大和川を見下ろしながら、標高5、60mのところを行く竜田道。平群氏の拠点・勢野を見て、住宅街のなだらかな坂道を登り降りした後、竜田川を渡ったところからがぜん歴史街道になる。龍田の町の虫籠窓と厨子二階の家、龍田神社から法隆寺・若草伽藍へと飛鳥時代まで遡る街道歩きは、ここで一応終了する。

近鉄生駒線王寺駅から勢野まで電車で行き、その後は竜田道を法隆寺まで歩く(カシミール3D)
平群氏の氏寺・平隆寺
前回勢野に来た時、平郡氏の氏寺である平隆寺に行けなかったのが心残りだった。今回はJR王寺駅で近鉄生駒線に乗り換え、平隆寺の最寄り駅である勢野北口駅で降りることにする。まだ9時だというのに熱謝がガンガン来る。駅の北側の坂を上って行くと、野原の向こうに寺の甍が見えるのだが、そこへ行き着く道が見当たらない。南側に回り込むような形で遠回りしてやっと山門に行きつけたが、門は閉ざされていて中に入いることができない。

上左:原っぱの向こうに平隆寺の甍、彼方には信貴山が見える 同右上:近鉄生駒線勢野北口駅 同下:県道236号(信貴山線)から左へ入る 中左上:平隆寺の崖下に生駒線が走る 同下:保育園沿いから踏切を渡り勢野の町へ 同右:平隆寺正面 下左:平隆寺入り口から案山子を通して南方を見る 同右:平隆寺から南へ下る斜面に勢野の町が広がる(カシミール3D)
平隆寺跡で発掘された瓦が中宮寺跡出土の瓦と共通の型式を持つことから、両寺院は同時期である飛鳥時代の建立で、聖徳太子建立寺院の一つと考えられている。また生駒山東麓から松尾山西麓にかけて治める平群氏にとって、難波と斑鳩、飛鳥などとパイプを持つためには大和川と竜田道のある勢野の地が重要で、ここに氏寺を建てたのは納得がいく。古代史にとって重要な寺院なのだが、寺領はかなりへつられ今は本堂周りのみになっている。山門の南側には畑があり、その下を近鉄線が通り、大和川まで勢野の町が広がっているが、平群氏はこの広々とした景観が欲しかったのだ。
上左:坂道の路地が縦横に通る 同右上:勢谷寺西側から近鉄線を見る 同下:「左☜信貴山」と書いた竜田道に立つ道標 下左・右:斜面に建つ大きい家々
西側に立派な勢野保育園が建つが、この辺りまで寺域であったと思われる。保育園沿いを南へ行き、踏切を渡って勢野の町中に入る。高台の平隆寺からの南斜面に勢野の町が広がっているが、坂の上部では大きい敷地の邸宅が多く、路地道や細い坂道が入り組む。今は近鉄生駒線の信貴山坂下駅周辺が町役場もあり行政の中心地だが、古代から中世の時代には、平隆寺のあるこの辺りが勢野の中心地だった。そのように思われる街並みなのである。
新興住宅地を行く竜田道
奈良県道195号線が河内・難波と大和を結ぶ竜田道で、その名残のようにくねくねと小さく曲がりながら進む。新興住宅地の坂道を登って行くが、丘陵地全体が住宅地になっていて、ここでは古街道を感じることはない。かなり登って来たところに山肌を覆いつくすように墓地が広がる。墓石の多さから言って、歴史的には古い墓地のように見受けられる。手前左側にあるのが勢野西墓地で、道路右側の奥まったところにあるのが勢野東墓地。東墓地の方は周辺に自治会館や幼稚園もあり、昔からの地域の共同墓地で、東から西へと墓地が拡張されていったのだろう。最近興味が出てきた五輪塔があるかどうか見て回りたいが、先を急ぐこともあり木陰でひと休みして、探検再開とする。
上左:曲がりくねる古道の雰囲気を残す県道194号線 同右上:勢野を見下ろす坂道、右彼方に信貴山が見える 同下:手前左に勢野西墓地、向こう右に勢野東墓地 下左:山の斜面に墓石が並ぶ勢野東墓地 同右:東墓地入り口に並ぶ古い墓石
山林を切り開いた道
「東信貴ケ丘」「夕陽ケ丘」などという新興住宅地の新しい道を行くことになる。「勢野東」交差点を渡って150mほどのところに五つ角があって、そこを右に行く。どの道も広いアスファルト道路なので古道との区別がつかないが、選んだ道は住宅造成のためにつけた道でないのがわかる。北側の建物は裏面が道と斜めに接していて、沿道の風景は不揃いな印象を与える。少し坂を登ると急角度で左に曲がり、そのあとは緩やかに右左に曲がる古道らしい道となる。古道に交わる道はまっすぐで周りはすべて住宅地だ。昭和20年の航空写真を見ると、勢野からこの辺り一帯は山林で、竜田道はその中を行く山道で、竜田川を渡り法隆寺までつながっている。先ほどの墓地はその西側の山裾にあって、竜田道沿いに広がる勢野の町を見下ろす場所にあった。馬車なんかも走るのんびりした風景が続いていたのだろう。

上左:住宅地の竜田道は三室2丁目で大きく左に曲がる 同右上:東信貴ケ丘交差点の五つ辻を右に行く 同下:建物の裏面が古道と斜めに接し、不揃いな印象を与える 下左上・下:古道らしく右左に曲がりながら進む 同右:昭和20年の航空写真(カシミール3D)、勢野からは山林の中を進む竜田道
松尾山の霊験あらたかさ
道路はいつの間にか斑鳩町に入っていて、「龍田西」という住居表示に代わっている。だからと言って風景が変わるわけでなく、同じような一戸建ての住宅がびっしり並んでいる。カシミール3Dを見ると、そこは最も高い標高60mで、三郷町と斑鳩町の境界線は丘陵の尾根筋をつないでいるということなのだ。


上左:三郷町から斑鳩町に入る 同右上:斑鳩町に入ると下り坂になる 同下:住宅街を抜けると工場や郊外型店舗が増える 下左上:坂を下ってしまうと松尾山地が迫る 同下:三郷町・斑鳩町境界周辺の高低差、境界付近は標高60m(カシミール3D) 同右:松尾山地の南から南東裾野に龍田神社や法隆寺がある(カシミール3D)
坂を下りきったところでは住宅もまばらになり、工場や郊外型店舗も見えだしてきた。北側を見ると山並みが迫るが、これが前回のラストで王寺駅に向かう途中、明治橋で見た山並みで松尾山だ。厄除けで有名な松尾寺をいただく松尾山(標高315m)の南の山裾に当たる。河内や大和では厄除けといえば松尾寺で、厄年の折には必ずと言ってよいほどお参りに行った。その北方にある矢田寺にはアジサイの季節にはよく行ったものだ。ああそうそう、その途中にあった奈良高専前の「御幸」という蕎麦屋、花見の折には必ず立ち寄ったが、まだあるだろうか。さらに北方の瀧川神社、矢田寺、松尾寺と松尾山系は修行の場でもあったが、これらの寺社には厳しさと霊験あらたかな雰囲気がある。その南端に法隆寺が立地するわけだが、この地に法隆寺が設えられた理由はその霊験あらたかさにあるのだろうか。それはまた考えるとして、ググっと法隆寺に近づいてきたことを思い知らされるのである。
二つある「業平道」
しばらく行くと龍田大橋前の交差点に着く。ということは竜田川が下に流れていることになるが、この川に沿って北に行くのも竜田道と言う。「伊勢物語」主人公の在原業平が高安に住まいする河内姫に会いに来る道筋を「業平道」と名付けて、地元の歴史名所にしようとしている。かつてブログ「生駒西麓」で実際に歩いたように、「業平道」には2種類ある。天理から来た業平は竜田道を竜田川(大和川)沿いに来て柏原大県から東高野街道東側の細道を北に高安まで行くコース。柏原市太平寺にある石神社のそば、太平寺会館横の道が業平道として整備されている。一方、生駒から流れてくる竜田川沿いを北に行き、平群から生駒山の十三峠を越えるルート、こちらを八尾市高安の人たちは「業平道」だと主張している。斑鳩の人たちも、竜田川へつながる道として「業平道」を指定する。色男の業平は人気者で、町おこしのきっかけづくりにあちこちで利用されている。

上左:龍田大橋から竜田川上流を見る 同右上:龍田大橋手前でで国道25号線と合流して東へ、法隆寺に向かう 同下:龍田大橋交差点 下左:「名勝 竜田川」の石碑 同右:在原業平が河内高安に向かった二つのコース、亀の瀬越え竜田道と十三峠越え(Google Mapより)
いずれのコースも「千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くぐるとは」の歌碑を設置しているが、その竜田川はどの川なのか、ということだ。亀の瀬のがけ崩れという危険を伴うが大和川沿いを行く方が近いとも思うが、地図にしてみると、しんどさはあるけれど十三峠を越える道も距離的には同じようなもので、業平にしても高安通いには両方のコースを適宜使い分けていたように思うのだが…。
龍田の厨子二階の家
竜田川を渡ると龍田の旧市街に入り、がぜん歴史の町らしくなった。まず虫籠窓を持った中二階の厨子二階の伝統的な家屋が迎えてくれた。京都や大阪ではごく当たり前の商家建築で、戦災に合わなかった龍造寺町や安堂寺町でよく見かけた。こんな古建築が何軒か並び、少し行くと左に曲がる急坂の古街道に入って行く。猫のように背を丸めないと登れないことから「猫坂」と呼ばれる坂だが、龍田にあった陣屋を敵から守るための工夫だとも言われる。登ったところにいかにも旨い酒を造りそうな酒屋、「初時雨」を看板にした太田酒造があった。明治の創業、現在も現役で「初時雨」の清酒と奈良漬けを作っている。

上左:国道25号線沿いにある厨子二階の家 同右上:龍田の町(カシミール3D) 同下:25号線と別れ竜田道は町中に入る 下左上:厨子二階の太田酒造の店 同下:「初時雨」の木看板 同右:急坂の猫坂
龍田の町中には築100年を超えるような古い家が数多く残っている。街道筋に面して軒の高さが背丈程しかない虫籠窓を持った厨子二階の家は見事なものだ。軒先が少し波打っているがよく手入れされている。格子戸と格子窓がきれいに並ぶ家の玄関先にはパイプ椅子が2脚並んでいた。背もたれに「どうぞおかけください」と書かれていて、思わずほっとする。年寄りにはこういう親切が身に染みる。武家屋敷を思わせるような立派な門構えの家は焼き板塀が美しい。いくつか歯抜けのところはあるが、寂れてはいない。特段の保存運動は聞かないが、他所の町と比べても古い家並みが揃っているように思う。観光地化されていなく、今の時代にもきちんと生きているという感じがするのは、法隆寺のおひざ元という誇りがあるからだろうか。街並みが落ち着いていて、気持ちよく歩けるのだった。
上左:屋敷の間の路地を行く 同右上:古建築の北六番自治会集会所 同中:切妻の壁に焼き板塀 同下:間口の広い虫籠窓を持った厨子二階の家 下左:背丈程度の低い厨子二階の家の軒先 同右上:格子戸がある玄関口にパイプ椅子2脚「おかけください…」と 同下:武家屋敷風な立派な門構え
龍田神社
聖徳太子が法隆寺の鎮守社として龍田大社の分霊を斑鳩の地に祀ったのが龍田神社であるとされる。ご神体は龍田大社と同じく天御柱大神と国御柱大神。大社の方は山の上だったが、こちらは町の中にある。神社から當麻寺に向かう街道が当麻道で、さらに当麻から竹内街道を経て河内へと、逆に河内から法隆寺にお参りする道でもあった。竜田道と当麻道が交差する龍田神社周辺の街道沿いに大きな市が立った。それが中世以来続いていた「龍田市」で、龍田は西和(西大和)地方の重要な商業地であるのと同時に、法隆寺参詣のための宿場町としても大いに栄えた。竜田道沿いの約500mに現在は10軒程だが、江戸後期1800年頃の商家は120軒を超えたと伝わる。
上左:龍田神社の大楠は樹高は28.0m、樹齢850年以上という 同右上:竜田道に面して立つ正面鳥居 同中:10月の大祭のポスター 同下:「金剛流発祥之地」の石碑 下左:広々とした境内、ここに猿楽をはじめ様々な芸能の舞台が立ったのだろう 同右:神社前の竜田道、この沿道に数々の市が並んだのだろう
また、龍田神社は能楽シテ方の一流である金剛流の誕生地。大和猿楽四座のうちの坂戸座を源流とし、法隆寺の催事における楽部に所属し発展したとされる。決められた日、街道沿道にあふれんばかりに市が立ち、龍田神社の境内でも芸能披露が行われ、各地から来る旅人、行商者とともに地元からも群がるように人が集まったであろう。元々神社は芸能発生の場所といわれ、念仏踊りや猿楽、見世物など様々な芸能舞台が境内いたるところに立っていたのだろう。今は夏のきつい日差しの中ひっそりしているが、10月の秋祭りのポスターに見えるように、龍田の町は連日、祭りのように賑わっていたのが目に見えるようだ。
大和盆地を見渡す地
大和川に沿う周辺の標高は30~35mで、龍田の地は50~55mと一段高い。町はずれから西の方向を一望すると、信貴山から三室山にかけての山麓に立野や勢野の住宅地が点在しているのがよく見える。龍田大社、竜野氏の竜野城や平群氏の平隆寺、それら周辺の旧集落も標高50m以上に位置している。弥生時代の高地性集落から受け継がれているのかもしれないが、人は少しでも展望の良い高いところに住もうとしているのがよくわかる。龍田の地を治めた豪族や龍田神社なども同じ考えからだろうが、この高みからは大和盆地を一望できるのである。今の奈良盆地は古代には全体が湖で、小高い丘陵地はあるものの山と言えるものはない。だから古代大和政権は三輪山麓から天理の山裾、葛城氏は金剛葛城山麓の、それぞれ大和盆地を取り囲む山裾に居を構えたのだった。政権の拠点として、攻められにくい高地を先に得ることが必須であるなら、平板な盆地を避け四周の山裾を選ぶのは必然だったろう。そこはまた縄文の太古から人がいち早く住み着いた場所でもあった。大和盆地の北側では、立野、勢野、龍田、さらには法隆寺などもそうなのかもしれない。


竜田道は法隆寺まで
龍田道、つまり奈良街道をぶらぶら歩いていると、いつの間にか住居表示が「法隆寺西」になっていた。いよいよ法隆寺と決意も新たにするが、街道を太い道路、つまり大阪から来た国道25号線が斜めに横切り、街道が途切れる。そこに瓦の大屋根を乗せたモダン建築の斑鳩町役場が現れた。途切れたように見えたが、役場前の横断歩道を渡ると街道らしい道が東に延びている。厨子二階の民家がところどころ残っていて、ここが竜田道であることを確認できる。「左 京(郡山・なら)道 右 いせ」と書かれた道標のある四辻に差し掛かる。ここからは伊勢道となるわけだが、斑鳩を本拠とする聖徳太子が整備したとされる竜田道は、法隆寺から難波に行く道とすれば、ここが終点になる。さらに聖徳太子は飛鳥宮への道として「太子道」とも呼ばれる筋違道を通ったが、それは大和平野を斜めに突っ切る斜行道であった。この道は次回以降探検してみたいのだが…。
上左:微妙に曲がる竜田道(龍田) 同右上:法隆寺西に入った竜田道 同下:沿道には稲田もある 中左上:25号線で途切れる竜田道、道路反対側に続きの道が見える 同下:斑鳩町役場 同右:竜田道沿いの虫籠窓を持った厨子二階の家(法隆寺南1丁目) 下左:25号線を越えたところの竜田道 同中:斑鳩小学校の二宮尊徳像 同右:法隆寺への道の角に立つ「左 京道 右 いせ」の道標
法隆寺の松並木
竜田道歩きを切り上げ法隆寺に向かう。北方には、25号線を越えて堂々とした松並木が350m以上も続いている。車やバスの車窓からこの松並木を見ることはあったが、端から端まで歩くのは始めてだ。巨木となった黒松が覆いかぶさるように迫ってくるが、そんな濃い影を作る砂利道が続く。軽快な気分になる散歩道が多く作られるが、重々しくも豪壮な道はそんなにない。法隆寺の厳かさを受け入れるためには、この松並木の下で気持ちを静めることが、儀礼としても重要な気がする。建築当時の飛鳥時代から何らかの松並木があったのだろうか。後嵯峨上皇が1261年に法隆寺に行幸されるに際し、この松並木を植えられたと言われる。用明天皇より「桃と松のどちらが好きか」と聞かれ、「寒い冬にも青い葉を持つ松が好きです」と答えたほどの太子は、根っからの松好きだったとみられる。松並木は、法隆寺から始まる「太子道」として整備された道筋にあったとされるから、松が植えられた参道は場所は違え、聖徳太子の時代からあったに違いないと思うのだが…。
上左・右上:竜田道近くの松並木 同下:国道25号線でいったん途切れる 下左上:松越しに松尾山を見る 同中:松並木を歩く 同下:松並木の終点近く 下右:堂々たる松並木
若草伽藍を見に行く
今回はあくまで古道を歩くことが主眼なので寺内には入らず、南大門から中門越しに五重塔と金堂を拝して失礼する。そのことより前々から気になっていること、若草伽藍のことである。法隆寺は聖徳太子により推古15年(607)に創建されたとするが、『日本書紀』には天智9年(670)に全焼したという記事がある。しかし、再建されたという記事が見つかっていないことから、明治期以降、法隆寺の再建・非再建論争が盛んに行われてきた。長年に渡る発掘調査の結果、現西院伽藍の南東に位置する若草伽藍が、焼失した創建法隆寺の跡であることが確定された。金堂と塔が一直線に並ぶ四天王寺様式であり、最近(2023~24年)の発掘調査で、塔の南側に推定された南限の斜行溝が確認され、伽藍の南限がわかった。昨年春に発掘調査の報告会があったばかりで、今行っても発掘現場が見られるのではないかと、期待していたのである。


上左上・下:南大門前 同右:南大門越しに中門、五重塔、金堂を見る 中左:発掘現場上に建った老人施設 同右上:法隆寺案内地図(若草伽藍発掘現場を追記) 同下:法隆寺1丁目 下左:若草伽藍南限が発掘された時の奈良テレビのニュース(2024年2月29日)より 同中:現法隆寺の南東部に位置する場所に若草伽藍跡が発掘された(令和6年月3日・若草伽藍跡推定地発掘調査現地説明会資料に加筆) 同右:荒物屋の小間伊商店
南大門の門外東側、法隆寺1丁目辺りを探してみることにする。この辺りと見当つけたところには真新しい老人施設が建っていて、この建設に先立つ発掘調査によって南限が発見されたのではないかと予想される。向かい側にある荒物屋の小間伊商店に入ると、同年配くらいのおばさんが出てこられておっしゃるには、まさにこの場所が発掘現場で、「老人施設は近隣の私たちは反対したんですが、地元には迷惑かけないという条件で、建ってしまいました」と。遺跡のかけらも説明板もなく、二階建ての建物があるだけだ。この斑鳩の荒物屋、竹ぼうきやたわしなどの手作り用品が並べてあったが、「コーナンですべて揃うだろうが、安いだけですぐ壊れる。そんな人も良い物が欲しいと戻って来てくれると、期待しているのですが・・・」と悠長に話される。荒物屋さんがいつまでも残っていてくれることを祈るばかりだ。あっけない結果に終わって意気消沈して、来た道をまた戻るのだった。(探検日:2025.9.15)
ありがとうございます。私の母方は大阪府南河内郡太子町。その導きで私の経営する会社は、本社は,大阪市住吉区帝塚山に本社があり工場は南河内郡河南町に南大阪事業所があり事業本部があります。亡き父は、縁あって奈良県生駒郡平群町から母の養子縁組で先の大戦中に私の父となり、当時500人の人が働く私の祖父が経営する会社の4箇所あった工場長となり、努力しました。貴方は私の故郷を何年か、かけて古代を辿って下さりありがとうございます。厚くお礼申し上げます!
いつもコメントをいただきありがとうございます。太子町、河南町そして平群町、それぞれの土地の意味を考えて巡ってまいりました。今後は、飛鳥への道として太子道を歩きたいと思っています。住吉については、すみ博(すみよし博覧会)やすみ文(住吉文化事業実行委員会)の活動をしています。すみ博は10月18・19日に、生根神社、住吉大社、住吉公園でイベントします。良ければお出かけください。またよろしくお願いします。