竜田道を歩く・・・国分~青谷

河内から大和への道

 今年(2025年)の春には、堺の津から大津道を東へ東へと歩き河内国府まで来たのだが、それに続いている大和に入る古道は幾つもある。大津道は中世以降は、藤井寺で南下して長尾街道になり、允恭天皇陵の後円部に沿って道明寺辺りまで来て、現在の石川橋で石川を渡り柏原に入いる。柏原で南に方向を変え二上 の北側を取り巻いて田尻峠を越え、当麻に出て長尾神社に向かう。柏原で長尾街道に入らず大和川に沿って進むのが竜田道。もう一本、大津道と交差する東高野街道をさかのぼり、又は天王寺から来る渋河道から河内大橋(奈良時代以降)で大和川を渡り、安堂の集落から山中に入って青谷に降り、大和川北岸沿いに竜田道を行くルートもある。この辺りは大和川、石川の水運とも絡めて、京、難波、河内、大和をつなぐ何本もの街道が交わる交通の要衝なのである。今回は、大津道(長尾街道)を通って来たという前提で、柏原から大和川沿いを東に行き、竹原井頓宮を経由して斑鳩方面へと竜田道を行く。時代設定としては、聖徳太子の時代から聖武天皇辺りの時代、つまり飛鳥時代から奈良時代、四天王寺・法隆寺と飛鳥・藤原宮、難波宮と平城宮との間で往還された道のことを想像しながら歩きたい。

左:飛鳥~奈良時代の街道(『河内の古道と古墳を学ぶ人のために』(泉森皎著・世界思想社 ))から 右:河内国府を中心に街道が交差する

竹原井を通る竜田道

 飛鳥時代でも井戸は板井が普通になり、井筒を石で積みあげた石の井戸は珍しかったらしく、石積みの井戸であった竹原井を聖徳太子がわざわざ見学に来られたという。7世紀初めには斑鳩から柏原に来る竜田越えの道は既にあったと見える。竹原井自体は高井田(JR高井田駅付近)にあったことから、大和川北岸沿いか竜田山を越え青谷へ降りてくる道で来られたと思われる。時代は降り、平城京と難波宮を結ぶ中間点の青谷に仮の宮として竹原井頓宮が設けられた。竹原井頓宮は竹原井の付近でなく、1.7㎞ほど離れているが、これらをつなぐ道は大和川北岸を通り、地元の人にとっては常の道として利用され、難波と大和を結ぶ竜田道でもある。

左:難波津から小墾田宮まで行く飛鳥時代の街道(渋河道~竜田道~太子道) 右:奈良時代、河内大橋ができて以降の竜田道ルート。雁多尾畑の山越えをし、竹原井頓宮を通り平城宮へ行く(いずれも柏原市立歴史資料館の資料より)

 飛鳥・藤原京から平城京に都が遷る頃には時代も大きく変わり、難波と大和を繋ぐ道の在り方も違ってきた。平城宮と難波宮を最短でつなぐ生駒山越えも加わったが、川沿いに行く竜田道の重要性は変わらなかった。一口に竜田道と言っても時代によりさまざまなルートがあったことを頭に入れておこう。今回は、大津道から長尾街道を通り、石川を越え、大和川南岸沿いを行き、青谷で川を北に渡り、亀瀬越えをするという奈良時代初期によく使われたルートを行くことにする。竜田道とはどんな道であったか、実際に歩くことでその意味を考えてみたい。

近鉄・道明寺駅を出発、長尾街道経由で国分から竜田道を歩いた軌跡(カシミール3D)

石川を渡る

 大津道(長尾街道)の続きを歩くとして、近鉄道明寺駅で下車、府道12号堺大和高田線に出て東へ、石川橋を渡る。まだ9時前で、橋を渡って柏原の会社に通勤する人達にドンドン追い抜かれる。このおっさん何してるねん、と思われているのだろうが、スマホ片手に近鉄特急を撮ったり石川の流れを眺めていたり、こちとらは気楽なものである。橋を渡った所にあの大阪で有名な「大寅」のかまぼこ工場があるではないか。正月前には戎橋の大寅でちょっと張り込んで上等の紅白かまぼこを買ったものだが・・・・・・。殺風景な工場街の向こうにひときわ高い岡が見え、住宅が建て込んでいる。これが玉手山の北端で、古市古墳群よりも古い玉手山古墳群が散在している丘陵地である。結構高さがあり、急な坂道が上まで伸びている。岡がはみ出している分道路がそれを避けて急カーブの坂道になり、先が見通せずよく渋滞する。大和川も迫り、狭い空間に道路と鉄道がせめぎあう。昔からここを通る時は窮屈な感じがして、早く通り過ぎたいと思ったものだ。

上左:石川橋を渡り国分方面へ行こうとする通勤者たち 同右上:国道25号線沿いを走る近鉄特急 同下:石川橋を渡る 中左上:石川上流部、映画「国宝」のロケ地だった玉手橋が彼方に見える 同下:大寅のかまぼこ工場 同右:玉手山北端部の丘陵は住宅が建て込む 下左:丘陵部を回り込む25号線 同右:丘陵部を上る急坂

堤防を築き街をつくる

 近鉄大阪線の鉄道に沿って南に行けば大阪教育大学があり、さらに二上山の北側を取り巻いている道を行けば田尻峠を越え、大和へ抜ける。これが長尾街道であるが、二上山南側を通る竹内街道よりも起伏が少なく、歩きやすい峠道でもある。近鉄線のガードをくぐり、近鉄河内国府駅の手前を左に折れると大和川の堤防に突き当たり、国豊橋に行き当たる。江戸初期に風戸堤という堤防が付けられたが、土地が広がり堤沿いに新町を造成した。川沿いに船着き場が設けられ、大和と大阪を結ぶ国分船の中間港として利用された。奈良街道がこの新町を通り、柏原は水路と陸路ともに交通の要衝として繁栄したという。亀の瀬で通りにくいところもあるが、大和川は人・物を運ぶ水運としても重要だったことを思い起こさねばならないだろう。P説…昭和20年ころの大和川南岸の国分。標高21~22m程度の低地に新町が開かれている様子がわかる。東側の旧村は標高40m程度の丘の上にある。

上左:近鉄大阪線のガード 同右上:南に行けば河内国分駅 同下:北に行けば国豊橋に 下左:風戸堤完成時の古図 同右:昭和20年の航空写真。堤防際の低地に新町が広がっている(カシミール30航空写真より)

 堤防上を歩きながら対岸を見渡すと、生駒の山塊をバックに河川敷の風景が広がる。春先なら気持ち良いのだろうが、太陽が強烈に照り付ける下、隠れるものがなく干からびそうだ。眼前に山地が見えだすと上り坂になり、昔からの集落に入って行く。旧村を抜けると国分神社の鳥居が見え、潜るとそこは松岳山古墳の入り口でもあった。この古墳は、古市古墳群ができる前、大和から河内へ進出しようとした大和政権の前哨地ととらえ、一帯を治めた豪族の墳墓とする見方がある。同じように玉手山古墳群も河内への前進基地のようにとらえられる。松岳山古墳の石棺、両端に大きな板状の立石があって好奇心をそそるが、今回は登らない。

上左:広々とした河川敷公園 同右上:対岸の高井田付近を遠望する 同下:川沿いから山地の旧村へと入って行く 中左:国分神社鳥居 同中:国分神社の本殿 同右:国分村は一段高いところにあり、坂道が多い 下左:村はずれの道から神社への道が分かれる 同右:神社から南側に降りると旧村への道に入る

 国分神社は古墳とは直接関係がなさそうで、あくまで国分村の鎮守さんであるようだ。村内一帯を見渡せる山の中腹にあり、樹木が厚く覆っている。境内の木陰で一休みし、正面の石段を下りていく。

河内国分寺

 また影のない道を歩くが、大きな工場棟が何軒か建つ。昔、ここに光洋ベアリングの工場があったはずだが、「JTEKT」という横文字の名になっている。ベアリングだけでなく、ギア、センサー、介護ロボットなんかも造って事業拡大しているようで、社屋も美しく、社員用の駐車場も完備して、働きやすい環境のようだ。こんな工場が日本のモノづくり産業を支えている、その生々しい現場を見たような気がする。奈良街道・国道25号線に沿って並ぶ工場街を過ぎたところに右に入る細い道が付いている。こんな急な斜面に寺を造れるような広い敷地があるのだろうかと、疑心暗鬼で山道を上っていったところに、河内国分寺の塔跡があった。

上左:神社から国分市場の町に入ると金属加工の工場が並ぶ 同右上:山側には団地や戸建て住宅が建て込む 下左上:国道25号線沿いにJTEKTが工場街を作っている 同下:河内国分寺への山道 同右:国道25号線から国分寺への道が付いている

 一辺19m、高さ1.54mという、一面に凝灰岩が敷かれた基壇が残っていたという。基壇の上には丸い礎石があり、一辺10.36mの塔、恐らく七重塔が建っていたと推測される。伽藍配置は、塔の北側に食堂、大炊屋、西側には金堂と講堂があったということだが、今は畑や果樹園になっていてまだ発掘されていない。国分寺の寺域は、ある程度の段差はあったのだろうが、200m四方の面積があったように推測される。国分寺は、聖武天皇が国家鎮護のため諸国に命じて建立された寺院で、この大きさなら、河内の国分寺としては恥ずかしくない規模だったろう。なぜこんな山地に、という疑問はあるだろうが、大和と河内の交通の要衝であるし、なんと言ってもここから見下ろす渓谷の景観が良かったことに決め手があったように思う。塔跡から少し上って見下ろすと、生駒の南稜をバックに、大和川沿いの松岳山、それが途切れた西方の彼方に古市の古墳群も眺められる、そういう歴史的でもある広々とした景観が見て取れるのだ。さらに、竜田道を行き来する人々に山中に屹立する七重の塔の美しい風景を見せたかったのだろう。

上左:河内国分寺塔跡全景(復元) 同右上:基壇に上る階段(復元) 同下:発掘当時(昭和45年)の基壇と階段 中左:塔の礎石(復元) 同右上:約200mとした寺域における伽藍想定配置(Google航空写真)  同中:食堂があったと見られる辺りは畑 同下:金堂があったと見られる辺りは果樹園 下:国分寺を含めた全体の景観。西(左側)彼方に古市古墳群が望まれる

夏目茶屋の渡し

 帰りは果樹園の縁を歩いて下り、JTEKTの工場の間を通って25号線まで出る。少し西に戻ると、大和川に架かる吊り橋があるというではないか。信じられない気持ちで、ともかく茂みの中を通り近くまで行ってみる。真っ赤に塗られた橋柱が建ち、その先に吊橋が伸びているのだった。説明板には、江戸期には天王寺から来る渋川道、堺からの長尾街道、二上山の北回りをする関谷越道、田尻越道、龍田へ行く亀瀬越道、それに加え舟運もあり、この辺りにすべて集まり賑っていた。その賑わいを目当てにナツメの木が目印だった夏目茶屋があり、この地点から対岸への渡しを夏目茶屋の渡しと呼んだ。明治初期に今の国道25号線ができるまでこの渡しはあったという。

上左:大和川に架かる吊り橋の川端橋 同右上:吊り橋入口の注意書き看板類 同中:橋上から下流域を見る 同下:上流域、中州もあって浅い流れ、彼方に明神山が見える 下左:渡った向こう、青谷側から見た吊り橋 同右:国分寺、青谷遺跡、飛鳥時代の竜田道を記した地図

 吊り橋はそれ以降に付けられたものだが、正式には川端橋と言い、全長88m、地元では青谷吊り橋と呼ばれる。歩くごとにゆらゆら揺れて、こわごわながら吊り橋を渡ってみる。川風が吹いてとても涼しい。橋の真ん中から川瀬を見ると中州があったり、岩が洗われていたり、かなり浅瀬の様子。水かさが増えていない限り歩いてでも渡れるくらいだ。古代の人々も川を歩いて渡っていたに違いない。

河内大橋とは

 柏原市立歴史資料館によると、奈良時代、平城京から難波宮への行幸ルートは、大和川右岸の竜田道を行き、南に大きく蛇行する青谷の南方で対岸に渡り、石川を渡って大和川左岸を進み渋河道を通るとされる。馬に乗ったり、大きな荷物があったり、皇族などをみこしに乗せて2回も川を渡るのはなかなか面倒だったに違いない。神亀3年(726後期難波宮が完成すると両宮の往還は頻繁になることから大和川に架かる橋が構想され、730年ころ東高野街道と竜田道の交差点付近(柏原市安堂)に河内大橋が架けられたとされる。この橋は大和川の一番狭いところに架けられたと言うが、300m以上の幅があった。河内大橋ができてからの行幸ルートとして、竹原井頓宮まで来て休憩され、その後青谷を上って雁多尾畑山を越える尾根道を行き安堂あたりで河内に下り、河内大橋を渡り難波へというルートが中心となる。

上左:河内大橋は古代大和川の一番細いところに架けられたと推定される(柏原歴史資料館の資料より) 同右上:五重塔が2基建つ薬師寺様式だった知識寺(現地説明板) 同下:奈良時代の竜田道を示す地図(同資料より) 下左:復元模型の河内大橋(同展示より) 同右:航空写真に見る河内大橋の推定地(同資料より)

 この時期、東高野街道沿いには河内六大寺という豪壮な寺院が6つも建てられており、特に東西に五重塔が建つ薬師寺様式の伽藍配置をもつ知識寺は大寺院だった。聖武天皇がここに立ち寄られ、その大仏を拝した時に東大寺大仏建立の発想を得られたという。「知識」と呼ばれた仏教信徒の財物及び労力の寄進によって建立されたのだが、河内大橋についてもこれらの「知識」たちの活躍があったに違いない。大和と難波の中間地という交通の要衝であることで膨大な財力を持った柏原は、古代にはもっとも繁栄した土地だったと思えるのだ。

竹原井頓宮

 吊り橋の上から川上の彼方に、この辺りの最高峰・明神山が見える。私も大和川を渡って、北岸沿いに亀瀬越の竜田道を行くのだが、この三角山が道中の目印にもなるのだろう。大和川が南に大きく蛇行する部分に吊り橋が架かるが、このはみ出した部分に竹原井頓宮があったことが発掘調査でわかった。スポーツ公園造成の時に新しい道が付けられたが、それに沿って歩いていると雑木林の植林地の一画に竹原井頓宮の説明看板が出ている。気を付けていないと見過ごすところだったが、宮跡らしい何の設えもない平坦な土地に過ぎない。

上左:雑木に覆われる竹原井頓宮跡地 同右上:川端橋あたりから北方に向かう 同下:遺跡前には説明板が 下左:発掘当時の遺跡の様子(昭和59年ころ) 同右:青谷遺跡周辺の航空写真(柏原市)

 この一帯は青谷遺跡と名付けられ、竹原井頓宮の遺構は山を削って造成され、回廊の北には築地塀が築かれ、平城京や難波宮・河内国分寺出土のものと同じ種類の瓦が出土しており、外側には掘立柱の建物があったと推定されている。

左:竹原井頓宮跡辺りから望む大和川南岸渓谷の景観。三角峰が明神山 右:河内国分寺があった辺りの山裾の景観

 奈良時代に天皇が平城宮と難波・河内を行き来する際に使用された離宮。養老元年(717)2月に元正天皇が和泉宮から平城宮へ還る途中に竹原井頓宮に宿泊したのを初めとし、難波宮を造営後の天平6年(734)には聖武天皇が難波宮から平城宮への帰路に2泊している。立地としては、平城宮から難波へのほぼ中間地点で、今日・浪速・河内・大和を結ぶ陸運水運の要衝地であることに加え、大和川が蛇行し狭い渓谷を流れる自然景観、それに国分寺や河内六大寺などの多くの古代寺院が周囲に建てられていることから、これらの眺望が得られることが天皇の離宮に相応しいものであった、とも考えられる。

竜田道の古道を見つける

 さらに竜田道を東に向け歩いて行くと、国道25号線へ繋ぐ道路を越えて、そのまま真直ぐ細い道が付いている。この細い道が昔からの竜田道だろう。少し坂道を上るとJR線を越える小橋があり、すぐに快速電車が来て足元を軽快に走り過ぎていく。読み取れないが「右・・・、左・・・」という道標もあることから、これは古街道に違いない。放置された畑に草が生い茂っているが、古道はコンクリートで舗装され軽快に歩ける。時折畑の向こうをJR線電車が通り過ぎる、鉄道百景にも推されるような風景の中を歩く。ぽつぽつと家並が現れ太い道に出ると、すぐそこにJR河内堅上の駅があった。昼時も過ぎ、空腹と暑さで本日はここでリタイア、電車に乗って柏原へと帰るのであった。(探検日:2025.7.2)

上左:JR関西本線を越える小橋は竜田道でもある 同右上:竜田道は、国道25号線につながる道路を横切って伸びる 同下:石の道標が道脇に立つ 中左:自然模様がペイントされコンクリート壁 同右:一本の木立が古道のシンボルとなって癒される 下左:JRの列車が音静かに走っていく 同中:青谷集落に入って行く 同右:JR河内堅上駅

<一口メモ>

 平城京から竜田道を来て難波宮へ行く場合、先程の夏目茶屋渡しの川沿いには行かず、ここから山の方、青谷集落を通り金山彦・金山媛神社から雁多尾畑(かりんどおばた)を通るコースもあった。そのまま安堂の集落に降りて、河内大橋を渡ることができる。雁多尾畑周辺では弥生~古墳時代に製鉄が盛んに行われていた。朝鮮の言葉で鉄・刃物のことを「カリ」とか「カル」と言いカリンドオバタとは製鉄・刃物作りに携わる人のいる場所という意味という説もある。 金山彦・金山媛神社も鉄に関係する神社である。

author avatar
phk48176
古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。
投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

おすすめ

(2)件のコメント

  1. 田中弘一

    立派な旅行記です。この様な旅日記をまとめられるのは、地元にすむ者にはその努力そして価値が分かります。保存を申し込まることをおすすめします。やはり近畿経済産業局又は近つ飛鳥博物館に相談されると良いでしよう!

    1. phk48176

      いつもありがとうございます。保存?まあ、誰も相手にしないでしょうね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください