聖徳太子の斑鳩
聖徳太子の時代の法隆寺は若草伽藍であったが、その周辺には太子が関わった宮や寺院がたくさんある。太子の宮は斑鳩宮と呼ばれるが、それは現在の夢殿や中宮寺のある法隆寺東院にあったとされる。岡本宮は聖徳太子が法華経を講じた場所とされ、その宮殿を太子の子の山背大兄王が寺にしたのが法起寺で、創建時からの三重塔は日本最古として有名だ。太子が母、穴穂部間人皇后のために建て、法隆寺とは僧寺・尼寺の関係にある寺院、太子が岡本宮と斑鳩宮を行き来し、それらの中間の位置にあることから中宮寺と名付けられた。聖徳太子の活動拠点であった斑鳩の地から出発して、富雄川を渡り、業平も通った高安から太子伝承話が多い安堵町まで、あちこち寄り道しながら歩いていく。


左:聖徳太子のころの斑鳩の里 右:あちこちに寄りながらも太子道(斑鳩~安堵町)を歩いた奇跡(カシミール3D)
太子のお供・調子丸と黒駒
JR王寺駅からバスに乗り法隆寺まで来たが、南大門から歩き始めることにする。聖徳太子は、住まいする斑鳩宮から都の飛鳥に通勤していたことになるのだが、20数キロの距離を馬に乗り行き来したという。太子の通勤の足である愛馬・黒駒と場丁(世話係)の調子丸の像を一目見ようと、その像を南大門の外や内側を探し回ったが見つからない。境内で掃除をしているおばさんやバスのガイドさんに聞いたが知らないと言う。散歩途中らしき地元の方に聞いたら、それは仁王門に沿って夢殿の方に行き、聖霊院の右側に馬小屋があってその中におられるという。中門と言わず仁王門と呼ぶのはさすが地元の方で、再度南大門から入り中門まで行った。確かに仁王さん一対が訪問者をにらんでいる。回廊際を行くと、精霊院の右側、あの百済観音像を納めた大宝蔵院への入り口にあるではないか。利発な少年に見える調子丸と黒駒、小さくも格子戸がはまる祠中に納まっておられる。これでは遠くからは気づかないわな。道中、彼らに案内を願う気持ちで手を合わすのだった。

上左:法隆寺中門(仁王門) 同右上:iセンター駐車場にある舟越古墳 同下:松並木 中左:五重塔と中門 同中:法隆寺伽藍配置図 同右:中門から東を見る 下左:調子丸と黒駒像 同右:大宝蔵院への入り口の横にある馬小屋
太子道の出発点は斑鳩宮
聖徳太子が住まいし政務も執った宮殿である斑鳩宮、現在の法隆寺東院伽藍に当たる。太子が601年に造営に着手し、605年に移り住んだとされる。寝起きをする斑鳩宮から出て飛鳥へ向かった、そういう皇太子としての勤務が日常的だったので、実質的な太子道の出発地は斑鳩宮だったと考えられる。東院である夢殿の西壁に沿って南に行き、壁が途切れたところから東に向かう。工事中の東院南門を見ながら東へと進む。おしゃれなカフェもできているが静かな住宅地である。法隆寺という人気寺院の側にこんな静かな場所があるというのが奈良の良いところ。東へ行くにつれだんだん寂れていく感じで、道沿いに田畑も現れる。
上左:聖徳会館の築地塀に沿ってある夢殿への通路 同右上:夢殿の東院四脚門 同下:東院に沿った築地塀 中左:東院の西南の角 同中:工事中の東院南門 (不明門) 同右:太子道沿道の地蔵尊 下左:太子道のカフェ 同右:田畑の間から松尾山が見える
中宮寺跡
車の往来の激しい道路に出ると、「中宮寺跡」の表示。今の中宮寺は弥勒菩薩を観覧するための場となっているが、飛鳥時代に建立され中宮寺は、東西126m、南北の西辺が220m、東辺が190mの台形の寺域を持つ大寺院だった。聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の住宅を寺にした尼寺で、江戸時代初めまで続いたという。今は寺領全体が史跡指定され、塔と金堂が南北に並ぶ四天王寺様式の基壇が復元されている。その基壇に立つと遠くの山々まで見晴らしが利き、広々とした風景が広がる。史跡の南部にある休憩所からは、家々の隙間から西方に法隆寺の五重塔の相輪、北北西方に法輪寺の三重塔が見える。真北にある法起寺は飛鳥時代の創建当時は岡本宮と呼ばれ、太子はここで法華経を講じていた。住まいである斑鳩宮との中間にあり、母の住まいでもあった中宮寺にもその行き帰りに立ち寄り遊んだことだろう。松尾山の懐に抱かれ、親戚や縁者も多い斑鳩の里で、日本の将来の在り方をさまざまに描き、伸び伸びと自らの思想を育んでいったであろう。そんな太子の日常が見えてくる斑鳩の里風景なのだ。

上左:現地にある中宮寺史跡区域地図 同右:斑鳩の里の寺院や史跡を映した航空写真 中上:史跡中宮寺跡歴史公園の全景 中左上:基壇 同下:塔と金堂の基壇全景 同右:金堂の基壇 下左:西方に見えるのは法隆寺五重塔の法輪 同右:北北西に見えるのは法輪寺三重塔
駒塚・調子丸古墳
そこから東へ行くと国道25号線の向こうにポツンとした土盛りがあり、まばらに木が生えているのが見える。古墳に違いないと見たが、果たしてそれが駒塚古墳だった。コメダ珈琲の境界フェンスとの細い古墳周辺の空き地、濠跡かもしれないが、草を踏み踏み端まで行ってみる。くびれがあり細長い土盛であることから前方古円墳の雰囲気を持っているが…。その先の稲田のさらに東方にこれまたこんもりとした土盛と林が見える。よく手入れされたあぜ道を行くとはっきり見えてきて、これも古墳だとわかってくる。こちらは調子丸古墳というが、これらのネーミングは、聖徳太子のお供だった馬と馬丁の名前ではないか。
上左:駒塚古墳前方部? 同右上:コメダ珈琲店駐車場越しに見える駒塚古墳 同下:後円部?に立つ石碑 中左:東側から見る駒塚古墳 中中:稲田越しに見える調子丸古墳 同右:近づいて畑越しに見る調子丸古墳 下左:調子丸古墳 同右:向こうに駒塚古墳、手前に調子丸古墳
駒塚古墳は聖徳太子の愛馬・黒駒が葬られたと伝承されるが、墳丘長49m以上、高さ5.5mの前方後円墳で、古墳時代前期の4世紀後半の築造。調子丸古墳は黒駒の飼育係であった舎人調子麻呂が葬られているとされるが、径14mの円墳で円筒埴輪や形象埴輪が出土している。古墳時代中期の5世紀中葉頃の築造とされる。いずれも聖徳太子の時代からは150~250年以前のものだが、何事も太子の名残にしたいという太子信仰のたまもので、聖徳太子は庶民の心をとらえた大スターだったのだ。
業平橋
国道25号線から離れて、古道らしい微妙に曲がりくねる道に出る。この太子道を歩きながら近くに見える古墳の土盛を見て、あれが黒駒の墓、これが調子丸の墓だと指さしながら、「お太子様のご利益だね」と手を合わす人々も多かったに違いない。しばらく行くと富雄川の堤防道に出くわし、その上流には昭和の懐かしさが残るコンクリ欄干の小さな橋があり、業平橋だという。前回にも触れたが、在原業平は天理櫟本の住まいから大和郡山、安堵町、斑鳩町、平群町を通り暗峠越えで八尾の高安まで通ったとされる。この辺りは太子道と業平道が重なっている。聖徳太子と二分する人気者の業平だが、この道筋にも多くの業平伝説が残されているのだろう。
上左:コンクリート橋の業平橋 同右上:調子丸古墳から東に向かう太子道 同下:富雄川の堤防道 下左上:横から見た業平橋 同下:富雄川 同右:橋の袂にあった地図より
もう少し南に行けば、聖徳太子が晩年を過ごし亡くなったと言われている飽波葦垣宮があったと言われる上宮遺跡公園もあるのだが、先を急ぐので今回パス。
ここにも高安
業平橋を渡るとのどかな農村集落に入って行く。蔵のある大きなお屋敷が並ぶが、高安という名前の集落だ。業平が高安の女のところに行くときこの集落をよく通っていて、村の美人たちは女たらしの業平に連れて行かれてはいけないというので、顔に鍋墨を塗ってわざと醜くしたという伝説がある。のちに村人は業平のことを忘れないように地名を高安村と改めたという。太子道、業平道の沿道には伝承話がたくさんあるが、業平には事実はともかく、面白おかしく作られた艶っぽい話が多い。今だに続いているところを見ると、歴史の古い大和ならではの土地柄だからであろう。
上左上:業平橋の高安側にある地蔵堂 同下:高安集落への入り口 同右:蔵のある屋敷が続く高安集落 下左:太子道沿道 同右:集落を越えると田畑が広がる
稲が刈り取られたばかりの田んぼの中の道から西方を眺めると、北から斑鳩の里山、立野の三室山、大和川沿いの明神山、さらに南方の大きな山塊は二上山か、広々とした風景の中を東へと向かうのだった。田畑が切れたところでJR大和路線の踏切に出た。時代を遡るようなひと昔まえの風景である。踏切を越えたところに邸宅があったのだろうか、取り残された庭の大木が心地よい影を作っていた。躊躇なく木の下にある庭石に腰をかけ休憩する。

上左:高安から稲稲田越しに西方を見る 同右:同様地点から見る西方。手前に富雄川、彼方に二上山、大和川などがある(カシミール3Dカシバード鳥瞰写真) 中左:同地点から二上山は大きな塊に見える 同右上:同様な方向から見た模型の二上山(近つ飛鳥博物館ジオラマ) 同下:大阪側から見た二こぶの二上山(同博物館ジオラマ) 下左:JR大和路線踏切 同右:踏切を越えたところにあった邸宅跡の大木
さてと、古道を探してあちこち歩くがそれらしい道がなく、町はずれに来た時やっと見つかる。だいぶ遠回りをしたようで、地図にある善照寺や広峰神社を見逃すが、ままよと先を急ぐ。保育園の縁に沿う細い道が古道のようで、それを行くと田畑に囲まれてビルの建物が現れる。安堵町の行政施設のようで、福祉保健センター、大きな池の側には水道局などがあり、ここに来てやっと「太子道」の表示と出合えた。
上左:安堵こども園に沿って太子道が伸びる 同右上:田畑の中に安堵町の行政施設 同下:水道局 下左:下池、その向こうが安堵町役場 同下:太子道の案内板
飽波神社
行く方向の先にこんもりした森が見え、これが恐らく飽波(あくなみ)神社だろう。聖徳太子が晩年を過ごした飽波葦垣(あしがき)宮に素戔嗚尊が牛頭天王となって顕現し、ここに牛頭天王の祠を作ったことから始まるとされる。先ほど渡った業平橋南方の上宮遺跡公園にも同宮が伝承されている。いずれも太子道沿道にあったことは間違いなさそうで、業平伝承と違うのは聖徳太子の方は事実に基づいているという点だろう。
上左:飽波神社と太子道 同右上:太子道が伸びる向こうに飽波神社の杜が見える 同下:太子道が神社を回り込む 下左上:神社境内 同下:飽波神社の前で左に曲がる太子道 同右:境内奥にある太子腰掛の石には藁人形の太子様
鳥居の扁額は富本健吉の筆とされ、愛嬌のある優しい文字だ。入って左に太子腰掛の石があり、太子が飛鳥へ通った折、この宮で休憩したことから名付けられたが、いかにもありそうな伝説だ。太子道の曲がり角に位置する飽波神社は涼しげな木陰を作り、誰もが一休みしたくなる場所である。
安堵村の偉人たち
この神社の鳥居前で太子道は大きく東に方向を変え、東安堵の集落に入って行く。恐らく江戸期から町の形は変わっていないのだろう、ここも蔵のある大きな屋敷が並んでいる。村の中ほどに代々庄屋役を務めた今村家の邸宅があり、今は安堵町に寄付さて歴史民俗資料館となっている。今村文吾は幕末の天誅組や「河内国陵墓図記」を制作した伴林光平と親交があり、今村勤三は明治20年に大阪府から奈良県を独立・再設置に導いた運動家、今村荒男は大阪帝国大学第5代総長であったことなど、近世・近代に大活躍した人物を輩出している。近くには人間国宝で陶芸家の富本憲吉の生家もある。小さな村だが安堵町のように偉人が多数輩出されるのは、お太子さんの町だからではなかろうか。聖徳太子は仏教を取り入れただけでなく、そのバックグランドの思想や中国の先進文化をいち早く取り入れ、倭国の近代化を推し進めた。当時の最先端の知識人であり、才能あふれる人物でもあった。太子道沿道の村々では、幼児の頃からお太子さんの伝承物語と同時に進取な志も植え付けていったのではなかろうか。歴史の伝承とは人を育てるということを再認識する。
上左:飽波神社からまっすぐ来た太子道 同右上:88歳米寿を祝うしゃもじが飾られている。米は八十八、米のご飯をよそうのがしゃもじだから 同中:神社から来た道を右に曲がる 同下:安堵町の業平道と太子道の地図 中左:蔵が連なる風景は安堵町の豊かさを物語る 同右上:今村邸の蔵、今は博物館展示場になっている 同下:今村邸の全景 下左:民俗資料館の今村邸の玄関 同右:富本憲吉の生家は「うぶすなの郷」という料理旅館
高塚の高木はシンボル
村の中をうねうねと曲がりながら南のはずれまで来た。下り坂になり寂れているがいかにも古道の雰囲気があり、往時は人々が頻繁に行き来した様子が目に浮かぶ。村はずれの空き地に一本の高木が立っていて、根元に小さな祠がある。昔は古墳とみられる土盛に栴檀の木が立っていて、聖徳太子の鷹を埋めた墓だという伝承があった。憲吉は作陶の絵柄にこの風景をよく描き、小学生の写生授業もここで行われたという。台風で栴檀の木は倒れたが、今も高木が立つ。栴檀の木ではなさそうだが、種類は違っても村のシンボルだという気持ちがあり、ここに高木を植えたかったのだろう、そんな村人の切実な思いを見て取るのである。(探検日:2025.10.6)
ありがとうございます。今回も身近な聖徳太子ゆかりの旧所名跡を辿って頂きましてありがとうございました。私の、母方が南河内郡太子町で母方の祖母は葛城郡當麻寺です。父方の実家は、生駒郡平群町で業平ゆかりの十国峠から大阪府八尾市高安に下って行く峠の上の冨貴畑にあります。
いつもコメントありがとうございます。平群から十三峠を越えた古代史探検のことを思い出しました。福貴畑という集落の坂を上り、杵築神社で一休みしていた時、鶯の声がきれいでした。良ければ下記のアドレスからご覧いただければ幸いです。
MY古代史探検「生駒西麓」⊳「十三峠越え」
https://minokita.xsrv.jp/2022/02/13/%e5%8d%81%e4%b8%89%e5%b3%a0%e8%b6%8a%e3%81%88/