9月に入っても午後の気温35度もあるとても暑い日、夏の間は外出を控えていたがもう待ち切れず探検に出かける。前回は竹内峠を越えて長尾神社まで来たが、今回はそこから真直ぐ東へ、横大路を行く。桜井までの全行程を踏破しなければならない、なんて考えず、行けるところまで行こうと思っている。
横大路を長尾神社から尺土、高田、曽我町へと歩いた軌跡(カシミール3D)
どこまでも真直ぐな横大路
竹内街道・横大路は、推古天皇の時代、外交の玄関口である難波津と政治の中心である飛鳥・小墾田宮をむすぶ「大道」として整備され、総延長40kmにもおよぶ日本最古の国道だった。今まで、「雄略以後-河内から飛鳥への道」 と題して、蘇我氏の発祥から躍進の過程を河内から飛鳥への展開としてとらえ、河内の藤井寺から始め、古市、駒ヶ谷、近つ飛鳥、太子、竹内峠越えの道筋と軌を一にする竹内街道をたどってきた。いよいよ推古朝、そして蘇我氏が最盛期を迎える遠つ飛鳥の地を目前に控え、彼らが最も注力した交通であり、先進技術や仏教文化を伝えた横大路を探検していく。東西を直線に伸びる計画的な官道で、当時の最新技術の粋を集めた幅20mを越える古代道路。どこまでも真直ぐな道をひたすら歩くことで、古代から中世・近世を経て「横大路」はどのような意味を持っていたのか考えてみたい。
長尾神社から歩き始める
長尾神社の鳥居前から北へ、近鉄・磐城駅に向かって進み、途中の交差点で東へ、国道166号線沿いを歩く。近鉄大阪線の踏切を越えると大きな木戸池があり、池越しに金剛・葛城連峰をバックに雄大な風景が広がる。車がビュンビュン行き交う国道沿いを歩いて行くと、草ぼうぼうの長い土手が続く。二つの四角と一つの長方形の三つの池が並ぶ三ツ池の堤防の下を通ることになる。三つの池があれば、増水時や渇水時に水量を調節しながら配水していける利点があろう。最近の台風10号や線状降水帯などのような異常な集中豪雨が起こっても、このため池なら大量の水を貯めることができて、周りの様子を見て調整しながら配水できるので、水害防止の点からも役立つため池なのだろう。
上左:長尾神社正面鳥居 同右上:鳥居から北に向かう 同下:二上山へと向かう竹内街道 下左:近鉄・磐城駅前の166号線 同中:木戸池越しに金剛葛城山地を眺める 同右:166号線沿いの三ツ池
尺土という集落
池の反対側を見ると昔からの村風景があり、懐かしさに魅かれ国道を渡って村中に入って行く。大きな家が立ち並ぶ集落だが、家と家の間が狭く、行き止まりの道も多い。ほとんど路地のような道を歩いて行くと春日神社があり、その前を過ぎると近鉄・尺土の駅が現れた。駅前広場とかロータリーなどなく、集落の真ん中に駅があるような、唐突な風景に出合わした。この駅が急行も止まり、御所線と分岐する重要な駅なのだが…・・・。
上(3点):大きな屋敷の間を狭い路地が通る尺土の集落 下左:春日神社の側に尺土の駅 同右上:尺土の町中 同下:春日神社
さて、当方が住まいするところも漢字は違うが尺度と言う。二上山を挟んで東西対照的な位置にあるので、何らかの関係はあるのかとも思うが、当方の尺度は元「坂門(さかと)」と呼ばれていたようで、根は同じではなさそうだが、昔から親近感を持っていた。この地域には赤い土がよく取れたところから赤土(しゃくど)という地名だったが、「わずかな土地」と謙遜していう佳字の尺土に変えたと伝わっている。
日立造船尺土団地、はて?
166号線に戻り東進すると、道の南側には日立造船尺土団地、北側にはスーパーやらドラッグストア、コンビニが並び、一大ショッピングセンターゾーンになっている。今まで古い家並みを見てきた者にとって、その景観の落差に驚嘆する。
上:尺土団地と居住者一覧図 下左:166号線沿いに水路が走る 同右上:田んぼの横に新タイプの棟割りハウスが並ぶ 同下:古いタイプの棟割り住宅
日立造船という会社、ごみ焼却発電施設、海水淡水化プラント、汚泥再生処理プラント、こちらが本業だと思うが舶用エンジンなども作っていて大阪南港に本社がある。幅広い分野で技術開発をしているので、住宅団地を造ったのも当然だろうが、ホームページには団地のことは何も出てこない。4階建てで4号棟まであるが、ほぼ満室状態。家賃が安いのだろうが、何故ここにこんなものがあるのか不思議でならない。
格子戸がつくる美しい街並み
既に大和高田市域に入っているのだが、千本桜で有名な高田川の手前に大中公園があり、桜の木の下で一休み。元々はここも大きなため池だったが、半分埋め立て公園にしている。高田川を越えると道幅が細くなり、両側に町家が建ち並ぶ旧市街となる。大和高田はかつて難波と大和を結ぶ、流通の中継地として栄えたという。竪子が規則的に並ぶ格子戸の町家が何軒も続き、優雅で美しい街並を作っている。その先に長谷本寺という名の寺があった。ご本尊の十一面観音像は県の指定文化財だが、これと同一木で刻まれたのが長谷寺の十一面観音像だということから長谷本寺と呼ばれる。本尊の仏足が本堂の扉下に置かれていて、触って仏縁を結ばれよ、と書いてある。探検歩きの足がいつまでも丈夫であるようにという願いも込めて撫でてみた。文化財、それも足だけ切り離して置かれているなんて……、とは思うものの、横大路を旅する人の達者を願っての住職の気持ちだと、だまされているのを承知で素直にご利益にすがってみた。古代人の気持ちもさぞあらんと思うのである。
上左:大中公園 同右上:横大路道標 同下:桜並木の高田川 中左・下:格子戸のある町家 中中:長谷本寺 同右:十一面観音像の仏足
高田の町の南北筋
別の日(9月23日)に、横大路と交差する南北の通りを南端の近鉄南大阪線の高田市駅から北向きに歩いてみた。駅からすぐのところに石園坐多久虫玉(いわぞのにいますたくむしたま)神社がある。『欠史八代天皇の跡を訪ねる』(ブログ「葛城一族の跡を訪ねて」内に所収)にもまとめてあるが、この神社が第3代安寧(あんねい)天皇の片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)跡とされる。古代から人跡のある地域のようだ。
上左下:近鉄南大阪線高田駅前 同右:安寧天皇片塩浮孔宮跡碑 下左:中央道路(県道5号線) 同右:石園坐多久虫玉神社
高田市駅前に直行する中央道路(県道5号線)と枝分かれして旧道の本町通に入るところに「ほんまち」と描いた派手なアーケード看板が架かる。そこから古い街並みをさらに北に行くと横大路と交差し、ここにも同じ「ほんまち」が架かっている。通りには、格子戸の民家、防火壁の商家、アーチ装飾やタイル壁面の近代建築などが並び、和洋がマッチした昭和モダンの匂いがする。最近はポストモダンなビルや和を生かした邸宅が高級感ある街並みを作っているが、一方廃屋も目立つようになり、戦後から高度成長期を経て現代へと続く時代の繁栄と衰退を想い起こさせて、感慨深いものがある。
上:本町通アーケード(左:横大路との交差点 右:中央道路からの入り口) 中左:アーチ装飾のある近代建築(無住) 同右上:横大路の防火壁の商家 同下:ポストモダンなマンション 下左上:タイル壁の近代建築 同下:格子戸のある民家 同右:歯科医院だった家屋
通りを歩いていて目を見張るのが、専立寺の表門、太鼓楼だ。慶長5年(1600)、西本願寺12世准如によって高田御坊(専立寺)が創建された。門前には寺内町が造られ、桑山氏が商人を近郊から集め、江戸時代を通じて綿花の取引を中心に大和の中心的な商業の町として発展させたとされる。さらに北に行くと、近鉄大阪線大和高田駅やJR高田駅、そして市役所や税務署などの官庁がある。高田は横大路に始まり、高田城下として、また専立寺を核とした寺内町、伊勢詣でなど、商業・流通の町として発展してきたが、今では大阪市中心部への通勤電車が止まる駅が南北に三つもあり、大阪の大都市圏の一翼を担う広大な住宅地帯を形成している。
上左:専立寺の太鼓楼、石碑は野口雨情歌碑 同右上:表門 同下:専立寺本坊 中左上:JR高田駅 同下:近鉄大和高田駅に向かう商店街 同右:JR桜井線 下左:昭和36年の大和高田中心部(空撮) 同右:大和高田中心部(カシミール3D )
「大神宮」常夜灯が伊勢街道を伝える
大和高田の市街地を通る横大路はどこまでも真っ直ぐで、車も頻繁に通る普通の道なのだが、ちょっと違うのは、一定間隔で「大神宮」と彫られた立派な常夜灯の石灯籠が立つことだ。時代により街並みはかなり変化したが、ここだけは変わらず、お伊勢参りで賑った伊勢街道の姿を今に伝えている。江戸期の雰囲気に浸っていると、今度は昭和な遮断機のある踏切が現れる。高田駅でJR桜井線と別れた和歌山線の線路が通る。御所、玉手、掖上、吉野口へとつながるのだが、この沿線に葛城氏ゆかりの史跡が随所にあったのを思い出す。
上左上・同右:伊勢街道の道標でもある大神宮の常夜灯・高灯籠 同左中:横大路の街並(大和高田市永和町) 同下:八王子神社(永和町) 下左:JR和歌山線、近鉄南大阪線沿線に点在する欠史8代天皇の史跡(カシミール3D) 同右:JR和歌山線の踏切
街の風景が途切れると、稲田の風景、次には田畑を造成した新興の住宅地が順繰りに現れる。JR桜井線と並行して歩いて行くと、今度は葛城・金剛の東麓を流れ下って来た葛城川によって横大路は分断される。葛城川堤防沿いを走る道路に上り、新設の橋で川を渡る。10年ほど前は迂回せずに横大路に沿うように橋が架かっていたように思うのだが、近年大改修されたようだ。新しい道路は自転車道でもあり、京都の嵐山から奈良県内を経て、和歌山港までを結ぶ、全長180kmのサイクリングルート・京奈和自転車道が2021年に開通した。モーレツからビューティフルの時代からさらに変わり、自動車と自転車、ビジネスと健康が両立する時代になってきた。
上左:横大路沿いにJR桜井線ガードが見える(大和高田市旭北町) 同右上:横大路沿いの田んぼ(今里町) 同下:マンションや戸建て住宅が並ぶ(旭北町) 下左:葛城川堤防沿いに京奈和自転車道が伸びる 同中:葛城川から奈良県北東部の山を見る 同右:葛城川に架かるJR桜井線から金剛葛城山地を見る
曽我町は蘇我氏発祥の地か?
日除けをするものが皆目なく炎天下をただひたすら歩くことになる。頭がぼーっとし、どこを歩いているのか分からなくなるが、「大神宮」の石灯籠が時折現れ、伊勢街道を歩いていることを確認させてくれる。へとへとに疲れたころ大きな道路、国道24号線のバイパスに出る。大和高田バイパスから国道24号線を通り奈良公園に行く時の道で、京奈和道として整備中だが、この部分だけが高架ではなく一般道になっている。いつも渋滞していて、車窓から「曽我町」と書いた標識が目には入っていたが、蘇我氏と関係があるという認識はなかった。田畑が広がるだけの地で、歴史遺産がありそうに見えないが、曽我町は蘇我氏発祥の地かどうか、横大路から外れてこの地をゆっくり歩いてみることにする。
上左上:ソーラーパネルの付いたモダンな住宅(橿原市曲川町4丁目) 同下:田畑に囲まれた旧集落 同右:横大路沿いの蔵のある民家(曲川町2丁目 下左:大神宮常夜灯(曲川町1丁目) 同右上:庚申地蔵尊(曲川2丁目) 同下:国道24号線・曽我町交差点
忌部氏の拠点
行く行くは高速道路になるのだろう、24号線を越えるには地下道を通ることになる。反対側に出てしばらく行くと橋が見えてくる。曽我川が流れ、橋詰には草に隠れて何やら石の造形物が見える。近寄りよく見ると「庚申」と書いてある。四天王寺庚申堂に向かう庚申街道は知っているが、この道も庚申街道なのか?そんなことより横の道標が気になる。自然石に彫り込んだ文字が「太玉社、是ヨリ四丁南」と読める。地図を見ると、川沿いに南へ400mほど行き、忌部(いんべ)町の真ん中に忌部氏の祖神・天太玉命を祀る天太玉命神社がある。
上左:橋詰めにある庚申塚と太玉社道標 同右上:曽我の町へ 同下:曽我川に架かる橋のたもとにある庚申塚など 下左上:川を越えた橋詰めにある石道標 同下:曽我町と忌部町の地図 同右:曽我川
天孫降臨の時、ホノニニギに付き従い、それぞれの上祖である、中臣の天児屋命、忌部の太玉命、猨女の天鈿女命、鏡作の石凝姥命、玉作の玉屋命という五部の神が降臨した。中臣氏も忌部氏も神代から続く氏族とされ、古代より大和王権の宮廷祭祀や宮殿造営を掌った名門氏族であり、蘇我氏の台頭によって力を付けてきた一族だった。ところが大化の改新後、中臣氏(藤原氏)が強大になるにつれ、祭祀上の地位でも優位を示し、忌部氏は弱体化された。同じく乙巳の変で蘇我本宗家が滅ぼされたが、忌部の地は蘇我氏の拠点と隣り合わせにあったからで、忌部と蘇我の結びつきが強かったことが推測される。そうなのか、現地に行けば分かる歴史理解とは、正にこのことだ。
長宗我部元親の五輪塔
木陰のような涼むところはないかと曽我町内に入って来たが、ちょうど光岩院という寺があり、ここならと思って入ってみたが、寺院全体が墓地で囲まれていて、石の照り返しでかえって暑い。寺の軒下に大きな五輪の石塔が立っているが、長宗我部元親の墓と伝わる。土佐の有力大名だったが、関ヶ原の戦いの時に西軍につき、大坂夏の陣で豊臣方として戦い、不運にも刑死し嫡流は途絶えた。長宗我部姓は、蘇我氏の部民の系統で、この寺が蘇我氏の氏寺の陪寺であったことから、元親の儚い末路を嘆き、繁栄を極めた蘇我氏の末路に近親感を覚えて、縁者がここに墓を立てたということだろう。それにしても立派な五輪塔である。
上左上:曽我川を越え蘇我町に入る 同下:光岩院山門 同右:長宗我部元親の墓という五輪塔 下左:光岩院境内 同右:光岩院の墓地
さらに涼所を求めて町中に入って行くが、旧村と隣り合わせの新興の住宅地が現れる。それが途切れた所に天高市神社があって、これで休めると思いきや、杜がつくる木陰などなく、ベターッと明るい境内があるだけだった。八十万の神がこの地に集まり、天照大神が元の生業に戻っていただくよう相談されたと伝承される天の高市(あまのたけち)、つまり高天原の諸神が集会する場所だった。御祭神が事代主命であり、八幡大神でもあり、天照大神への願いの地でもあるという、ちょっと訳がわからない神社だが、今も村社として地元では信仰を集める神社なのだろう。
左:天高市神社正面の鳥居 右:神社本殿
伊勢街道常夜灯
今度は宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社へ行こうとするのである。地図で見ると直線距離800m程度で近くに思えるのだが、国道24号線(京奈和道)を越えなあかんし、飛鳥川沿いをちょっと歩いてみたいし、ということで2km以上になりそうだ。国道24号線の道路沿いでは発掘調査もしている。暑いのにご苦労さまです。西の彼方に二上山が見え、左手の曽我川近くに出屋敷という集落があり、誘われるように村中に入って行く。三叉路の西から来る道の真正面に大神宮の常夜灯が立っている。嘉永四年(1851)、私が生まれるちょうど100年前の建立だが、横大路から外れている。ということは、北からここを通って横大路に合流するのだろうか。
上左:曽我町一周の軌跡(カシミール3D) 同右上:国道24号線沿いの発掘現場 同下:国道24号線 中左上:出屋敷集落への道、西に二上山が見える 同下:出屋敷の大神宮常夜灯が三叉路の正面に立つ 同右:西からの道、正面奥に常夜灯が立つ 下左:出屋敷の集落 同右:横大路の橋詰めにあった石道標、「右たつ田」と読める
そう言えば、横大路が曽我川を越えた橋のたもとに石道標があって、「右たつ田」と読めた。曽我川は北へ伸びて大和川に合流し、王寺辺りで大きく西に曲がる。ということは、龍田から大和川を越え、曽我川の川沿いを通って伊勢街道本道に入ってくるルートがあってもおかしくない。その道筋の伊勢街道近くに出屋敷があり、そこに大神宮の常夜灯が立っていた、そう解釈できる。どの常夜灯を見ても姿が美しく絶妙のロケーションにある。伊勢への旅人はこれが道標になったであろうし、夜などは常夜灯の明かりを見て安心感を得たに違いない。奈良県内の太神宮常夜灯一覧としてまとめている御仁がいて、その数690基を数えている。伊勢への道は幾つも枝分かれしていて、横大路に次々合流して伊勢本街道となっていくのだろう。
大和湖
縄文海進の1万年前までは現在の奈良盆地のほとんどが水没していて、大和湖(古代奈良湖)と呼ばれる湖だった。弥生時代から古墳時代を通じて徐々に水が引くとともに、湖に流れ込む河川が運ぶ土砂により陸地化が進み、湖も小さくなってきた。『古代史のテクノロジー』(長野正孝著・PHP新書)によれば、5世紀前後には、大和川亀の瀬辺りは土砂の堆積により現在より10m程度標高が高く、流れはせき止められ、奈良盆地の北部はまだ水没していた。多くの河川が大和川に合流する河合町の河合大塚山古墳(5世紀後半築造)、川西町の島の山古墳(5世紀初頭築造)などの周辺が標高43m程度であることから推測して、当時の水際の標高は40m程度だという。葛城川、高田川、曽我川、飛鳥川はほぼ並行して北流し、大和湖に流れ込んでいたが、弥生時代には、これらの河川が運ぶ大量の土砂により、陸地化が一段と進んだ。その中でも曽我川は、吉野山地・竜門山地からの水を集める最大の河川で、流域に広大な肥沃な土壌を提供していたと思われる。
左:弥生~古墳~奈良時代の大和湖(奈良湖)推定図(部分・川上仁氏の作成による)。湖は時代が進むにつれ北部に移動して小さくなる。弥生時代には曽我辺りには集落があった(赤い家のマーク) 右:古墳時代の大和湖(奈良湖・『古代史のテクノロジー』より)
曽我川のもたらすもの
出屋敷の集落を下に見ながら曽我川の土手へ上って川沿いを歩く。曽我川緑地という運動公園が整備され、橿原市立体育館が建っているが、その付近からは東側一帯の広大な農地を見渡すことができる。曽我川の豊富な水と肥沃な土地がもたらす産物で、曽我の人々は豊かに暮らしていたことだろう。そのことを証明するように、曽我川の右岸に位置する宗我坐宗我都比古神社を中心として東西200m・南北300mに広がる中曽司遺跡は、弥生時代前期から古墳時代前期までの遺構と土器、石器、木製品(鍬・杵)などの遺物が多量に出土している。この地を治める豪族として蘇我氏が誕生し、豊饒な資産を元に中央へと進出する力を蓄えてきた、そのように言っても十分信じられる土地の豊かさが感じられる。
上左:彼方に二上山を見ながら曽我川右岸を歩く 上右上:曽我川 同下:曽我川緑地と橿原市立体育館 下:曽我川沿いに広がる田畑
蘇我氏の祖神を祭る神社
曽我川の土手を降り住宅地の中を歩いて行くと、こんもりとした森が見えてくる。これが宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社で、『五郡神社記』では、「推古天皇の時に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀る神殿を蘇我村に創建した」とする。一方、社伝では、持統天皇が蘇我氏の滅亡をあわれみ、蘇我倉山田石川麻呂の孫に当たる永末に祖神を祀らせたことをもって創建とする。いずれも蘇我氏滅亡後に書かれた文書ではあるが、蘇我氏宗家が後に軽、豊浦、小墾田、飛鳥にかけて居住地を変えていったものの、曽我の地を由縁としていたことを示すものだろう。また、後に見る入鹿など蘇我氏同族がこの地周辺を本拠地としていたこと、葛城襲津彦を共通の始祖として、曽我川沿いに起こった巨勢氏や波多氏などの勢力を包摂して同族としたことなどを見ると、曽我の地に蘇我氏の起源を見ることは大いに理解できることだろう。
上左:宗我坐宗我都比古神社正面の鳥居 同右上:住宅の向うにか青々とした神社の杜 同下:田畑に囲まれた住宅 下左から:神社参道・本殿・本殿の内部
真菅から曽我町へ
神社前を少し北に行くと近鉄大阪線の踏切があり、その東側に真菅(ますが) の駅がある。駅を中心にして、真菅町と曽我町にまたがって一戸建てを中心に一大住宅街を形成している。難波へ直通する大阪市内への通勤圏だし、京奈和道の橿原ICも近くにあり、とても便利な町になってきた。高田あたりから曽我町にかけて歩いて来て、飲食店など一軒もなかったが、繁華街ともいえる真菅の駅前に何軒か飲食店が並んでいて、ようやく昼ご飯にありつけた。その後、ますます日差しがきつくなる中、曽我町の北端から南端の横大路まで曽我町を縦断することになる。
上左:橿原市立真菅小学校 同右上:曽我町の新興住宅地 同下:新興住宅地と旧集落は国道24号線で分けられる 中(3点):旧集落内にある巨大倉庫のような元畳工場 下左:旧集落内には蔵や板塀の邸宅が見られる 同右:再び横大路に戻る
新興住宅街から旧村の曽我町に入ってくると古い家が続くが、一軒の大きな倉庫のような建物に出くわす。入り口が開いていたので断りなく入って行くと、20mもあろうか、細長い製造ラインをもった機械が横たわっている。よく見ると端の方にゴザのようなものが残っていて、畳の製造機械だとわかる。こんな大型機械を持っているところを見ると、畳屋としては大規模で、何人も雇って作っていたに違いない。大きな需要があり、周辺の稲田から取れる藁があったからだろうが、近年は洋間中心だし、スタイロ畳だし、稲田も少なくなったこともあって廃業したのだろう。時代の盛衰を感じて少し胸が痛くなる。曽我町をほぼ一周し元の横大路に戻り、これからまた東への旅を続けるが、後半は次回にまわそう。乞うご期待を。(探検日:2024.9.4)