最近は街道を歩く探検が多くなってきたが、さらにもう一つ、大津道を歩いてみたい。寒さが少し和らいだ2月のある日、その出発点とされる堺の中心地へと出かける。大津道のことを長尾街道と同じとされることが多いのだが、それらはどこまで重なり、どこが違うのか、実際に歩くことで確かめてみたい。
「難波より京に至る大道」とは
『日本書紀』の記述に、推古21年(613)11月、「難波より京に至る大道を置く」とある。天皇を中心とする中央集権国家、さらに中国と肩を並べる国際都市を築こうとしていた推古朝の時代は、外国交易の拠点である港と小墾田宮をはじめとする飛鳥京とを結ぶ交通網の整備が最重要事業であった。仁徳天皇により開削されたという難波堀江にあった難波津の港は、5~6世紀には港湾都市として大いに栄えていた。難波津は遣隋使をはじめとする外国との交易の玄関口であり、飛鳥とは大和川を伝っての水上交通がもっぱらだった。608年裴世清も大和川経路で桜井・海石榴市で上陸し山田道を通って来たのだが、水上交通は亀の瀬などの難所も多く、安定的に大量の物資を輸送するには、陸上交通である基幹道路の建設が最も大きな課題であった。

「難波より京に至る大道」と言えば、難波宮より朱雀門を通り直線的に南進する「難波大道」を思い浮かべるが、推古朝の7世紀初期には難波宮は造営されていず、難波大道はもちろん、それと交差し南河内を横切る竹内街道もできていない。昨年歩いた大和における横大路と山田道については、小墾田宮へ行く道として推古朝には完成していた。また太子から大和へ入る竹内街道は既にあったとされているので、河内における大道とはどのようなものかが気になる。
渋河道
その大道として、柏原市立歴史資料館の安村俊史館長が注目されるべきルートを提案されている。難波津から上町台地の尾根筋を南に向かい、四天王寺から南東の柏原方面の伸びる斜向道であるとされる。このルート設定には厩戸皇子(聖徳太子)が深く関わっていたとされ、斑鳩を通過するうえ、7世紀初めから前半に創建された四天王寺、渋川廃寺、船橋廃寺、衣縫廃寺、平隆寺、斑鳩寺、中宮寺、額田寺など多くの寺院が道沿いにあった。これは渋河道から大和川に沿う竜田道を行き、さらに奈良盆地を斜向する太子道を繋ぐもので、山地を越えることなく高低差が小さい最短ルートだと言える。それ以前の大和川水運ルートに沿いながら、既存拠点も活用するという、7世紀はじめとしては現実的なルートだと思える。

天智・天武朝の大津道
孝徳天皇が大化改新(645年)の詔を発したという前期難波宮(難波名柄豊碕宮)は652年に完成した。難波大道はその後に、宮の位置から直線的に南下する道であり、推古天皇が宣下した「大道」ではないのである。今回探検する大津道、また南河内を通る竹内街道はそれ以降、7世紀後半の天智・天武朝の時代に、本格的な律令制度を施行するための統一的な国土計画に基づいて建設された官道なのである。道づくりにおいても、推古朝と天智・天武朝との間には大きな飛躍があったと言える。

大津道はどこまでも真直ぐな官道で、丹比郡を東進し律令時代の政治拠点の河内国府をめざした。この直線性は単に速く行けるという合理性のみからでなく、規則的に直交状に区画する土地割りである条里制を敷くためのものであり、大津道、丹比道(後の竹内街道)をその基準線としたのである。租税の原本であり国土計画の基準作りでもあったのである。

この平行する直線道路を基準として、規則的な条里制が敷かれ、正方形区画の水田地がどこまでも並ぶ。直線的な大道と規則的な条里制は一体的なものであり、当初から計画されたものだと言える。そのことを例外なく実施できたのが丹比の地域で、政権にとっても丹比の地は重要拠点であった。

中世の大津道(長尾街道)
中世以降、国府のような国衙の存在も軽視されるようになり、庶民の葛井寺参拝の人気も相まって大きく南に曲がり藤井寺市街地を通るようになった。この時点で大津道は官道としての役割を終え、河内や大和への流通路の一つ、庶民が行き交う街道となり、その名も「長尾街道」と呼ばれるようになった。

官道として整備される以前の大津道は、堺の津(港)で荷揚げされた産物・物品を河内や大和へ運ぶ道で、難波津からのルートとは別の道だった。その道は「プロト大津道」とも言えようが、官道の大津道と結ばれ、さらに重要な役割を担った。今回の探検は、7世紀後半を中心に、官道としての大津道の在り方を主に見ていくつもりだが、まずはプロト大津道として、その出発地点でもある港町・堺の古代風景と、そこから河内や大和方面と結ばれた古道を探っていきたい。