雄略天皇の時代からほぼ2世紀に渡り、蘇我氏は大和政権において主要な役割を果たしながら、自らも大きな権力を持つに至った。大和盆地南東部・葛城で起こり、河内から近つ飛鳥、二上を越え大和、飛鳥の地へと、常に勢力の拡大を図ってきた。そして蘇我氏が最大の栄華を極めたのは飛鳥においてであった。最終の地・飛鳥を巡る旅の前編として、磐余の地から山田寺跡まで山田道を歩く。

渡来人とともにあった蘇我氏
蘇我氏が何を求めて最終的に飛鳥の地に至ったのか、河内から太子、二上山を越え大和に入って来た経緯の中から考えていきたい。雄略天皇の時から渡来人の居住地配置や職掌に関して蘇我氏が大きな権限を持っていた。河内における西文氏、船氏、葛井氏などの渡来人、河内飛鳥を拠点とした飛鳥戸氏も含め、彼らの多くは朝廷の文官に登用されたり、水・陸運に関わる業務、金属加工などの工業にかかわるなど、大陸の高度な技術や文化をもって大和政権に大きな貢献を果たしてきた。一方遠つ飛鳥、大和の飛鳥には檜隈郷を中心に東漢氏(やまとのあやうじ)が居住し、軍事をはじめ土木建築や織物などにおいて優れた技術を持っていた。先に触れた崇峻天皇暗殺の際にも東漢駒が暗殺の実行役となっており、東漢氏は蘇我氏の直属の配下と言ってよく、邸宅の門衛や宮廷の警護などを担当している。
葛城から飛鳥を見る
蘇我氏は、葛城の地の東端、曽我川流域から発生したと言える。祖先の地である曽我川上流一帯を治め、武内宿禰を祖とする葛城一族としても同族である巨勢氏、羽田氏などを配下に置いていた。さらに蘇我氏の最盛期には葛城の地をほぼ掌握するまでになっており、葛城を蘇我氏の故地と称する馬子は、推古天皇に葛城の地の下賜を要請するものの、叶わなかった。このことは、蘇我氏のルーツは葛城であることの自覚とこだわりが大きかったことを示している。


左:市尾墓山古墳 右:市尾宮塚古墳がその中にある森全景
羽田氏が治めたという高取・市尾には葛城氏系列の豪族の墳墓、さらに言うなら発祥期の蘇我氏一族の墳墓ともみられる市尾墓山古墳、市尾宮塚古墳がある。そこから東側、飛鳥の地は指呼の距離であり、その意味でも蘇我氏にとっての飛鳥地域、とりわけ檜隅郷一帯は慣れ親しんだ場所でもあっただろう。(参考:当ブログ「葛城氏の跡を訪ねて⑦蘇我氏の源流を訪ねて・・・葛城から飛鳥へ」)
蘇我氏の飛鳥
蘇我氏が持つ渡来人を掌握する能力は、元々倭の五王の時代に大陸進出によって得られた葛城氏のお家芸を受け継ぐものだと言える。その能力は蘇我氏が政権自体をもリードし、時代を変革する覇者にもなれた最大のノウハウでもあった。蘇我氏繫栄の元である開明的で先進的な気風は、渡来文明とともにあったからこそとも言える。蘇我氏の隆盛と終焉の地である飛鳥は、祖先地・葛城の近傍であり、東漢氏などの渡来人とともに開拓してきた躍進を期す場所でもあった。蘇我氏の故郷である曽我、高取・市尾にみられる小高い丘陵地と緩やかな田園風景は、飛鳥にも同じく見られる風景である。この生まれた時からの風景を求めて、飛鳥の地にむしろ「帰って来た」、そんなことも言えるのではないだろうか。



左:曽我川流域にある高取・市尾地域とその東に隣接する飛鳥・檜前地域の地図 右上:高取から越智岡に向かうところの田畑の風景 同下:岡宮天皇陵から市尾辺りを見る
飛鳥の地へ
いよいよ飛鳥の地へと進む。JR桜井駅から真直ぐ南へ進み、山田道へ出ようとするが、どうしても気に残ることがある。前回の横大路の時、最終地点で上ツ道はどこを通っていたかが判然としなかったのが気にかかるのである。とりあえずは山田道を通って飛鳥へ向かうが、安倍文殊院辺りで上ツ道と交差するようなので、その辺りで横大路まで戻り上ツ道を探ってみたい。




左:桜井から山田道を通り山田寺跡まで歩いた軌跡。途中、横大路まで戻り上ツ道を探す 右上から:メスリ山古墳、磐余山東光寺、石寸山口神社(いずれも2021年に撮影)
駅前から始まる県道に沿って南へ行き、寺川を過ぎると左手に鬱蒼と繁る森が見え出すが、東側に回った所に登り口があり、頂に磐余山東光寺がある。隠れ寺のようにひっそりとして落ち着くところだった。この辺りは以前(2021年)、磐余(いわれ)の地の探検で足を運んだところで、メスリ山古墳から桜井茶臼山古墳に行く途中に立ち寄ったことがある。県道の西側にも小高い丘があり、その山中に石寸(いわれ)山口神社があった。ここは桜井の製材業の守り神であり、用明天皇の磐余池辺双槻宮の跡地とする説がある。
若櫻神社
県道が徐々に坂になってきて、東側に昔ながらの集落の家や蔵が見えだした所で若櫻神社の前に出た。急な石段を上ると広々とした境内に木造倉庫のような祠が建ち、周りに10基を超える石灯籠が並んでいる。神社の財政力の問題もあるのだろうが、自然地形にあまり手を加えず、あるがままにした設えが返って霊験あらたかな気にさせる。つまり、ほったらかしにしているとこ
上左:若櫻神社境内 同右上:神社入り口 同下:境内には灯籠が林立している 下左上:磐余稚桜宮伝承地の説明板 同下・右:神社東側の集落の家並み
この地を履中天皇の磐余稚桜(いわれわかざくら)宮跡に充てる説もある。履中天皇が皇后と磐余の市磯池(いちしのいけ)で遊宴中に、杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、宮名を磐余稚桜宮とされ、桜井という地名はここからきているという。実は履中天皇の磐余稚桜宮と言われる宮跡は桜井市池之内にもう一カ所ある。池之内の稚桜神社は季節外れの花が咲く桜木を探し出してきた物部長真胆連系の神を祀る神社であり、先の若櫻神社は花びらが落ちた酒盃を奉った膳臣余磯系の神を祀る神社だという。つまり同じ説話に基づきながら、異なる氏族がそれぞれに神を祀ったということになる。





上左:大津皇子の辞世句碑 同右上・下:稚櫻神社入り口の鳥居と境内 下左:磐余池の想定図 同右:磐余池があったと思われる谷間
もう一点、「磐余市磯池」をどこに求めるかという問題。大津皇子は天武天皇の皇子だったが、天皇崩御の直後に謀反の罪で捉えられ、持統天皇から死を命じられ、前回に見た戒重春日神社にあった大津皇子の訳語田邸で24歳の命を絶つ。大津皇子の辞世句「百伝う磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」に詠まれている磐余池は、池の水をせき止める堤跡が近年発掘された橿原市東池尻町にある磐余池推定地にほぼ確定される。履中天皇が皇后とともに船に乗って遊宴したことにふさわしく、広々とした池である。そのような点を見ると、履中天皇磐余稚桜宮は磐余池と近傍で池東側の小高い丘上にある池之内の稚桜神社の方が正しいように思える。
磐余の地
磐余の地は、「磐余」の名称が残る史跡の範囲、桜井市の南西部から橿原市の南東部にかけての地域と推定できる。「日本書紀」にある神武天皇の東征神話の中に磐余邑の地名起源説話があるが、その神武の和風諡号が「カムヤマトイワレビコ」である。磐余池の近くに継体天皇の磐余玉穂宮、清寧天皇の磐余甕栗宮もあるが、磐余は履中、清寧、継体、用明という四天皇の宮都があったところで、5~6世紀には政治の中心地でもあった。「万葉集」における大津皇子の歌に磐余池が詠まれ、歌枕になるような古い地名であるが、伝承で語られるばかりで考古学的に確定しないところも多いのが、磐余という土地の奥深さだろう。

大和三山も含めて、桜井から飛鳥にかけて小山がポコポコ飛び出ていて、小山ごとに由緒ある史跡がある。磐余という名の付く宮跡、それらを残す神社のほとんどが小高いところにある。独立峰的な硬い岩盤が侵食されて残った丘を指して残丘と言うが、その小山は大和盆地南東部に独特にあるランドスケープだ。大和政権がこれらの残丘部に宮を造り続け、導かれるように盆地奥部へと進出し、それらの集大成のごとく飛鳥京を築いていった。つまり、飛鳥に都を築くことができたのは、残丘が点在する地形が大いに関係していたのではないか。磐余とは、「磐」の「余り」、つまり残丘そのもののように思えてならないのだが・・・・・・。

土舞台
若櫻神社から50mも行ったところに「➨500m 芸能発祥の地 土舞台」の看板。阿部丘陵と言われる山塊への坂道を登って行く。住宅街を抜けると山道になり、檜の樹林を潜ったところに土剥き出しの広場が出現した。ここが土舞台かと思ったが、説明板を見ると安倍山城跡とある。南北朝時代、南朝方の西阿がこもる戎重城を攻めるため、北朝方の細川顕氏らがここに陣を構えたという。横大路で見た敏達天皇が営んだ訳語田幸玉宮でもある戎重春日神社に戒重陣屋があったが、そこが攻められたということだ。そんなことを思い出しながら少し下ると桜の木に囲まれた広場があり、径20mくらいあろうか、そこが土舞台跡だという。百済の人・味摩之が呉で伎楽舞を学び、その舞を聖徳太子がご覧になった。太子が土舞台に少年を集めて伎楽舞を習わせたということで、ここが芸能発祥の地とされた。芝居の源点でもあるが、春日大社の松の下式と同じく、古代の舞台は芝生だったのである。
上左:安倍山城跡 同右上:阿部丘陵への坂道 同下:檜の切り株 中左・中:城跡からの展望、三輪山、桜井市街と箸墓古墳 同右:桜井小学校 下左・右:土舞台
南に下ると山を切り開いた住宅地になり、東面の密集した住宅街のわずかな隙間に艸墓(くさはか)古墳が見え隠れする。遠目からは家々の間に丸いものが挟まれているという異様な風景ではあるが、そこへは軒下のごく狭い通路を伝って行くしかない。長辺27m、短辺21mの裁頭長方錘形の方墳、つまり先のとんがった方墳だったという。横穴石室に安置されている竜山石製のくり抜き家形石棺がとても美しい。古墳時代終末期の7世紀中葉(または7世紀前半頃)の築造とされる。阿部丘陵で巨石を用いた大型石室として、この他にも谷首古墳・文殊院西古墳などが知られるが、古代氏族の阿倍氏との関係性が指摘される。この山塊は、東側に若桜神社、艸墓古墳、尾根筋には土舞台や山城、西側には安倍文殊院、現代は大きく山腹をえぐって桜井小学校、それに住宅開発と、古代からさまざまに利用されてきたのである。

上左:艸墓古墳 同右上:建物の間から見える古墳 中左:家形石棺 同右:古代より多様な施設で利用されてきた部丘陵の地図 下左・中:石室内の様子 同右:丘陵中央部を貫く住宅街
安倍文殊院
愛嬌のある書体で「安倍文殊院」と山号が書かれた石碑は、榊獏山の筆による。古代人の大らかな雰囲気があるような・・・・・・。10年ほど前に来た時はほったらかしの感があったが、今はどこもきれいに整備されている。その代わり本堂観覧料が700円、金閣浮御堂と巡回すると1200円、何と高いこと。快慶作と言われる獅子に乗った文殊菩薩像の総高は7mもあるのだが、来年5月までは獅子から降りた菩薩を拝むことができるとのこと。より近くで見られるのでこれも良いのだが、タダでも大きい獅子だから、そこへ菩薩が乗ると度肝を抜かれるだろうと思う。それも見たかったが・・・・・・。

上左:安倍文殊院本殿 同右上:榊獏山筆の山号石碑に迎えられ寺内へ 同下:金閣浮御堂 下左:本殿へ続く参道 同中:獅子に乗った文殊菩薩像(案内パンフレット) 同右:山田道より入る表山門
安倍山崇敬寺は、阿部倉梯麻呂が大化元年(645)に阿部一族の氏寺として建立したとされる。阿部氏(平安時代に安倍氏)は、飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出するが、特にその学識を買われて外国への使者として派遣される人物が多く、仲麻呂が遣唐使で留学生として唐に渡ったことは有名だ。本堂の前には円墳の西古墳があり、阿部倉梯麻呂の墓とも伝えられるが、築造時のまま保存されている。良質な花崗岩を精密に加工し左右対称に石組みされ、玄室の天井岩は一枚岩で15㎡もある大きさ。古墳時代終末期のもっとも熟達した技術による石組みだと思われるが、それはまた阿部一族の繁栄した時代を反映しているように思う。

上左:西古墳入口 同右上:精密に加工した花崗岩を使った石室内羨道 同下:玄室に収まった不動産像 下左:玄室の天井は一枚岩 同右:安倍寺跡(安倍寺の範囲は200m四方で伽藍は南面し、金堂、塔、講堂があったと思われる。2021年撮影)
大化の改新以後の新しい時代への息吹が充満していた頃で、安倍寺をはじめ数々の寺院創建が続いた。その安倍寺跡が今の安倍文殊院から南西300mのところにある。横大路から、また上ツ道から飛鳥へと向かう山田道の入り口に位置していることに意味があるのではないか。つまり新しい時代に向けて、あらゆるものが飛鳥に新天地を見出そうと動き出した時、その出発点が安倍寺ではなかったか、そのように考えるのである。
上ツ道を見つける
地図を見ていて気付くのだが、横大路の最終地点に近い仁王堂八幡神社の東側を通るとされる上ツ道を南へ下していくと、阿部丘陵に沿って南西に斜向し、ちょうど安倍文殊院の参道入り口に差し掛かるのである。山田道は、上ツ道との交差部分から都であった飛鳥へ至る古道だとされる。2002年の安倍寺遺跡の発掘調査で、道路面と西側側溝に推定される石敷きや石組み溝が発見された、山田道は実在した道路とされる。ここは思い切って横大路に戻り、上ツ道から飛鳥への道を探していきたい。

上左:安倍文殊院前で合流する上ツ道、山田道の地図 同右上:横大路に面する仁王寺八幡神社 同中:上ツ道が交差する辺りの横大路 同下:北からの上ツ道は横大路を横切り斜向かいの路地を行く 中左・中・右:上ツ道は路地から用水路沿いに南へ伸びる 下左上:スーパー・ヤマト―前の太い道に合流しさらに南へ 同下:国道165号線を越える 同右:緩く曲がりながら坂を上る
仁王寺八幡神社東側から北に伸びる路地のような小径はそのまま寺川に突き当たり、その先の道筋は追うことができない。南へは住宅の間の路地を進み、小川沿いの道に続き、曲がる川を越えてさらに真直ぐ南に行く道が通っている。「ヤマト―」というスーパーの前で車も通る太い道となり、国道165号線を越えても道は途切れない。これが果たして上ツ道かどうかわからないが、近年に付けた道でなく、緩やかに右左にくねる古道の面もちがあり、元から付いていた道であるようだ。小高い丘になるところから西の方にカーブしだし、坂を下って行くと道は途切れる。地図上でそのカーブを伝っていくと、安倍文殊院のある阿部丘陵のふもとに沿っているようで、溝沿いを西側に曲がっていく。製材所の裏側に進入し道筋を目で追っていくと安倍郵便局の裏側を巻くように通り、ちょうど文殊院表山門への参道入口辺りで山田道とされる道に合流するのである。この道はまた、横大路探検の時出合った稲田酒店の前で三叉路を成し、これが上ツ道かと錯覚した、南へ伸びていたやや太い道でもある。こうやって、横大路、上ツ道、山田道がつながったわけで、これからは心置きなく山田道を伝って飛鳥へと行けるわけだ。

上左:上ツ道は阿部丘陵西側縁に沿いながら西南方向に斜向すると予想できる 同右上:阿部丘陵で道は途切れるが、その麓をさらに西南方向へ 同下:郵便局裏の畑を横断する 下左:文殊院参道入り口付近で山田道と合流する 同中:上・中・下の大道と横大路、山田道の位置関係の図 同右:南へ真直ぐ伸びる山田道
磐余道から山田道へ
山田道は、歴代の天皇の宮があった磐余の地と飛鳥を結んだ約8kmの官道で、磐余道とも呼ばれた。608年に隋の使者・裴世清も海石榴市で上陸した後、この山田道を進み、推古天皇の小墾田宮に行き拝謁したであろうことが推測される。
上左:山田道は生田交差点で斜め右に渡る 右上:生田交差点へ 同下:交差点を渡りしばらく真直ぐ行く 下左:県道15号線に合流する 同中:生田の集落 同右:県道・山田道はクネクネ曲がる
安倍文殊院からしばらくは南下するが、この道は上ツ道の延長ととらえることができる。300mほど歩くと生田のバス停があり、その交差点を斜め右、南西の方向に渡り、真直ぐの道をしばらく行くと緩やかに曲がる太い道に合流する。今は県道15号線桜井明日香吉野線となって対向2車線の立派な道路だが、緩やかな曲がり方から言って、元々は古道であったことがうかがわれる。奈良盆地の南東端部に位置し、竜門山地北端部の山裾と池之内・南山町の丘陵部との間の谷筋の平坦部をつなぎ、南西方向の斜向道として付けたのが山田道だと言える。
山田寺跡へ
右に丘陵の崖を見、左に竜門山地の尾根とその麓に広がる棚田の風景を見ながら歩く。しばらく行くと高台に安倍小学校の校庭が見え、続いて民家や倉庫、工場、さらに「ウッドメッセ奈良」なる桜井木材協同組合の木材展示場が現れる。廃屋農園などもあるところは今の桜井の現状を示しているのだろう。刈り入れ間近の稲田の景観の彼方に工場でもなし農業倉庫でもないような三角屋根を持つ長棟の建物が何棟も並んでいる。そちらの方向への分かれ道のところに標識があり、「なら食と農の魅力創造国際大学校」つまり農業大学校、その下には「オーベルジュ・ド・ぷれざんす桜井」、つまりホテルも表示されているのである。新しい形の農業の開拓と、棚田を見ながらリゾートするホテル、おしゃれで今風な農村開発というところだが……。

上左:安倍寺跡から山田寺跡への山田道の地図 同右上:緩やかに曲がる山田道 同下:岡の上に安倍小学校 中左上:山田道 同下:桜井木材協同組合展示場・ウッドメッセ奈良 同右:山田道沿いには稲が実る棚田の風景が広がる 下左:岡の上には「オーベルジュ・ド・ぷれざんす桜井」の建物が見える 同中:刈り取り直前の稲田 同右:山田寺跡へは左の脇道に入る
上りの坂道になってきたところに「山田寺跡➨」とあり、脇道に逸れると、山田という地名の集落に入る。やっと飛鳥の入り口にたどり着いたわけで、山田寺跡以降のことは次回のレポートとする、乞うご期待。(探検日:2024.10.12)
お元気で私たちの地元の古代を知らせてくださり厚くお礼申し上げます。田中弘一
磐余の地は奥が深いですね。そうなのに、まだ明らかにされていないことが多いです。次は飛鳥の本拠地です。よろしくお願いします。