いよいよ最終地、飛鳥に入ろう。まずはその入り口、山田寺跡を訪ねる。車もビュンビュン走る山田道を外れると、山田という地名の集落の中に入って行く。大きな屋敷や蔵が並び、里の秋を感じさせる風景を眺めながらしばらく行くと、「磐余道」の標識と地蔵さん3体が道端に立ち、知らずと山田寺跡へと導かれる。

左:山田寺跡から飛鳥を歩いた軌跡(カシミール3D) 右上:山田の集落 同下:3体の地蔵が山田寺跡へと誘う。
山田寺跡
乙巳の変による蘇我氏本宗家の滅亡後、大化改新時の右大臣だったのが蘇我倉山田石川麻呂だった。その石川麻呂により安倍寺と同時期、643年頃に山田寺の金堂と周辺の回廊の一部が完成した。最終的には天武朝(7世紀末)に全体が完成したとされる大寺で、規模的には現在の法隆寺よりも大きかったという。東西118m、南北185mの寺域に、南門、中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置で、講堂をも回廊が囲む四天王寺式伽藍配置とよく似ている。災害により倒壊した東面回廊が良好な状態で出土しているが、それは現存する世界最古の木造建築である法隆寺西院建築群を約50年遡るとされる。初代の法隆寺である若草伽藍は607年に聖徳太子(厩戸皇子)が創建したものだと広く知られているが、670年に焼失し、再建され今に残る西院伽藍はそれ以後なので、7世紀前半に完成した山田寺東回廊の方が古い、そういう論理のようだ。今は草ぼうぼうだが、広大な土地に建てられていたことがわかる。そして飛鳥への玄関口に、客人を出迎えるような位置にあるのが山田寺だったのだろう。
左:山田寺跡全景 右:山田寺イメージ図(現地の看板より)
道幅は21~22mあった
再び山田道、県道15号桜井明日香吉野線を進むと、飛鳥らしいのんびりとした風景に出合う。稲刈り後のごみを焼いているのか、老夫婦が煙にまみれ懸命に作業をしている。のんびりなどとは言えない、結構せわしない作業だ。右手に奈良文化財研究所飛鳥資料館というバス停が見えるが、資料館はさらに奥の一段低いところある。今日は時間がないのでまたにするが、一度ゆっくり見たいものだ。
上左:山田道そばで見かけた農作業風景とコスモス 同右:山田道周辺の飛鳥の地図(飛鳥資料館前の看板) 下:山田道南側の発掘現場とその地図(現ローソンにある説明板より)
資料館の前で県道が左折し南方面に伸びているが、岡寺や石舞台を通り吉野へと行く道だ。西角にローソンがあるが、それが建つ前に発掘調査がなされ、山田道と思われる道の南側側溝が発掘されたという説明板が立っている。側溝は幅1.8m深さ0.7mで、東方向6mほど行くと焼失している。つまり、この地が南東方向が高く北西方向が低い傾斜地になっていて、後世に耕作地化するとき地形を平坦にしたことにより東方が完全に削られてしまった。雷丘のすぐ東でも南側溝とみられる溝、北側にも側溝が発掘されているところから、21~22mの幅の古代道が約400mにわたって東西につけられていたことが判明している。現在の県道より2倍も広い道だった。
左:飛鳥坐神社への道 右上:西の彼方に見える畝傍山と二上山 同下:甘樫丘が横たわる
少し西に行くとまた南へ曲がる道がありそこを進むが、緩やかにカーブする古道のようだ。西の方には甘樫丘が横たわり、遠くに畝傍山の角張った形が現れ、目を凝らすとそこに二上山が重なってくるというように、歩くに連れ風景が徐々に変化していく。古代と同じ風景を目にして気持ちも高まる。
飛鳥坐神社
やがてにぎやかな街並みになるとそこは飛鳥坐神社前で、人通りも多くなってきた。耳成山や畝傍山のような残丘なのだろうか、地上10数mの鳥形山と呼ばれる高い丘があり、その上に神社の祠がある。主神は八重事代主命で、その神徳は天地、宇宙、目に見えない世界にまで拡がり、八重にも積み重なるといわれ、国民を幸せにするだけでなく、創造・創作の導き神として芸術に携わる人々からの信仰も篤いという。明るい、天にも昇る気持ちにもさせる雰囲気を持っている。参拝人は若い人がほとんどで、ファッションも個性的な人が多いようだ。
上左:飛鳥坐神社参道入口 同右上:飛鳥の町へ 同下:神社本殿 下左:飛鳥の町並 同右:登録文化財の古民家たホテル
神社から西に伸びる道の両脇には古い家が並ぶが、古民家を改造したカフェやレストラン、またプチ・ホテルなどもあり、この一画だけあか抜けた感じの朝街並みになっている。近年の流行なのだろう、古民家リノベの人気スポットのようだ。
甘樫丘に上る
先ほどから見えていた甘樫丘は、代々の蘇我氏にとっては国見山だと言えそうだが、今は散策路も整備された歴史公園になっている。万葉の植物園路を行くと、いつしか展望台にたどり着く。天気も良く見晴らしが効いて、金剛・葛城が彼方に連なり、二上山が今度は畝傍山の左側に重なり、ここならではの景観に出合う。奈良側からの二上山は、右側が背の高い雄岳なのでどこか不安定感があるが(大阪側から見るのと比べて)、畝傍山と重なると絶妙なバランスで美しい景観になる。さらに北の彼方に耳成山がぽつんと地上に飛び出ている。その手前が藤原京、さらにその手前が磐余の地となるわけだ。盆地の平坦地に山がポツンと出ている景観、大和三山というのは、千数百万年前の火山やもっと以前の基盤の岩石が風化・侵食を受けて、残丘と呼ばれる小高い山となって残っており、周囲を新しく堆積した地層が取り巻いているということだ。
上左:甘樫丘周辺の案内地図 同右:甘樫丘地図 中左:甘樫丘の展望台 同右:展望台への散策路 下左:畝傍山と二上山 同右:耳成山と藤原宮 下:展望台から金剛、葛城、奈良盆地、藤原京、桜井方面を見渡す
反対の東側を見ると、飛鳥寺のある、真神原と呼ばれた飛鳥村の全景が手に取るように分かる。蘇我馬子も蝦夷や入鹿もここに上って、山の向こう側の河内から金剛、葛城、二上の山々を越え葛城や大和の地をわがものとし、この地、飛鳥への道筋に心を馳せ、一族の誇るべき栄華に陶酔したに違いない。丘の北端に当たる標高148mの展望台から尾根筋に沿って下って行き、川原展望台から東側に降りて来る。駐車場に至る手前の広場状になっているところが甘樫丘東麓遺跡で、7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣が発見された。日本書紀に書かれている蘇我蝦夷、入鹿親子の邸宅がこれに当たるのではないかとみられる。「上の宮門」「下の宮門」と称し、館には城柵が設けられ、門の脇には武器庫が建てられ、武器を持った屈強な兵たちに守らせていたという。これらは天皇家に対する軍事的圧力であり、天皇家の乗っ取りを図る蘇我本宗家の野望を証明するものだということになり、乙巳の変の直接の原因にもなったとみられる。
上左:飛鳥寺のある真神原と呼ばれた飛鳥村 同右:蝦夷、入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘東麓遺跡 下左:甘樫丘の東麓 同右:甘樫丘の東縁に沿って流れる飛鳥川
飛鳥寺
再び飛鳥の地に降りて来て田畑の中の道を歩いて行くと、蘇我入鹿の首塚があった。高校の時に来てから50年余りにわたって何度も来ているが、周りを稲田が囲み、東方に飛鳥寺がある風景は何ら変わらない。飛鳥寺は、588年蘇我馬子の発願によって建立されたとする日本最古の仏教寺院で、1956年からの発掘調査によって、塔を中心に東・西・北に金堂を築き、中門から延びる回廊がこれらを取り囲む一塔三金堂式という伽藍配置だったことが分かった。金堂を3つも持つ日本で類例のない大スケールの寺院だった。「飛鳥大仏」と親しまれる本尊の釈迦如来は、中国北魏様式をとっているが、法隆寺金堂釈迦三尊像と似ていて、どこか大陸的でアルカイックスマイルのおおらかさを湛えている。




上左:飛鳥寺本堂 同右上:飛鳥大仏 同下:飛鳥寺の伽藍配置 下左:CGで再現した飛鳥寺 同右:現代の地形に配置した飛鳥寺寺域
飛鳥寺は蘇我氏の氏寺であり、飛鳥川を挟んだ西側の甘樫丘には蝦夷と入鹿の邸宅があった。入鹿は皇極4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足によって殺害される(乙巳の変)。中大兄皇子と鎌足は、直ちに飛鳥寺に陣を構え蘇我本宗家の逆襲に備える。飛鳥寺は蝦夷らの動きを察知しこれを封じるには最適な場所であった。だが攻め入られる前に、蝦夷が頼りにしていた腹心たちが武器を捨てて逃亡したために、なすすべ無く館に火を放ち自沈するというあっけない結末で収束し、ここに蘇我本宗家は滅亡する。
上左:西日の当たる飛鳥寺 同右上:飛鳥寺から南方を見る 同下:蘇我入鹿の首塚 下:飛鳥寺から甘樫丘のある西側一帯を眺める
このような乙巳の変の時には、飛鳥寺の内、外に大人数の兵士がたむろし、西の甘樫丘にあった蝦夷の邸宅から火の手が上がり、人々が右往左往しながらうごめいていたであろう。この地形に身を置くことによって、騒動の様子が手に取るようにイメージされるのである。
飛鳥宮とは
飛鳥寺からとぼとぼ南に歩いて来て岡天理教前のバス停の時刻表を見ると、橿原神宮駅前東口への最終は17時台。日暮れの早くなってきたこの頃、石舞台へも行こうなどもっての他、今回も日没サドンデスです。地図を見ると、図らずも飛鳥宮跡が近くにあるではないか。最終バスが来るまで、そちらを訪ねて本日の予定終了としよう。
左:宮殿の柱跡が復元された飛鳥宮 右:周りが稲田で囲まれた飛鳥宮跡一帯は写真撮影の絶好のポイント
飛鳥宮は、6代の天皇にわたり、同様の場所で4つの宮が営まれた。舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明、天智天皇の後飛鳥岡本宮、天武、持統天皇の飛鳥浄原宮である。舒明朝の宮は北で西に傾く特徴を持ち、飛鳥板蓋宮で正方位を向くようになり、斉明朝の宮が改築されながら飛鳥浄原宮に受け継がれているというふうに、同じ場所で代ごとに改築しつつ造営されてきた。皇極天皇は、小墾田宮から新しく造営されたこの宮へ移ったが、当時の宮が一般的に茅葺や桧皮葺であったのに対して、板蓋であったためこの名が付いたという。ここは乙巳の変で中大兄皇子等による蘇我入鹿の暗殺の舞台となった。



左:飛鳥宮跡Ⅲ期遺構配置図 右上:飛鳥宮の復元模型 同下:飛鳥宮のイメージパース
遣隋使、遣唐使により、遣使が西安の都を直接見て、律令制を始めとする都づくりの成果を反映させた。宮城の形を真似て造り、天武・持統天皇の飛鳥浄原宮のように複数の天皇が同じ宮にとどまり、また周辺施設とともに拡大して宮都としての機能を併せ持ってきた。後に現れるような、建設当初から計画的に固定化された宮都(藤原京・平城京・平安京など)への過渡的な都市であった。
天武も持統も見た夕陽
斉明朝の後飛鳥岡本宮跡を保護して発掘調査されたため、それを元に飛鳥宮跡として配置図が起こされている。中心部は、東西158m、南北197m長方形の区画(内郭)で、大規模な掘立柱建物や石敷き広場など見つかっており、内郭北東隅で見つかった建物の柱配置や井戸などを復元している。復元された宮跡は、草で覆われて読み取りにくいところはあるが、宮殿が何棟もそびえ建っていたことは想像できる。読み物でしか知らない古代史だが、有名な事件や出来事がこの場所で実際に行われたということを噛みしめながら、柱跡の周りを何度も巡るのだった。北の彼方に飛鳥寺の甍、その向こうに耳成山がいつまでも見えている。甘樫丘にちょうど太陽が隠れようとしている。天武も持統もこれと同じ夕焼けを見ていたのかと思うと、感慨も一層深くなるのだった。(探検日:2024.10.12)
上左:復元された宮殿柱跡 同右上:宮跡北東部にある井戸跡 同下:井戸から外部に流れる水路が復元されている 下左:宮跡から北方を眺める 同右:甘樫丘に沈む夕日
飛鳥に至る道、蘇我氏のねらいとは
東から南へと山岳で囲われ、西に甘樫丘、北に広大な大和盆地へと開かれた土地の最奥部に位置し、自然の要塞に守られた絶好の場所に飛鳥の都が造られた。遣唐使・遣隋使などによりもたらされた国家防衛の情報に基づくのだろうが、奥まっているがゆえに、閉ざされる不安もあり、そこに至る交通路が最も重要となる。そのように考えると、推古天皇の宣言を受けて進められた「大道」、竹内街道、横大路、山田道はまさに河内から飛鳥に至る道路網であり、さらに北からの上ツ道・中ツ道・下ツ道の南北道も含めて、幹線道路の整備は都・飛鳥にとって死活問題だったのだ。その国土計画を考案し、道路整備事業を主導的に推し進めたのが蘇我氏だった。雄略天皇時代から政権の中枢にいて、国家形成にまい進してきた蘇我氏の功績は、乙巳の変で葬り去られると言えど、それは天武・持統の律令制度の確立に基づいた新しい日本国の成立となって功を奏したと言えるのではなかろうか。私の推論でもあった「雄略以後―河内から飛鳥への道」のめざしたこと、それは蘇我氏の国家形成に果たした役割を見ていくことで見えてくるものがあった。

飛鳥への幹線道路網と蘇我氏、渡来系氏族の本拠地を示す(近江俊秀著「飛鳥のみち飛鳥へのみち」(両槻会・遊訪文庫)よりまとめる)
蘇我氏が飛鳥に進出したのは、6世紀になってからだが、それと前後して飛鳥に拠点を持つ東漢氏をはじめとする渡来系氏族を傘下に入れていた。元々蘇我氏の発祥の地は曽我川流域の曽我であり、その近傍でもある飛鳥周辺の地、向原、小墾田、甘樫丘、豊浦、石川、軽などに蘇我総本家の邸宅を持つなど、飛鳥は蘇我氏の拠点とする地でもあった。北東には、欽明天皇の磯城嶋金刺宮、敏達天皇の訳語田幸玉宮、用明天皇の磐余池辺双槻宮、崇峻天皇の倉橋柴垣宮など、蘇我氏が直接仕えた歴代の天皇の宮が点在する磯城・磐余の地がある。山田道は、それら天皇の宮と蘇我氏大臣の家とを結ぶように通したとも言える。このことを考えると蘇我氏の飛鳥進出のねらいは、自らの勢力の拡大を図るとともに、天皇家への接近にあったと思われる。同時に、ライバルでもあった物部氏や大伴氏よりも有利な立場にたつことを意味する。そして天皇家をも我が手中にすべく、推古天皇の宮をその祖父でもある稲目の向原家のあった豊浦に定めたのだった。それ以降、天皇の宮は、小墾田宮、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄原宮と飛鳥の地に固定化していくことになる。律令制度による全国の統一を通して、天皇中心の最大の権力集中をもたらした拠点である飛鳥宮、その根元を築いたのが蘇我氏に他ならないと言えるのである。
いよいよ最終回の次回にはエピローグとして、蘇我氏の夢の後ともいえる史跡を追って、飛鳥という土地の歴史的意味を再考したい。乞うご期待を。
お疲れ様でした。ありがとうございます。
いつもありがとうございます。あと一回、石舞台や都塚古墳、梅山古墳などを回ります。今後ともよろしくお願いいたします。