横大路は東西に引かれた道ゆえ、傾きだした西日がまともに当たり、道を歩いている限りお日さんからの逃げ場がない。わずかばかりの建物の影を伝い、トボトボと東へと向かう。中ツ道との交差点ともいわれる三輪神社で日没サドンデス。別の日に再開、桜井まで踏破したのだった。
入鹿神社から八木、耳成、中ツ道との交差三輪神社、敏達天皇の訳語田幸玉宮跡などを訪れ、小西橋までの横大路を歩く(カシミール3D)
母の実家に入鹿神社
曽我町から隣町、小綱(しょうこ)町に入っているが、道端に「入鹿神社は左へ0.2km」という標識が出ていて、迷わずそこへの小径に入る。蘇我入鹿の母の実家があり、当時の習慣として入鹿は母の実家で生まれ幼少期まで過ごしたとみられる。入鹿神社には、素戔嗚尊とともに蘇我入鹿が祭られていて、地元では大臣様としてあがめられていた。蘇我氏にかかわる神社はいずれも平地にあるため、こんもりとした杜が形成されていず、どことも日に照らされ明るい。
上左:小綱町の横大路 同右上:入鹿神社への案内表示 同下:奥右が入鹿神社 下:境内が明るい入鹿神社
聖徳太子の死により、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、皇室を凌ぐほどになった。稲目、馬子、蝦夷と築かれてきた曽我氏の権政は、入鹿の代になりその上に胡坐をかくような畏れ多いことになったがゆえに、乙巳の変は天罰だとされる。一つの見方として、蝦夷の後継者が入鹿になったことに対する、蘇我氏の氏上争いという側面がある。中臣鎌足が氏上と大臣の座を餌に、蘇我倉氏の石川麻呂と阿倍内麻呂を誘い込み、同族間で争わせた。一方、中大兄皇子の狙いは、蝦夷と入鹿を倒すことだけでなく、蘇我系王統嫡流の古人大兄皇子も倒し、その協調者であった石川麻呂も謀反心ありと滅ぼし、あらゆる異分子を排除したうえで傀儡でもある舒明、皇極、孝徳を天皇位に付けた。中大兄には天皇中心の中央集権国家を作ろうという強い意志があり、深慮遠謀のうえで、乙巳の変に始まる大化の改新を成し遂げようとした、そうみることができる。
左:蘇我入鹿の首が飛ぶ乙巳の変(談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』より) 右:蘇我氏の時代の天皇系図
街道の交差点・八木札ノ辻
入鹿神社から細い通りに出て南方を見ると、家の間からこんもりした小山が見えた。見覚えのある形だとは思っていたが、横大路に出てやっとわかった。路傍に「右神武天皇御陵道」と彫られた道標。その山は畝傍山で、東側の山裾に神武天皇陵がある。これより南方には大和政権と大いに関係する古代史の表舞台が広がっているのだ。しばらく行くと緩やかに曲がる川を渡る。これが飛鳥川で、上流に蘇我氏が築いた飛鳥寺や飛鳥京、甘樫丘があるのかと思うと胸に迫るものが・・・・・・。
上左:街並みの向こうに畝傍山が見える 同右:入鹿神社から畝傍山までの地図(カシミール3D) 下左:飛鳥川 同右上:神武天皇陵を案内する道標 同下:飛び出し注意のしんちゃん看板
八木の町に入り近鉄橿原線の踏切を越えると、ビルも増えだし都会の風情が出てくる。八木は古代より中世を通じて、南北の下ツ道と東西の横大路が交わる、交通の要衝として重要な場所だった。江戸時代の中期以降、吉野・高野詣や大和の名所巡り・伊勢参りなどで大勢の人が全国から訪れ、街道町として大いに栄えた。東西・南北の街道が交わる地点、「八木札の辻」を挟んで西と東に旅籠の平田家が向かい合い、人の行き来は絶えなかったという。
上左:八木西口の踏切 同右上:近鉄電車が通る 同下:旧市街地に入ると橿原農園 中左上:大和八木駅前のビル群 同下:八木札の辻の北へは中ツ道が伸びる 同右:交流館のある札ノ辻 下:北八木町の格子戸のある家
現在、東側の平田家を奈良県が買い取り交流館として、八木の今昔を紹介している。休憩に入ると担当の方が出てこられて、部屋を案内しましょうかと言ってくれるのだが、とてもそんな時間がない。日もだいぶ傾いてきて、この調子では日の暮れまでに桜井に着くか怪しいので、早々に辞退して、格子戸のある町家や白壁の蔵がつながる町並みを東へと歩くのだった。
ランドマークの耳成山
八木の町を離れ郊外を歩いていると、近年に造成された住宅街の向こうに、ポッコリと盛り上がる緑の塊が見えてきた。これが大和三山の一つ耳成山。街中に自然のランドマークがあると、今日もここへ帰って来たと言う安心感があり、古代からもそうだったろうが、落ち着いた暮らしができるだろうな。そんな地元民の気持ちを表したような住宅マップ「山之坊町住宅案内地図」を見付けた。左上の円い耳成山が何とも言えず優しくてかわいい。ちょっとほっこりして、さらに東へ。
上左:耳成山の麓に住宅街が広がる 同右上:耳成山が描かれた住宅マップ 同下:カーブする横大路 中左上:米川 同下:山之坊山口神社 同右:古街道のように曲がりくねる道 下左:石原田町地蔵立像 同中:米川側の道 同右:弘法大師堂
いずれは寺川になり大和川へと合流する米川に架かる橋を渡る頃、今までまっすぐだった大路は右に左に大きく蛇行するようになる。道沿いには古い家並みが続くので、昔から道は蛇行していたのだろう。山之坊山口神社を過ぎると、道は川沿いを通るようになり、道の辻には背丈よりも大きい石原田町地蔵立像、少し行くと立派な祠が建つ弘法大師堂があり、竹内街道や山の辺の道のような古道の面持ちになってきた。地形的には真直ぐな道を付けるのが困難に見えないが、川の氾濫などの関係からかもしれないが、道は川に沿うように曲がりくねっている。
中ツ道との交差点
やっと真直ぐになりかけたところに三輪神社の杜が現れた。三輪神社は奈良時代、三輪山のある三輪郷の南西角を守る神社として造られ、大神神社と同じ大物主櫛甕玉命神を祭っている。現在、橿原市と桜井市の境界でもあるが、市町村合併前は大福村西之宮、南隣は香具山村膳夫、西隣は耳成村石原田という三カ村の境界だった。中ツ道と横大路で区切られたこの一帯は、古代からの地域割りが現在も続いてる。こういうところに奈良の本当の古さを感じる。
上左:三輪神社の杜が見える 同右:夕日が沈む横大路 下左:倒れそうな欅の古木 同右:夕闇迫る三輪神社
三輪神社の鳥居脇に大きな欅の古木が立っていて、江戸時代には「おかげ参り」が盛んだった伊勢街道の目印になっていた。今にも倒れ掛かるくらいに横ざまに伸びているが、これが直立するとかなりな巨木であったことが伺われる。日が傾きだしてだいぶ時間が経つが、神社の祠にも明かりが付き、夕暮れが迫っている。今日はこれくらいにして、続きはまたの日としよう。
再び横大路、耳成から
今回(9月23日)は近鉄大阪線・耳成駅から再出発とする。線路に沿い古い住宅街を東へ行くと、まだ新しい白っぽく輝く石の鳥居が見えてきた。市杵島姫 (いちきしまひめ) 命を祭る神社で、宗像大社の祭神を勧進したという。「いちき(いつき)」には、穢れを払うという「斎」の意味があり、土地の伝承として、この場所は藤原京の東北の隅、鬼門に当たることから、この大神を祭ったとされる。今は小さな村社だが、古代には都を守るという大きな役割があったと思える。藤原京の範囲は定かではないが、端がここにあるということは莫大な広さだったようだ。
上左:藤原京の北端が横大路だった(カシミール3D) 同右:耳成旧村の街並 下左:鳥居から右前方に藤原京が広がっていた 同右:市杵島神社
この場合の藤原京は、大和三山の内側、東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形内にあり、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったとする岸俊男氏により想定された範囲(旧説)をさしている。後に東西の京極大路の発見によって5.3km四方、少なくとも25km2はあったとされる(大藤原京)。
上左上:住宅の合間から近鉄電車が見える 同中・下:中ツ道とみられる神社西側の道 同右:祠の下に藤原京にあったという寺院の礎石が埋まる 下左:中ツ道と横大路の交差点に建つ地蔵堂 同右上:南側の住宅地で中ツ道とみられる道は行き止まる 同下:横大路は三輪神社の南側を回る
近鉄電車が走るのを垣間見ながら新しい住宅街を行くと南にこんもりした森が見える。これが先日の最終地・三輪神社で、そこへの道がつまり、中ツ道ということになる。横大路と交差する角に来ると小さな祠があり、その下の溝中に大きな石が横たわっている。先ほどの神社同様、藤原京域の東北角に位置し、藤原京の寺院の礎石とも言われる、直径1.4m、厚み40cmの大きな花こう岩が地蔵堂裏側の水路の中にある。南北に中ツ道が伸びると言われるが、南方を見ると住宅地の中に入りすぐ行き止まりになる。中ツ道は香具山に向かい、それを越えさらに飛鳥の地へ伸びていたというのだが、果たしてどうだろうか?後日に飛鳥の地に行った時に確かめてみよう。
西之町の古い街並み
横大路は、三輪神社の南側を取り巻くように湾曲し、さらに東へ伸びる。道端に石灯籠が建つが、伊勢へのそれかと思えども、「三柱神社常夜灯」と書いた石碑が立つ。三柱神社はこれより南へ800mほど行ったところにあり、この灯籠は三柱神社の参道の入り口を示すものだろうか。三柱神社は、膳夫(かしわて)町にあるが、古代の天皇の食事を用意した専属料理人膳夫氏の一族が、この一帯に住んでいたことから名付けられたが、以前の職場で膳(かしわで)という名字のアルバイト君がいたことを思い出した。そんなことはともかく、格子戸の家や地蔵堂、水路伝いに板塀の家があったり、昔からの町並が続く西之宮の町。その中を右に左に緩くカーブする古道を歩いていると、本来の自分に戻るのか、気持ちが落ち着く。今度はJR桜井線を南に見ながら進むが、踏切が見える辺りから大福の町に入る。このお目出たい地名もいかにも古く、江戸期からあったようだ。
上左:西之町 同右上:三輪神社遠望 同下:三柱神社常夜灯 下左上:地蔵堂 同中:格子戸も含め昔通りに復原された民家 同右:溝に沿って建つ焼き板の塀
横内神社
しばらく行くと「横内神社」なる看板が立っていて、それが示す方向に進むと、収穫間近の稲田の向こうに小さな祠が見える。小字名がコウロンというが、役人に講義をする所(講論)が横大路に接するようにあったことから名付けられたという。由緒は古いようだが、伊勢詣でが盛んになる江戸期に、天照大神の別名とも言われる撞賢木厳御魂(つきさかきいずのみたま)と天疎向津姫命(あまざかるむかつひめのみこと)の男女神二柱を祭神とされた。こういう小さきものの中に、とてつもなく古いものが隠れていることも奈良の隠し味なのである。神社のすぐ裏手をJR桜井線が走るが、きれいに掃除がされ、地元のこの神社を慈しむ気持ちが現れている。
上左:路地を抜けると稲田の向こうに神社 同右上:横内神社を示す看板 同下:横内神社 下:神社の境内、さざれ石に猫
木材の町桜井
さらに桜井に近づいてきたが、道に面した塀伝いの長さが50mはあり、大和棟の大きな屋根の屋敷が見える。人は住まれているとのことだが、植木の枝は伸び放題なのを見ると、管理が行き届かないという感じだ。東隣に貯木場が続き、その斜向かいに「西垣林業」という看板のかかった大きな野球練習場がある。公営でなく、一般に開放している私設運動場のようだ。桜井の地は奈良県各地の木材の集散地で、製材業が盛んだったが、近年、外国産木材に圧され衰えていき、広大な面積の貯木場が不必要となり空き地になっている。そこを地元の野球ファンに貸し出しているのだろう。
上左:大和屋根と大きな蔵のある家 同右上:横大路に沿って50mも続く塀 同下:球場利用規則の看板 下左:元屋敷が住宅分譲されている 同右:西垣林業の野球場
戒重
大福を過ぎると今度は「戒重」という地名になる。平安時代までさかのぼれると言われる在地武士である戎重氏が治めた土地であることからきている。公民館という名でなく「戒重区会所」とあり、昔から町の衆が集まる公開所であったのだろう、いかにも威厳がありそうな建物だ。しばらく行くと、戒重南交差点があり、国道169号線バイパスとぶつかる。ここまで来たので、欽明天皇の子、推古天皇の夫であり、河内太子に古墳がある第30代敏達天皇が営んだ宮訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)があった戒重春日神社まで足を伸ばそう。
上左:戒重区会所 同右上:付近には空地もある 同下:横大路には仕出し屋もあった 下左:国道169号線バイパス戒重南交差点 同中・右:国道はJR桜井線、近鉄大阪線をくぐるためアンダーパスになる
国道169号線バイパスは、この交差点より北へはアンダーパスになり、JR桜井線、さらに北側に近鉄大阪線のガードをくぐる。この道は大和と熊野・新宮を結ぶ幹線道路で、古代より吉野の花見、川上村、北山村などの山中を行く熊野詣の主要な街道だった。敏達天皇は、継体天皇の系列で大和化していく過程の中で生まれ、蘇我氏とは一定の距離を置き、廃仏派寄りであった。そういう力関係の中で、蘇我氏の意図でもあっただろうが、敏達天皇は横大路との交差する地点に宮を築いたとみられる。戒重春日神社は車が途切れなく通る道路際にあるが、境内は木が鬱蒼と繫り荘厳な雰囲気があった。
左:国道に沿う戒重春日神社 中上:鬱蒼とした木々に囲まれた神社 同下:訳語田幸玉宮の説明看板 右:道路から神社への入り口
また、この宮は後に悲劇の英雄とされた大津皇子の訳語田(おさだ)邸となり、持統天皇による刑の宣告を受けたところでもある。戦国時代、元和5年(1619)には、織田長政によってこの場所に戒重陣屋が築かれた。織田信長の弟である織田有楽斎長益は大坂夏の陣を前に大坂城から退去すると、自身の所領のうち四男長政と五男尚長にそれぞれ一万石を分知して隠居した。この長政を祖とするのが戒重藩(後の芝村藩)で、戒重陣屋を居城とした。いつの時代においても、この地は交通の要衝として重要であったとみられる。
木の街・桜井
戒重春日神社野の南側に沿って東に行き、神社の裏側に出ると大きな製材所があった。木の街・桜井の面目躍如というところで、のこぎりが大きな音を立てて木を切っていた。ひのき切り株500円、マキ割台500円、スウェーデントーチ1500円などと、各種切株を小売りして、一般ニーズにも対応しているところが経営を維持する秘訣だろうか。蛇行する寺川に差し掛かり、橋を渡って川沿いを上流に向け歩く。近鉄線のガードをくぐり、住宅地の中を抜け今度はJR桜井線の踏切を渡る。その先に見えている橋は、小西橋でこの地点が横大路の最終地点のはずだ。回り道をしているうちに終点まで来てしまったが、少し横大路を西に戻ろう。
上左:春日神社の裏側には製材所が健在 同右:寺川に近鉄線のガードが架かる 下左:寺川に小西橋が架かる 同右上:寺川の下流を眺める 同下:寺川上流に小西橋が見える
上ツ道の所在は?
橋の西詰にこの橋の守り神のように、玉垣で囲まれて地蔵さんが立っている。ここまでたどり着けたことを感謝して手を合わせる。車一台が通れる程度の道の両側には、昔ながらの家が立ち並んでいる。ふっと右側の空間が開いて目をやると、そこには仁王堂八幡神社があった。小さな神社だが、品陀和気命(ほむだわけのみこと)を祭る立派な八幡さんだ。
上左上:車車1台が通れるくらいの幅の横大路 同中:小西橋たもとの地蔵 同下:仁王堂八幡神社 同右:上ツ道を推定する(カシミール3D) 下左:横大路と上ツ道との交差部分の街並 同右上:上ツ道があったとみられる南への路地 同下:北への路地
さて、上ツ道だが、文化庁日本遺産魅力発信推進事業のパンフレットにある推定ルートを見ると、ちょうど仁王堂八幡神社の東側を通っている。しかし現場では、南側に細い路地、筋違いに北向きにも路地が見えるが、幅の広い官道が交差していたような痕跡は全くない。地図を広げて、南の方、安部文殊堂辺りまで範囲を広げてみると、山田道につながる古道らしきものがあるのだが・・・・・・。
上左:はじめ上ツ道跡と錯覚した稲田酒造角を南に伸びる道路 同右上:南から四つ辻を見る 同下:四つ辻交差点 下左:四つ辻南東角の稲田酒造の家 同右:四つ辻南西角の格子戸のある家
小西橋は横大路の終着点
ふたたび小西橋に戻って来たが、橋の東詰で交差する元々の国道169号線を越え、横大路と続く東へと伸びる真直ぐの道を歩いて行く。どうも先ほどの横大路とは感じが違うのである。地図上ではどちらも直線なのだが、横大路は微妙に右に左に揺らぎ、所によって太くなったり細くなったりして、古道としての手作りの味わいがある。この道は測量器で正確に直線にした道路で、見た目にも寸分違わない直線。心身を通じてすっかり古道の感覚になっているので、古道であるかないかはすぐわかる。現代に造った、こんな道を歩いても面白くもない。やはり、横大路は小西橋で終わっているとみて間違いはなかろう。
上左上:小西橋は三叉路に架かる 同下:横大路に架かる小西橋 同右:国道169号線を越えると直線路になる 下左:桜井駅に向かう並木道 同中:直線路の向こうは多武峰街道でもある本町通 同右:桜井駅
どこまでも真直ぐな横大路だが、古代には官道としての太い道としての認識はあっただろうが、一直線でないといけないという認識はあったのかどうか。「直ぐ道」、つまりできるだけ速く行ける近道の感覚だったのではなかろうか。古代の道路技術の限界もあろうが、右に左にゆったり曲がり、太くなったり細くなったり、でこぼこもあったりしながら、全体としては真直ぐな道、そういう古代感覚の道だったのではなかろうか。古代人が抱いたであろう「道」への感覚を何回も甦らせながら、この古道を歩いてきたのだった。小西橋を渡り、300mほど歩いたところで伊勢街道・多武峰街道となるが、ここで左に曲がり、JR桜井駅へと向かい、帰路に着くのだった。(探検日:2024.9.4/9.23)