前回の終点、JR大和路線河内堅上駅から出発。竜田川、つまり大和川の北岸に沿う道を熱射と闘いながら、亀の瀬、峠八幡、龍田大社から信貴山口の勢野まで歩いた。昔人も、亀の瀬の崖崩れは怖いけど、急坂がなく歩くのに楽な竜田道を好んだ。大和と難波・河内を結ぶ、聖徳太子の時代からあるこの街道の重要な役割を探求しながら歩くのだった。

JR河内堅上駅から亀の瀬、龍田大社を通り王寺駅まで、竜田道を歩いた軌跡(カシミール3D)
鉄ちゃんではないけれど・・・
次の三郷駅まで、この川の渓谷を抜ける路線は撮り鉄ならずとも、なかなかの鉄道写真になるはずだ。線路沿いを東へと進むが、5分もしないうちに何本も電車が通過する。大和路線の各停と快速が次々と行き来するから、撮影チャンスはすぐにやってくる。しばらくは鉄ちゃんのふりをして歩く。
JR関西本線・河内堅上駅と往来する列車。下右:崖下にある地蔵尊、崖崩れなどの事故があったのか?
線路脇の道はそそり立つ崖の下を通る。300mほど行くと踏切があり、その手前に一軒家。蔵もある立派な住宅だが、よく見ると庭の手入れが滞っている。つい最近まで住んでいたようだが、無人家だ。今後このような空き家を何軒も見ることになる。踏切を渡ると下り坂になり川沿いの道を行く。途中に大和川の流れもちらちらと見え、川の向こうにはこの街道の目印でもある三角山、明神山がデーンと構えている。うっそうとした樹林の中に倉庫付きの一軒家。廃車になった車が置かれ、いろんな工具類が散らばっている。所ジョージでもないが「堅上ベース」と言ったところか。そばには網で覆われた畑もあり、休日にはここで過ごす二軒目の家のようだ。家裏の一段高い軌道を頻繁に電車が通る。
上左:踏切手前にある誰も住んでいなそうな民家 同下:踏切を渡り川沿いを行く 同右:大和川の向こうに明神山が望まれる 下左:堅上ベース? 同右上:川沿いを行く街道 同下:街道の崖上を列車が通る
亀の瀬鉄橋
大和川に架かる鉄橋が見えてきた。ここが一番の撮り鉄ポイント。ややして対岸のトンネルから列車が現れ、鉄橋を渡って来て私の頭上を通過する。何台も見送りながら鉄橋を渡る列車の姿を楽しむ。鉄橋自体は、2019年「土木学会選奨土木遺産」に認定された。
左:鉄橋手前のガード下 右上:亀の瀬の鉄橋を渡る列車 同中:竜田道は鉄橋のガードを潜る 同下:「土木遺産」の銘板
古代からの竜田道は、急峻な谷の中腹を削って付けた道だから道幅に余裕はなかった。鉄道は古道をさらに拡幅して軌道としたのであって、関西本線は竜田道の上を通ったということになる。鉄橋が架かる前までは、緩やかな曲線を描きながら大和川北岸の崖沿いを進み、三室山の山裾に突き当たる。鉄道はその先をトンネルとしたが、古道は山を北の方に上り、峠八幡へと向かう。



上左:亀の瀬付近の歩行軌跡と各地の標高(カシミール3D) 同右上:地滑り前の関西本線の軌道(HP「遺構巡りと旅日誌」より) 同下:複線になった亀の瀬トンネル(広瀬和彦「鉄道写真集」亀の瀬の大和路線より) 下:亀の瀬付近の民家には廃屋も多い。地崩れ前には、この街道筋を関西本線の線路が通っていたのか?
さて、この区間は地滑りの多発地帯であり、1931年から翌年にかけて大きな地滑りが発生し、亀ノ瀬トンネルも変形して使用不能となった。そのため亀の瀬と三郷の2カ所に橋を架け大和川の南岸に迂回するよう軌道が変更された。東海道本線の並行路線という軍事的な重要性が高いため、1932年7月に着工、その年の大晦日に開通するという急ピッチの工事だった。正月のお伊勢参りに間に合わせるため、という噂もあるのだが……。亀の瀬に架かる鉄橋、第4大和川橋梁は、トラス構造体が川の流れに直角に架かり、その上に線路が斜めに敷かれるという特殊な構造になっている。何処かで使用されていたトラスを移設したらしく、その分工事は早かった、そのように思うのだが・・・。




上左:亀の瀬の鉄橋を渡る列車(第4大和川橋梁) 同右上:トラスの上を斜めに線路が敷かれている 同下:対岸の南岸側を走る列車 下左:亀ノ瀬トンネル崩落現場写真(亀の瀬資料館展示絵はがきより) 同中:地滑り修復工事(亀の瀬資料館展示より)同下:亀の瀬遂道絵図(HP「暮らしの顛末くまくまコアラ」より)
1932年の地滑りは峠八幡から亀瀬龍王社の間の方が激しく、地中のトンネルが崩壊するほど深い所まで滑っていた。その結果、1932年2月亀ノ瀬トンネルの使用を中止し、トンネルの両側に「亀ノ瀬西口駅」「亀ノ瀬東口駅」という仮駅を設置し、両駅間を徒歩連絡とした。その時歩いたコースは竜田道であったろうか。
亀の瀬
この夏は雨もあまり降らず晴天の日が続き、大和川の水量も少なく、亀の瀬の亀岩の甲羅が水面に浮き出ている。今までは甲羅の上部だけを見て、皆が言うから亀岩と見ていたのだが、今回川下の崖を降りて近くから見ると、甲羅の下に頭のような小岩が飛び出ている。その様子は亀以外の何物でもなく、やはり亀岩なのだ。
左:首が見えて亀らしくなった亀岩 右上:水かさの少ない亀の瀬の流れ 同下:浅瀬が続く亀の瀬の下流
水かさのない今日のような日は浅くて舟など通れない。また水かさの多い日には急流となって舟の舵操作が難しいことだろう。舟から降りて、三郷辺りの穏やかな流れのところまで歩き、また舟に乗る、そういう通行しかなかったであろう。608年に裴世清が小墾田宮の推古天皇に会うために、大和川を伝って来た時もここで一旦降りたと言われるが、この浅瀬を見たら納得もする。
畏の坂、懼坂道
亀の瀬周辺を一巡して、地滑り前まで関西本線が通っていたトンネルの入り口跡まで来た。金網で封鎖された「大阪鉄道亀瀬隧道」の前に行くと、トンネルからの涼しい風が吹いてくる。金網に背を当て、しばし涼風を味わうのであった。
上左:亀ノ瀬トンネル(大阪鉄道亀瀬隧道) 同右上:排水川の上を竜田道が通る 同下:15号の集水井 中左:トンネル(隧道)の内部 同中:トンネルから涼しい風が吹いてくる 同右:15号集水井の内部 下左:亀ノ瀬トンネルが並ぶ 同右:亀の瀬龍王社の鳥居、祠はこの裏の丘の上にある
この地の地滑りは4万年前から起こっていたというが、日本書紀や万葉集にも「畏(かしこ)の坂」「懼(おそれ)坂道」として恐れられていた。その坂道は峠八幡から峠の集落を南下して亀の瀬まで来る道で、竜田道とは別だったという。昔人は地滑りを神の祟りと懼れ、峠八幡や亀の瀬龍王社を鎮めの神として祭った。地図を見ると、亀の瀬より東側が迫り出し、大和川の流れを南に曲げているのは、太古から多発していた地滑りの結果であった。亀瀬越えの竜田道は、峠八幡から亀の瀬、青谷の南端から高井田までの大和川北岸沿いを行く。坂道は峠八幡から亀瀬八幡社の辺りだけで、比較的楽なコースだった。恐いのは亀の瀬の地滑りだけという道中なのだ。
峠八幡
竜田道と言われる道を歩いているつもりだったが、本来より少し南側を歩いていたようで、これが天武朝に言われていた「畏の坂」道の一部だったのだろうか。しばらく行くと広場に出て、地滑り防止工法の説明板があった。地滑り防止対策として、直径6.5m、最長100m(一部は直径4m、長さ30~40m)ものコンクリート杭が何十本も打たれている。これが深礎工という工事で、1本で6000トンの力で地滑りを止めるという。巨大な杭の地上部を見ながら北方に伸びる坂道を上ると峠の集落に入る。
上左:峠集落南側の地滑り地域 同右上:亀の瀬から舗装された竜田道を上る 同下:左に行けば竜田道、真直ぐは「畏の坂」から峠集落に向かう 中左:地滑り対策工事用に広げられた道 同中:深礎工の説明図 同右:直径6.5mの深礎工の杭の地上部 下左:峠集落への坂道、これが「畏坂」の一部とみられる 同右:地滑り防止区域の東側が大和川を南部に押しやり川筋を曲げている。この部分に杭が多いことがわかる
住宅なのか畑なのか、道沿いに丁寧に積まれた石垣が続くが、人の気配が伺えない。峠八幡への案内板を見ながら進むと、地蔵堂と峠八幡の鳥居が見えてきた。この峠は天武朝の竜田の関跡と推定され、壬申の乱の時は大和と河内の国境として争われ、平石道、大坂越などと同様に、竜田越が重要な関所として扱われた。奈良時代以降は平城京と難波宮を結ぶ行幸路として、この神社西側の坂道を北に向かい、雁多尾畑から稜線道に出て柏原の安堂に下り、河内大橋を渡り渋川道に出るというコースがとられた。その意味では峠八幡付近は交通の要所として栄えたはずで、江戸期には代官屋敷もあったという。亀の瀬から歩いてきたが、人っ子一人に出会わなかった。この神社の東側にも大きな屋敷跡があるが、山深く道が狭いことから、現代人にとっては住むに値しないところなのかもしれない。
上左:石垣が続く峠八幡への竜田道 右上:峠八幡への道 同下:雁多尾畑への道 下左:雁多尾畑へ向かう道と竜田道の交差点、奈良時代以降の行幸は雁多尾畑への道を使った 同右:峠八幡と延命地蔵尊のお堂(合成写真)
道は東へと下り坂になり、うっそうとした森中の山道を歩き、大阪府・奈良県の境界線をまたぐことになる。古代には大和と河内の境界だった峠八幡辺りが、今も府県境だと思っていたが、それよりかなり東側だ。地図を見ると、生駒山地、二上山、金剛・葛城山の山頂を繋ぎ、それらの稜線を府県境としているのがほとんどだが、柏原市だけは奈良県側に大きく食い込み、その山裾まで含んでいる。これは近代になってからの仕業だろうが、地滑り問題が絡んでいるのか?国交省としては地滑り区域が両府県にまたがるのは防止対策上良くないということかもしれない。

上左:峠八幡の東側にある屋敷跡 同下・右上:鬱蒼とした森の中を東方に下る竜田道 下左:大阪府・奈良県境を歩く 同右上:府県境界の表示 同下:柏原市は奈良県側に大きく食い込んでいる(Google Map)
龍田古道に沿って
やっと人里に降りてきた。そこは奈良県生駒郡三郷町の区画整理された住宅街だった。昔の道は改変されているのだろうが、要所には「龍田古道」という表示板が立ち、竜田道は町の記憶に残っていた。大和川沿いに出ると鉄橋を渡る列車がこちらに向かってくる。これが地滑り後の1932年に付け替えられた関西本線で、第3大和川橋梁というものだ。幅が150m以上もあろうか、緩やかな流れの大和川を斜めにまたぐ鉄橋で、雄大な風景をつくっている。橋の付け根のところに「磐瀬の杜」という小公園があった。鏡王女の作とされる立派な万葉歌碑が据えられている。「神南備の 磐瀬の杜の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋まさる」鏡王女は天智天皇に愛された女性で、その恋心の切なさを歌う。それはともかく、天智なり鏡王なり、古代の偉人がこの辺りを行き来したことが伺われる。
上左:三郷付近の大和川に架かる鉄橋(第3大和川橋梁) 同右上:山地から三郷の町に降りてくる 同下・下左上:三郷町の住宅街 同下:高橋虫麻呂の歌碑がある信貴山への道路 同右:「磐瀬の杜」小公園にある鏡王女の歌碑
さらに行くと信貴山への道路の入り口に高橋虫麻呂の歌碑が堂々として立っている。「我が行は 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし」虫麻呂の仕える主君の藤原宇合が難波へ下り、7日以内に帰るまで桜の花を散らすなと、龍田の風神にお願いをする。虫麻呂一行は、平城京から難波宮へ竜田道を通ったとされるが、どのルートだったか?私が歩いてきた亀瀬越えではなく、また峠八幡から北に向き雁多尾畑まで上るルートでもなさそうだ。桜の花が歌われていることを見ると、三郷町の住宅街を抜けて桜の名所と知られる三室山に登っていくルートのように思われる。
龍田大社
JR三郷駅を過ぎ山手へ行く道路を越えると龍田大社への坂道となる。坂の登り口に急な石段が付いていて、そこが先ほどの鏡王女の「…呼子鳥・・・」に歌われていた神南備神社だという。石段を登れば、狭い頂にポツンと小さな祠が建っているだけだった。拍子抜けしてしまったが、また坂道に戻り、今度は左に曲がりさらに登って行く。閑静な住宅街の坂道を登り切ったところに現れたのが龍田大社だった。標高80m程度の独立した山の東斜面、その70mくらいのところに神社があり、今ではすっかり住宅地になった立野の町を眺望できる絶好のロケーションにある。

上左:龍田大社への坂道 同右上:三室山と龍田大社を表示する「龍田古道」の標識 同下:神南備神社付近の坂道 中左:神奈備神社への石段 同右:龍田大社から立野地域の地図(Google Map) 中下左上:龍田大社への坂道から立野の町を眺める 同下:大社本殿前 同右:本殿前には願い事が書かれた風鈴が飾られていた 下左:龍のしめ飾りが柱を巻く本殿参拝所 同中:拝殿そばにある万葉歌碑。高橋虫麻呂の「島山をい往き廻る・・・名に負へる社に風祭せな」 同右:大社南の入り口
龍田大社は、風神を祭る。風の神様とは、天と地の間にあるもの、大気・生気・風力を司り、天地宇宙の万物生成の中心となる「気」を守るとされる。古代ギリシア語の「プネウマ」も同様で、風や空気のような大いなるものの息のことで、呼吸、生命、さらに超自然な存在をも意味する。そんな不確かなものを神様とするのは、あらゆるものの存在の根本原理を明らかにしたいという探求心があるからで、その心理は洋の東西を隔てず共通なのだと納得する。

上左:青谷から御座峰へ上がる製鉄の道の地図(カシミール3D) 同右上:金山彦神社 同下:金山媛神社 下左上・下:坂道沿いに家が並ぶ雁多尾畑の集落 同右:龍田山伝承の地・御座峰(以上の写真:2018年1月撮影)
龍田大社の風の神様が降臨されるのは、三室山の先にある龍田山伝承の地・御座峰(ござがみね)という聖地だとされる。最も重要な祭りである風鎮大祭が毎年7月に盛大に行われるが、大祭の無事斎行を御座峰において奉告されることによってすべての祭行事が終了する。風の神様の降臨地が何故大社と離れた御座峰かというと、そこは古代には製鉄の拠点であった雁多尾畑の上部にあり、この山の南麓には製鉄や鍛冶生産を守護する神を祭る金山彦神社や金山媛神社がある。製鉄には強い火力が必要で、それを生み出すのが風であり、鞴である。つまり鉄の生産には風が欠かせないのである。風への切実な思いから風を祭る風習ができ、御座峰を風を生み出す神聖な場と決めお参りするようになった。鉄の生産が龍田大社創設の原点のような気がする。
立野農住土地区画整理組合
龍田大社から北方へ伸びる竜田道、滑らかに曲がりながら村中を行く。山の方から真直ぐな道路が降りてくる角に石碑が立っている。「立野農住土地区画整理組合」とは聞きなれない組合名だが、「農住」とは、市街地区域となった農地の所有者が集まり、農地を残しながら区画整理を進め、いずれは住宅地化していこうという長期的な計画。つまり農業継続が難しい地域で、営農しながらも宅地化していく都合の良い区画整理事業のようで、宅地並み課税を遅らせる税金対策でもあろうが、うまく考えたものだ。碁盤目に道路が通り、今はほとんど宅地化されているが、田畑もまだ残る。少し上には「農住1号公園」なる公園もあるが、元住民と新住民がうまく付き合えるような開発でもあるように思えるが、どうだろう。
上左:龍田大社北側、立野北の街並み 同右上:道端の地蔵堂。 同下:細目勝ちの優しい顔の地蔵さん 下左上・下:区画整理で真直ぐになった道 同右:立野農住土地区画整理事業組合の記念碑
経済道路としての竜田道
竜田道はどんどん下り坂になり大和川近くになって左折し、また上り坂になる。その坂を上ったところに町立三郷中学校の真新しい建物が建つ。立野地域を治めていた立野氏は龍田大社を管理するとともに、この中学校の地にあった善福寺を建立した。竜田道は中世から近世にかけて大和と大阪・堺を結ぶ経済道路でもあり、大和川の水運も合わせて立野はその中継地として大いに栄えた。また信貴山への入り口にも当たり、信貴山城の出城である立野城もあったという。この高台からは大和川の流れと大和盆地の全貌が把握され、戦略上においても重要な場所だった。善福寺の地に関所を築いた聖徳太子の時代から、この地の重要さは認識されていたようだ。
上左:大和川へと向かう下り坂 同右上:一段高いところは立野城があった城山台 同下:坂を下りきった向こうに大和川の堤防が見える 下左:善福寺があった三郷中学校 同右:曲りくねる竜田道
平群氏の拠点・平隆寺
奈良県道195号線に合流し、近鉄生駒線の踏切を越え、信貴山下駅に沿って進むと勢野という集落の昔ながらの街並みになる。駅周辺は三郷町の行政機関が集まるところで、役場をはじめ文化センター、多目的広場などが県道沿いに並ぶ。この広場から真北に300mほど行ったところに平隆寺がある。別名は平群寺とも言い、平群氏の氏寺と考えられ、聖徳太子が創建した46カ寺の一つに数えられる。中宮寺跡から出土した瓦と同型のものが発掘されていて、飛鳥時代の創建であることがわかる。平群氏の領地は生駒山の東麓から松尾山地西麓の谷あいに広がる一帯だが、その南端である勢野を重要視した。大和川北側の丘陵部に位置し、大和全体を一望できる勢野を拠点にし、大和と難波・河内を結ぶ竜田道、さらに大和川の水運を手中に収めておきたかったのである。中世以降の立野氏と同様、飛鳥時代には平群氏が同じ野望を持ちながらこの地を治めていたのだ。
上左:勢野の町中を通る竜田道 同右上:信貴山下駅に向かう近鉄生駒線の電車 同下:勢野の竜田道 下左上:道沿いに広がる三郷中央公園 同右:大和川の向こう、左から伸びる山地の麓は斑鳩辺りか
竜田道が信貴川に差し掛かるところで本日の探検は終了。入道雲があちこちで立つ真昼間、熱射の中これ以上続けると本当にやばい。川沿いに伸びる道は北方に行けば近鉄勢野北口駅に、南に行けば大和川にぶつかり明治橋を渡って王寺駅へと向かう。橋を越えて北東方面を眺めると、なだらかな山並が見える。あれが次に行く法隆寺に迫る山地なのだろうか。(探検日:2025.8.16)