大和政権が最も憧れ、その制度・文化を吸収したいと熱望したのが唐であった。何度も遣唐使を送り、その最新情報を持ち帰り、アジア列国と並び立つ独立国として認められたいがためであった。その時、唐も大唐として最も繁栄した時代で、首都・長安は100万の人口を抱える世界都市だった。西安市内外の名所旧跡を巡り華やかな時代の長安の姿を想像してみたい。
隋・唐時代の長安
漢の滅亡後の中国は分裂の時代を迎えるが、五胡十六国や南北朝時代の北朝の諸王朝は、 漢代長安城の場所に宮都を構えた。6世紀末、隋が中国統一を果たし、西安の地に首都大興城を建設した。隋の滅亡後は李淵が唐として国土を統一し、大興城を基礎に長安城としてかつてない規模の拡張・改築を行う。北辺の中央に宮城と皇城を置き、城内の中心軸には南北に幅150mの幹線道路を作り、大小の道路を東西・南北に碁盤の目状に作った。城域は東西9.7㎞、南北8.6㎞と東西方向に長い四角形(東京山手線内面積の1.3倍程度)で、総延長23kmの城壁でとり囲まれていた。長安城外北東に大明宮を造営、663年以降ここで政務が執られ、城内東部には玄宗が政務を行う興慶宮を造営、南東隅の曲江池は遊宴の地だった。大唐時代と呼ばれる玄宗の頃に最盛期を迎え、人口100万人を擁する国際色豊かな世界最大の政治・文化都市となった。


左:隋・大興城坊の平面図(Wikimedia Commons) 右:唐・長安城の平面地図(日中友好会館美術館)
唐の滅亡後、宋の時代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移る。首都機能を失った長安は中国内陸部の地方都市として発展するものの、明代に城壁は縮小され、西安と改名された。
西の城門
ちょうど雨が止んだ頃、ツアーは西門の安定門に向かう。ここから西へ、かつて人々はシルクロードへと出発して行った。石組みの城壁に穿たれたアーチ門を通り広場に入る。城内のあちこちでコスプレした若者が、秦の始皇帝や楊貴妃気取りでポーズをとっている。メイクや衣服だけでなく、カメラマンもセットで撮影一式を提供されているようだ。意外と男子が女優気取りでポーズをとる場面が多い。今日日の中国の若者スタイルなのかもしれない。

上左:西の城門へ入る 同下:城門広場 同右:広場のあちこちでコスプレ撮影がされている 下左:現代の西安に唐時代の城域(東西9.7㎞×南北8.6㎞)を重ねてみた(グーグル地図) 同中:コスプレモデル、楊貴妃か? 同右:城壁の階段も格好の撮影ポイント
今残る西安の城壁は、随・唐時代の長安城の城壁を基盤に明代に築かれた城壁で、総延長は11.9km、高さは12m、頂部幅は12~14m、底部幅は15~18mである。城壁上から広々とした市街地が眺められるが、この城壁で囲まれた面積は唐時代の9分の1だという。唐代の都城はいかに広かったか、想像できないくらいだ。幅の広い城壁上の道をよく見ていると、城壁内部に少し傾いていて、内側の塀の縁にはところどころに穴が開いている。雨水がそこを通じて城壁内部に流れ、城内で雨水を利用していた。西安周辺は黄土高原の乾燥地帯を控え雨が少ない地域で、雨水も貴重な水源だった。
上左:城壁上から見た広場 同中・右:城壁を潜る市街地道路 中左上:城壁から見た市街地 同下:城壁上の道、少し右(城壁内部)へ傾いている 同右:城門の建物 下左:城壁が彼方に続いている 同右上:雨水を流す汲水口 同下:広場を囲む城壁
函谷関・三門峡からの帰りは、中国の新幹線・高速鉄道に乗った。行きと同じく、遠くに秦嶺山脈が見え隠れしながら、延々と畑が続く黄土高原を猛スピードで走るのだった。今(5~6月)は麦の収穫期に当たり、あちこちに黄色に輝く麦畑が広がっていた。麦の次はトウモロコシを植えるというが、水田がないのである。そのため主食は小麦粉で、西安料理の名物は餃子と麺類なのだ。刀削麺はいろんな出汁で食べたし、「餃子宴」で食べた各種類の餃子、特にその分厚い皮がおいしかった。
上左:山門峡駅に入る高速鉄道の列車 同右上:西安近くの川 西安近郊の高速道路網 下左:秦嶺山脈を背景に麦畑が広がる
大雁塔とは、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために建立された仏塔で、西安市南東部にある大慈恩寺の境内に建つ。当初は5層の仏塔で、玄奘自ら造営に携わったと伝えられるが、何度も倒壊や焼失をし、その都度建て直された。現在のものはレンガと木で組み上げられた7層64mの塔である。地下水の汲み過ぎによる地盤沈下で1mほど傾いているという。この塔に登る前に、塔の周辺にある寺院をいくつか見て回った。大雄宝殿の阿弥陀さんは優しい表情、その奥の細長いお堂ではお釈迦さんのさまざまな説教の絵が描かれ、これにお参りする人も多い。金色した千手観音さん。玄奘三蔵院では多くの信者さんがお経を唱えられていた。仏像はどれも金色に輝き、お堂はよく手入れされ明るい。お堂や仏さんは威厳を示すものでなく、気安くお参りに来たくなるような、近親感のある、そんな設えのように感じた。

上右:大雁塔南門から入る 同右:大雄宝殿と大雁塔 中左:大雄宝殿の阿弥陀仏 同中上:お釈迦さんの説法の絵 同下:大雄宝殿 同右:千手観音像 下左:玄奘三蔵院 同右:堂内にお経が響き渡る
50元(約1000円)を払って、いざ登楼。急角度の階段をヒイヒイ言いながら上るが、各層に踊り場的な展望窓があり、それぞれの層で覗いてみた。下からでは分からないが、大雁塔のある大慈恩寺は南北の軸線が明確で、大雁塔はどこからも眺められる都市景観を意識して作られている。 高くなるにつれはっきりするのが、西下に見えてい牡丹亭とさらに西方に雁塔西路を中心にマンションが林立する住宅街、南東の方角には大池のある大庭園。これが玄宗が在位(712~756年)した大唐時代に皇族の離宮であった芙蓉園であるが、樹木で覆われた広大な公園の中に大池や宮殿、眺望臺や花園などがある。かつては連日連夜、世界中からの賓客を招待し唐が持つ最高の芸術文化の華を披露していたのだろう。現在その跡地67万㎢に、大唐時代の栄華を体感できる大規模テーマ型文化公園が整備された。大池の向こうには、超高層マンション群が林立する現代中国的都市風景が展開されている。また、塔の南方には近年できた大唐不夜城という観光アミューズメント商店街がある。唐代の建物を模した劇場や映画館、ショッピングビルなどが並び、夜にはプロムナードに美しいイルミネーションが施され、ストリートパフォーマンスや伝統芸能が楽しめるという。別の日、雨の中、傘を差しながら歩いてみたが、若者に人気のある今風の観光スポットのようだった。大雁塔周辺は、古代からの歴史地区を読み直し、伝統とエンタメが融合するような観光集客エリアとして再開発している、そんなふうだった。
上左:大雁塔入口 同右:内部の階段 中(上)左上:塔から南方、大雁塔南門や大唐不夜城の歓楽街が見える 同下:西方、牡丹亭と彼方に雁塔西路を中心にマンション街 同右:北方、玄奘三蔵院と彼方に中心市街地 中(下)左:南東方、芙蓉園の文化公園 同右:大雁塔 下左・右:大唐不夜城の夜景とモニュメント
青龍寺
隋代の582年に霊感寺として創建され、唐代の711年に青龍寺に改名された。長安の南東部・新昌区にあった。唐に留学した空海は、ここで恵果大師に師事して密教の教義を学び、帰国後高野山で真言宗を開いた。ガイドの高さんによれば、恵果阿闍梨は空海に出会ってすぐにその資質を見抜き、自分の後継者として見定めた。空海はわずか3カ月で阿闍梨となり、恵果大師の後継者になったという。その後、北宋の時代に建物が全て破壊され、新中国成立後、1973年に塔と殿堂などの遺跡が発見、復元された。1980年代には空海の生まれ故郷・香川県をはじめ四国4県と真言宗関係団体の寄付により、空海記念碑や記念堂などが建立された。現在、四国八十八ヶ所霊場の0番札所として御朱印帳を購入することができるが、チョロチョロッと書いてもらって1万円也。上手い商法、ツアーの何人かも購入されていた。空海は偉大であることは認めるが、0番札所にはどこか引っかかるものがある。
上左:青龍寺の門 同右:大唐時代の長安の平面図 中左:門を入ればさらに高台に上る 同右上:空海の説明板 同下:空海の師匠・恵果の説明板 下左:四国4県などが寄贈した空海記念碑 同右:空海の直筆と言われる書
華清宮
中国の観光地等級はAから最高級の5Aまであり、これまで秦兵馬俑博物館、西安城壁、大雁塔など5Aの観光地を回ってきたが、長安の東北約30kmにある華清宮も5A級の観光地だ。唐が最も栄えた大唐時代、九代皇帝玄宗が冬場に寒い長安を逃れ、楊貴妃とともに遊んだ温泉地の離宮だった。楊貴妃は、そもそもは玄宗の子の寿王・李瑁の妃だったが、あまりに美しく、玄宗は自分のものにしようとした。そのため、いったん彼女を女道士にして修行させ、息子との縁を絶った後に後宮に迎えた。唐の詩人・白居易は、この玄宗と楊貴妃のロマンスを漢の時代に設定し『長恨歌』という長編漢詩に著した。息子の嫁を略奪することの罪を浄化しようとする道徳律、楊貴妃への愛情の深さを表す物語として多くのファンをもつ。しかし玄宗は愛欲におぼれ治世を顧みず、唐は衰退に向かう。玄宗と楊貴妃の愛の生活の最も良い時期を華清宮で過ごした。

上左:長生殿と手前の芙蓉湖、夜に池の上で歌舞劇が行われる 同右上:広場前にある楊貴妃が舞うモニュメント 同下:華清宮入場門、バックに老母殿山 下左:いろんな国の書道家が書いた石碑が立てられた小型碑林 同中:老母殿山も含めた華清宮全景 同右:華清宮は秦始皇帝陵に近い
雨に濡れしっとりした華清宮の庭に入って行く。芙蓉湖を手前に長生殿、そのバックに驪山(りざん)山系の老母殿山を拝した絶景だが、ロケーションを見るだけで満足しなく、池の下にパイプを巡らし噴水が噴き出す水上ステージを施している。夜には『長恨歌』をテーマとした歌舞劇を上演するというのだ。中国観光恐るべし。平等院や桂離宮などでこんなことは考えられない。温泉施設が今も残るというので見学した。玄宗皇帝専用の蓮華湯は10.6m×6mとビッグサイズだが、楊貴妃が一人で入ったという「海棠(かいどう)の湯」は3.6m×2.7mという小さなお風呂だった。玄宗が楊貴妃の眠る姿を海棠の花の美しさになぞらえて名付けたという。湯につかるピンクに染まった楊貴妃の肌が何とも悩ましい、そんなことを想像してしまう。宴会、歌舞音曲、美女、温泉…、こういう離宮生活にはまると、何もしたくなくなるだろう、玄宗さんの気持ちもよくわかる。

上左:楊楊貴妃が入った「海棠の湯」 同右上:温泉地の建物群 同下:太宋李以降の唐皇帝が入ったという星辰湯 下左上:玄宗皇帝専用の蓮華湯 同下:楊貴妃を中心にした宴会風景の壁画 同右:湯から上がる楊貴妃像
実質3日間の西安・古代史探検だった。秦の中国統一から項羽と劉邦の時代、漢王朝から大唐時代まで、その主だった名所旧跡を駆け足で巡ってきた。見ていないものが圧倒的に多いのだが、訪れた場所の時代背景や歴史上人物などを自分の興味の赴くままに調べながら、西安ないし長安の古代史の一角に侵入してみた。広大な国土が統一され、壮大な建築や文字や制度、仏教をはじめとする大文明が、日本がまだ弥生時代の紀元前3世紀代に構築されていたことに驚嘆するとともにその先進性にあこがれもする。一方、7〜8世紀の長安から遣隋・唐使がその先進文明を持ち帰り、ほぼ同時期に飛鳥・平城京などを建設し、律令体制を確立したことを思えば、日本人の立国へ意志の強さ、吸収・消化する巧みさを逆に感じるのである。日本の古代社会の手本であり、今に続く近代化志向の原点は、中国・長安であることは変わりのないことである。今の西安、古代の長安を見ることは、私の古代史探検においても避けて通ることができないことだった。今後も中国の歴史・文化を学び続けることに努力していきたい。(了)