馬子墓」と地図に載る一角があるのだが、墓標には蘇我馬子の塚と言い伝えられ、また妹子大臣塚と記されており真実は定かでないと書かれているのだが、「植木家墳墓」とタイトルが付いている。植木姓に私の祖父の妹が嫁いでいて、幼少の頃はよく行き来をしていた。その一族であろう植木要氏がこの墓標を建てているが、植木氏は蘇我氏の傍系氏族なのだろうか。親戚の植木さんは、娘さんが継いでいると聞いているが、もう何十年も付き合いがないので確かめるのも憚られる。町の地図に伝とは言え「蘇我馬子墓」と記載されているのだからそれなりに確かなのだろうが、植木氏が元蘇我氏だったとは聞いたことがない。
上左:向小路のぶどう畑 同下:向小路の集落が見える 上右:伝蘇我馬子墓 下左:植木家墳墓と書いた墓碑 同右:多層塔
向小路
この辺りは向少路という字名の小さな集落だが、どの家前も掃き清められチリ一つ落ちていない。集落のはずれというか叡福寺に面して西方院がある。聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信尼(蘇我馬子の娘)・禅蔵尼(小野妹子の娘)・恵善尼(物部守屋の娘)により建てられた尼寺である。境内は掃除が行き届き、庭木もよく手入れされ、今ちょうどハスの花が咲きだして清潔感あふれるお寺だ。聖徳太子を崇め、千数百年もこの尼寺を守ってきた町だからだろうか、優しさとともに気品のある町並みを作っている。
上左:西方院 同右:向小路の蔵 下左:西方院のハスの花 同中:3人の尼公が剃髪したと・・・ 同中・右:向小路の町並
西方院―叡福寺の軸線
西方院の境内を出て北を見ると、叡福寺が真正面に見える。ここは標高65m、聖徳太子御廟前は69mあり、その間に10mほど低い谷が通っている。谷を隔てて南北にまっすぐ繋がるというロケーション。ギリシアのアクロポリスを思わせるような軸線が明快であり、西方院と聖徳太子との信仰関係がゆるぎなく存在することを示している。仰ぎ、振り返りし、西方院と叡福寺両者の見え方を確認しながら、石段をゆっくり下りていく。昔の人も上り下りしながら、聖徳太子の徳を身に沁みさせ、両寺の見え方を楽しんでいたに違いない。
上左:西方院前から叡福寺を見る 同右:叡福寺への階段下から西方院を見上げる 中左:階段途中から叡福寺を見る 同中:階段下の橋掛 同右:叡福寺前 下左:西方院と聖徳太子御廟の軸線を示す 同右:叡福寺南大門から西方院辺りを見る
聖徳太子御廟
叡福寺には小さいころから何度も来ている。私の家は融通大念仏の本山、平野大念仏寺の檀家だが、大念仏寺に納骨すると同時に叡福寺にも分骨している。どういうことかわからないが、長年の決まりで、周辺の家もそうしているし、河内では太子信仰が特に強い。特に我が家では、身内が叡福寺近くに嫁いでいることもあり、太子には縁が深く、祖母などは「平野さん」とともに「お太子さん」と親しく呼び習わしていた。
左:南大門から叡福寺境内を見る 右上:南大門への階段 同中:境内から御廟を見る 同下:聖徳太子御廟
南大門への階段を駆け上がり、そのまま境内を真直ぐに進み、また石段を上ると聖徳太子御廟前に至る。聖徳太子御廟は宮内庁管理で、御廟内には入れないことになっているが、誰も遮る者はいないので、今回も堂々と御廟の外周道に入る。ほんの5分ほどで一周できるのだが、やはりお参りするという敬虔な気持ちになる。
左3点:御廟の外周を回る 右上:御廟拝殿 同下:御廟の平面図
径54・3m、高さ7.2mの円墳で横穴式石室があり、太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟というもの。太子信仰の高まりとともに、四天王寺と叡福寺の拝観ルートが設定され、拝観料を取ってこの石室まで入ることを許されたこともある。太子御牙歯を舎利として販売したり、皇族をはじめ、叡尊、親鸞、日蓮、一遍などの高僧が訪れ、そのことが様々な文書や図絵に描かれてきた。中でも「一遍上人聖絵」は最も有名で、古墳をご神体のように、墓前や拝殿で僧が念仏を上げるような絵になっている。このように歴史的事実を伝説として情報化するとともに、興行も含めイベントや観光事業を継続することで太子信仰が大きな盛り上がりを見せた。それも権威による布教ではなく、庶民の中で育まれたからこそ大きな広がりになったのであろう。現代人にも「お太子さん」と呼ばれる所以であろう。
上左:御廟拝殿軒下には、太子、母皇、妃を阿弥陀三尊に見立てたレリーフが掛かる 同右上:三体が合葬された石室(近つ飛鳥博物館展示より) 同下:太子、母皇、妃の棺配置 下:『一遍聖繪』[8]( 国立国会図書館デジタルコレクション)
用明天皇陵
叡福寺前の道を少し上ると「用明天皇河内磯長原陵」の石碑が立つ。『日本書紀』では、用明天皇が崩御され「磐余池上陵」に葬られた後、推古天皇元年(593)に「河内磯長陵」に改葬されたとする。『延喜式』諸陵寮では、この場所は河内国石川郡の所在であったため「河内磯長」とされたのだが、地元の地名を元にした名称として「春日向山古墳」とも呼ばれる。旧の字名から言うと春日に属し、その中心部から見ると南の丘陵地、春日の向こうの山にある古墳ということになる。用明陵は春日のものだという意識は強かったように思われる。
上左:叡福寺前にある黒壁の古い民家 同右上:道路際の一段高い台は、車へのぶどうの積み込み場だったのか? 同下:用明天皇河内磯長原陵の石碑 下左:南東隅から見た用明天皇陵 同右:太子・山田に用明陵のある春日が食い込む形の区割り地図
用明天皇は欽明天皇と蘇我堅塩姫との子であり、推古天皇の兄、聖徳太子の父でもある。蘇我馬子は敏達、用明、崇峻、推古の4代続く天皇の大臣として仕えたが、30歳代のもっとも血気盛んな頃に、崇仏派の用明天皇とともに仏教導入による国家統一を成し遂げようと国政を思いのままに動かした。言わば蘇我氏全盛時代の礎を作ったともいえる。神山の山裾がつくる丘陵部の中腹にあり、ここから西側の太子集落がよく見渡せる。東西65m、南北60mの方墳、3段築成で墳頂部はピラミッド型の四角錐に近い形になるという。回りを一周できる小径が付いていて、回ってみると、民家がすぐそばまで迫り、あちこちに個人の墓が方墳の外周にへばり付いている。それなりの名家の墓と伺われるが、用明天皇また蘇我氏を慕う何かの理由があるのだろう。
上左:用明天皇陵拝所 同右:本文中に出てくる天皇・皇太子と蘇我氏の系図 中左:用明陵南西隅 同右:用明陵の平面図 下左:御陵周辺に取り付く墓 同右:用明陵北側
ふたたび竹内街道へ
葉室、山田、太子の地を彷徨し、磯長谷の古墳群を見て回って、再び春日に戻って来た。いよいよ竹内街道本道へ。太子町役場から六枚橋の交差点に出て、昔のままのクネクネ曲がる街道筋と出合う。春日から続く古い街並みの中を歩くことになり、少し心高ぶる。この辺りは山田地区であるが小字名が大道という。竹内街道を意識した地名であろうが、いかにもこの道を大事にしている気持ちが伝わる。少し行くと「しもの地蔵尊」が道端に建つが、江戸時代中期に安置され、村人や旅人の安全を見守るとされる。大道町の皆さんの本音としては、「下の」世話がかからんようにという願いが込められているように思われる。年がいくとそのことが一番気がかりなのだが…。
上左:春日からの竹内街道 同右:春日から六枚橋に向かう街道 中左:大道集落へ入る竹内街道 同右上:木の板で作られた竹内街道標識 同下:しもの地蔵 下右:右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊
瓦が乗った塀や白壁の蔵、二階建ての頑丈そうな邸宅など、昔のままの街道風景が続くが、この地の名物は何と言っても「大道旧山本家住宅」。街道から分かれて緩い下り道が邸宅に続く。この玄関周りの風景が何とも言えず落ち着いていて美しい。また大きな屋根が街道と同じ高さにあり、昔の建築様式が目の前で見ることができるのが何よりも嬉しい。どうかいつまでも無くならないで欲しいと、切に願うものだが・・・。
上:竹内街道の落ち着いた町並み風景 下左:大道旧山本家住宅の玄関へは街道から分かれ下るように入る 同右:街道上から見た山本家住宅の大屋根
孝徳天皇陵
ぱっと振り返れば、そこは孝徳天皇陵の駐車場だった。静かな山中へと誘うように石段が付いていて、大きくS字にカーブするところを上ると孝徳陵の拝所に行き着く。山頂の盛り上がりを利用した、径32mの円墳という。大阪市の仕事で、孝徳天皇は日本最初の本格的宮殿・難波宮を造った人として大いにPRしていた時期もあったが、古代史を調べていくにつれ、この帝は何か影の薄い方だと感じるようになった。御陵もこじんまりしていて、何か寂しいところがある。
上左:孝徳天皇陵へのアプローチ 同右上:御陵下駐車場 同下:拝所 下左:拝所から見た孝徳陵 同右:御陵への階段途中から見た大道の町
孝徳の姉である皇極天皇は乙巳の変(645年)後に孝徳に譲位しようとしたが、孝徳は3度断り誰も次の天皇になり手がなくなり、仕方なく天皇になったという。孝徳天皇は難波長柄豊碕宮を都と定め、大化の改新詔を発したというが、改新事業の実質は皇太子の中大兄皇子と中臣鎌足だった。中大兄皇子らはあまりに凡庸な孝徳に愛想が尽き飛鳥へ移ってしまうと、孝徳は難波宮に一人取り残され、落胆の末崩御する。その墳墓をどこにするかと考えた時、難波にしてもよかったが実績がない、これから都を築こうとしている飛鳥にはしたくない、ということでその中間の太子、それも山の頂をちょっと削って手間をかけないでおこう、そんなところだろうか。
いざ、竹内峠越え
いよいよ決死の竹内峠越え、というのは大層なのだが、梅雨前のカンカン照りの日中に歩こうというのだから、それなりの覚悟がいる。道の駅「近つ飛鳥の里・太子」でお茶だけでなく、ヨーグルトやオレンジジュースなどの甘いものも飲み英気を養う。
車やトラックがビュンビュン走る国道166号線の歩道部分を峠に向け上って行く。車が通り過ぎるたびに熱風が吹き付け、疲労感がいや増す。道路脇から飛び出る葛の蔓や木の枝の下に影を見付けては立ち止まり休憩しながら、のろのろと行く。汗だくになりながらも、道端に草花を見つけるのが楽しみになる。ヒルガオ、ヒメジョオン、ドクダミ、タンポポのような黄色の花など、どこにでもありそうだが、そんな花でも目に潤いをくれる。そうこうしているうちに、釣り堀が見えてきて、「二上山万葉の森」という二上山への登り口に到着する。平日なのだが、登山客が結構いるのか、駐車場は車で埋まっている。
上左:竹内街道は国道166号線を行く 同右上:二上山雌岳が大きく見えてくる 同下:二上山登山口付近の166号線 下左から:ヒルガオ・ヒメジョオン・ドクダミ・タンポポの一種?
鶯の関跡・竹内峠
しばし休憩し、さらに峠をめざし歩き出す。歩道がないところでは、トラックが来るときは立ち止まり、通り過ぎるのを待つという危険極まりない街道歩きとなる。坂道がなだらかになりだすと右へそれる横道があり、そこを上ると果たして竹内峠だった。金剛・葛城の尾根筋を縦断するダイヤモンドトレールから下りて来る人もいる。危険な車道を歩いて来たからだろうか、なんとなく峠を越えてしまったという感じで、もうひとつ感慨がない。暗峠越えなどは茶店もあって、峠を越えた実感があったけど。ここは標高288m、太子町役場辺りは80m程度だから200mの落差を上がって来たことになるので、結構きついはずなのだが…。
上左:竹内峠は奈良県との境でダイトレと交差する 同右上:峠道は国道からそれて歩道に入る 同下:鶯の関跡 下左:竹内峠 同右:鶯の関跡周辺の青いアジサイ
車の音が消えて、あちこちからウグイスの声が聞こえてきた。立ち止まり聴き入っていると、道端に「鶯の関跡」の碑を見つけた。平安朝には関があったというが、ウグイスは古代から変わらずここで恋の歌を唄ってきたのだ。周りには真っ青のアジサイが咲いていて気持ちが和らぐ。そこから自動車道を横断して北側の山道に入って行くが、この曲りくねった道が元の街道なのだろう。やっと気も休まるのんびり歩ける街道に戻ってきたのだった。
葛城村へ
どんどん下る一方の道で大阪側と比べると急な感じがする。166号線を潜ったりしながらしばらく行くと、視界が開けるところがある。眼下にトンネルから出てきたばかりの南阪奈道が通っているのが見えた。橿原神宮や御所などに行く時はこの自動車専用道を使うが、自宅からは30分以内で行けるとても重宝する道なのだ。スギ林を過ぎると谷間に田畑が見え、元の166号線と出会う場所に来る。
上3点:奈良側では166号線と離れ、街道はスギ林の中を通る 中左:トンネルから出てきた南阪奈道 同中:山間部では放置された農地が目立つ 同右:麓のため池・上池付近 下左:竹内集落付近では田畑は耕作されている 同右:竹内街道と国道166号線の分岐点
葛城市竹内という地名で、道路はぐるぐるとカーブを繰り返すのだが、歩道はその手前で脇道に入り、竹内の集落の中へ入って行く。葛城市上下水道部への道を行くと「竹内街道遊歩道」の標識がある。近年付けられたのだろう、田畑の脇にコンクリート道が伸びていて、車に邪魔されずにゆっくり歩くことができる。「なら四季彩の庭」と題して、葛城の農村風景が楽しめる散策路を整備している。農作業しているそばを歩くことができ、農家の納屋越しに農機具なども見ながら歩ける。こんな近くまで来て邪魔にならないのか心配にもなるが、なんだか楽しい。
上左:竹内集落の民家 同右上:国道166号線から街道歩道が分かれる 同下:遠くに南阪奈道の高架道が見える 中左:田畑の中を行く街道歩道 同中:トラクターで作業されているそばを通る 同右:集落の田畑 下左:蔵を持つ民家 同右:家裏の路地を通る
もう一つの竹内街道
二上山東麓から降りてくる竹内街道は、太子とはちょっと違った趣になる。二上山西麓の太子では、谷や岡が複雑に入り組み、街道はそこを曲りくねって進むが、東麓のここではまっすぐの下り坂。結構急坂なのだが、道沿いに古い家並みが続く。松尾芭蕉もこの地を何度も訪れていて、芭蕉旧跡として綿弓塚がある。転がるようにどんどん下って行く。
上3点:この辺りの竹内街道は二上山から下ってくる坂道になる 下左:綿弓塚 同中:葛城市當麻 スポーツセンターにある「緑の一里塚」 同右:振り返れば二上・葛城の山並みがそびえている
1kmほど行ったところに鬱蒼とした森が現れ、その暗闇の中に吸い込まれるように入る。長尾神社の杜で、踏み慣らされた小径を行くと神社建物の裏側に出た。拝殿は昭和11年新築されたもので、単層入母屋破風掛造とされるが、重厚さがない分モダンな感じがする。
上左:長尾神社正面鳥居 同右上:長尾神社の杜 同下:杜の中の踏み分けられた小道 下左:長尾神社の拝殿は軽くてモダンさもある 同中:竹内街道と長尾街道の交差点を占める道標 同右:長尾神社付近地図。横大路は長尾神社から東へ行く
長尾神社は竹内街道の終着点。堺から竹内街道と2kmほど北を並行して東進し、二上山北麓の田尻峠を越えこの神社に至る長尾街道と交差する。さらにここから東へまっすぐ伸びるのが、飛鳥への幹線道、横大路であるが、この場所は大和と難波を結ぶ交通の大要衝地だった。(探検日:2024.6.14)
次回からは、ここから横大路を桜井まで歩くつもりだ。地図上ではほぼ直線だが、実際にはどうなのか歩いて確かめたい。乞うご期待のほど。
お疲れ様でした。ありがとうございます。
いつもありがとうございます。
峠を越えると、河内とは違う雰囲気がありますね。大和側はどこかのんびりしています。