
古代の太子道が最もよく残っている道筋を歩く。それは三宅町から田原本町黒田、宮古といった地域で、弥生時代から水との闘いを余儀なくされ、条里制が貫徹されなかったところ。また聖徳太子の足跡が色濃く残るところでもあった。
地図:結崎から黒田まで歩いた軌跡(カシミール3D)
結崎の町
前回の最終地・川西町結崎から始める。近鉄橿原線結崎駅下車、駅前には広場が設けられ、芝生の小山、何とも円墳のようでもあって…、と確認すると果たして佐々木塚という古墳だった。近年戸建てを中心に住宅地が急速に広がったようで、昔の田舎駅が一新され、コミュニティ施設のような駅に改修された。結崎地域の北のはずれ、とはいっても油かけ地蔵からの真っすぐな太子道側なのだが、柏原の国分にもあった元光洋ベアリングのジェイテクト、東洋シャッターなど大規模工場がいくつもができ、就労人口も増えたこともあるのだろう。駅からまっすぐ西に伸びる道路沿いには、川西町役場、公民館、川西小学校などフラットでモダンな建物が一列に並び、健全そうな明るい街のイメージを作っている。

上左:佐々木塚古墳から見た結崎駅 同右上:駅前広場にある佐々木塚古墳 同下:町内を貫く幹線道路 下左上:川西町役場 同下:川西小学校 同右:川西町北部に増える工場を示す地図( Googleマップ)
糸井神社
役場前を左に曲がると糸井神社のこんもりとした森が現れた。県道108号線の太子道、古道なのでゆらゆら曲がっていて、寺川の堤の淵に神社があるというのんびりした景観を成している。南側に回り、近年に塗り替えられたのだろう真っ赤な鳥居をくぐると、長い参道のような境内に入る。玉砂利でなく、きめ細かい埴生土が全面に敷かれている。そこを歩く長い影を見ながら奥まで行と、なんだか清らかな気持ちになっていた。拝殿の中には「太鼓踊り絵馬」や「おかげ踊り絵馬」など多くの絵馬が飾られているが、その中にスイカ売りや飴売りの様子を描いたものもあり、にぎやかな神社の祭り風景がしのばれるのだった。

上左:太子道沿いの糸井神社 同右上:神社正面 同下:埴生土の境内に朝の長い影が伸びる 下左上:拝殿 同下:春日造の本殿 同右:拝殿内に飾られた絵馬、大きいのは「太鼓踊り絵馬」
豊鋤入姫命、猿田彦命とともに綾羽・呉羽という機織姫を祭神としているので、機織技術集団の神さんを祭っていると推測される。島の山古墳西側の比賣久波神社の祭神は、久波御魂神、天八千千姫で桑の葉と機織りの神さんだったので、結崎、梅戸の地域は古代より蚕産や絹織物の生産に関わっていたと考えられる。太子道と寺川が交差するこの地域は、これらの絹織物の集積地であり、輸送拠点でもあっただろう。「糸井」の名は、織物の糸を生産したことで大いににぎわったことを示すが、この地に絹織物の豪華な衣装を必要とする猿楽、その一流派の結崎座が発祥したことからも知れる。
観世発祥の地が結崎
翁の面とネギが天から降ってきて、面を埋めたのがこの辺りで、観世発祥の地として面塚が立てられた。大和猿楽四座の一つ、結崎座において猿楽を能楽にまで高めたのが観阿弥と世阿弥で、彼らは観世流の基を築いたとされる。龍田神社には、大和猿楽四座のうちの坂戸座から能楽の金剛流が生まれ、その石碑があった。円満井座はもっとも歴史が古く、そこから生まれた金春流は、聖徳太子に仕えた秦河勝を家祖とすると伝えられている。もう一つ外山(とび)座は、外山崎(現在の桜井市外山)を拠点とし、そこから宝生流が生まれた。聖徳太子が初の国立演劇場として土舞台を桜井につくり、少年たちに百済人味摩之の伝えた伎楽舞を習わしたことが、日本の芸能の起源とされる。言わば太子は日本の芸能の原点を作った人で、太子道沿道には猿楽また能楽の発祥地も多いのである、そんな風に理解すると合点がいくのである。
上左:「観世発祥の地」の石碑 同右上:寺川の土堤道 同下:土手から石碑広場に降りる 下左:山本博之の玉垣 同右:大西信久・信彦の玉垣
橋を渡り堤防道を100m余り歩くと、堤の下に「面塚観世発祥の地」の石碑が立っている。元々は橋の袂にあったものを昭和30年に移転させたもので、堂々とした大石の碑だ。周りを取り囲む玉垣には、私も知っているような名があちこちにあった。観世銕之丞、山本博之、大西信久、梅若六郎など、大阪の能楽堂で何度かその舞台を観たシテ方の人たちである。現在の能楽5流派は、家元が東京か京都に移り、奈良には一つもないことは寂しい限りだが、それらの発祥は大和であることはきちんと記憶に留めておきたい、そして根本が聖徳太子であることも……。
太子愛が溢れる宮さん
結崎面塚公園内を通り太子道に戻ると式下中学校の校門にぶつかるが、その校名がちょっと変わっていて、中学校組合立という。一つの町で学校運営できなくて、川西町と三宅町が合同で組合を作り運営するというもの。三宅町は東西3㎞南北1.5㎞程度、面積約4㎢で全国でも2番目に小さい町である。その中学校も両町境界にあり、校舎は川西町でグランドは三宅町に属している。校門を過ぎたところに石の鳥居が立つものの、神社の建物が見当たらず、ベンチがあって小公園のような白山神社がある。拝殿などなく石の玉垣で囲まれた3m四方くらいの中に小さな石の祠がある。その傍らに聖徳太子が愛馬黒駒にまたがり、従者を従えた像が置かれている。また太子の腰掛石も祭られている。村人が太子をもてなすとき屏風を立て風を防いだことから、この地が「屏風」と名付けられたという。祠は小さくても太子像や腰掛石がよく手入れされていて、涙が出るほど太子愛にあふれているのを感じる。その向かいにも屏風杵築神社があり、「聖徳太子接待」絵馬や太子が弓でうがったという「屏風の清水」も残されていて、ここにも太子愛があふれている。
上左:白山神社の鳥居 同右上:「組合立」と記す式下中学校の校門 同下:太子道の説明板 中左上:小さな本殿 同下:太子腰掛石 同右:黒駒に乗る太子像 下左:屏風杵築神社には太鼓橋を渡る 同中:神社境内 同右:太子が弓で地面をうがつと清水が湧いた「屏風の清水」
三宅古墳群
三宅古墳群を見つけようと脇道にそれ、住宅内の路地道に入り込んだ。途中道に迷い、通りかかったご婦人に古墳のありかを聞くと、「田んぼの真ん中にありますよ」という答え。家並みが途切れ式下中学校のグランドが現れると、田んぼの真ん中にこんもりした林が現れた。近づくと古墳だと確信させられるが、これが茄子塚古墳だ。古墳の外濠を回り込むように丸く曲がるあぜ道がついていて、前方後円墳の形が崩れ茄子の形に似てきたことからこの名が付けられたのだろう。全長18m、出土した土器などから5世紀後半~6世紀初期の築造という。周りを見回すと、田畑の中にポツンポツンと独立した林があちこちに見える。これらすべてが古墳なのだろうか。一つ一つ調べるのは大変だろうが、地図を参考にぼつぼつ見て回るしかなかろう。

上左:三宅古墳群を巡った軌跡(カシミール3D) 同右上:町中の路地道 同下:路地を抜けると式下中学校 下左上:彼方の林は古墳か 同下:茄子塚古墳を取り巻く切り株、周濠だったか 同右:林は茄子塚古墳だった
請堤とは・・・
茄子塚の南方に同じようなこんもり林があるが、土盛らしきものが見えず、紛らわしいがこれは違う。高さ2mくらいの土手道が通っていて、「名号水請堤」という説明板には、もとは高さ3間4尺5寸(6.8m)もあったという。「請堤」(うけいけい)は、主に治水や灌漑の目的で、川の水をせき止めて導くために築かれた堤防のことで、飛鳥川の氾濫に対して、川から水を引き飛鳥川東側の集落の屏風と唐院、保田を水没から守る堤防であったようだ。逆に堤から南側は、民家や田畑が少なく、古墳が散在するような無用地と見なされたのか、遊水地扱いにして水が引くまで放っておくことにしたのか。社会的には問題点も多いが、このような堤防が大和川に流れ込む川のあちこちに付けられていて、大和の低地帯の水浸を防いだ。

上左:名号水請堤と言われる土手道、途中に説明板が立つ 同右上:名号水請堤の設置場所を示す地図(奈良県立教育研究所資料より) 同下:土手に立つ説明板 下左:堤南側を流れる水路 同右:茄子塚古墳の南側から見た西方の風景
田畑の中にポツンと古墳
堤防際の水路に架かる橋を越えると林の中を通る。太めの道路を渡ると前方部のような基壇が見えてきたが、これが高山古墳とある。さらに西方にある盛り上がりに近づいて行くと、古墳名はないが、地図には「No.11A-0022」という記号が打ってある。前方後円墳の細長い形に見え、基壇に上がれる。墳長は10mは超えそうだが後円部の土盛は削られている。その先には田んぼの中に長めの墳丘、恐らく前方後円墳だろうが、瓢箪山古墳という。古墳の外周に沿って刈り取られた稲株の配列が、幅5~6m程度の外濠をかたどっているようで美しい。

上左:瓢箪山古墳 同右上:瓢箪山古墳の周濠を形作るように稲の切り株が並ぶ 同下:高山古墳 下左・中:古墳No.11A-0022 同右:西方彼方の山塊は二上山
南方の町営グランドの向こう側にも古墳がありそうだが、背の高い草が行く手を阻む。草の少ない細道を縫ってグランドの縁にたどり着き、一段高い護岸に上がり縁を歩いて行くと、田んぼの真ん中に古墳状の土盛。実をたくさん付けた柿木が3本ほど立っている。長方形状だが前方後円墳のように思う。名はない。現代風の建築で三宅町役場とみていたのだが、実は「あざさ苑」というデイケアセンターもある社会福祉センターだった。そこを回り役場道に出て、また田んぼ道に戻ってきて、アンノ山古墳を見に行く。右手の田んぼの中に前方後円墳状の土盛があり、美しい形だなあと見とれていたのだが、アンノ山はこれではなく、道の左側にある土盛だった。この土盛を古墳とは見ていなくて、きちんと写真も撮っていなかった。田んぼの中の古墳という思い込みがあり、ちょっと調べればわかるのだが、見間違っていた。
上左:運動場東側に無名の古墳 同右上:奈良県三宅健民運動場 同下:運動場東側から北方を見る、ぽつぽつとある林は古墳 中左:三宅小学校 同中:アンノ山古墳と見誤った林 同右:社会福祉センターのモダンな建物 下左:南側から見たアンノ山古墳一帯 同右:アンノ山古墳の基壇が見える
ともかく、私が歩いた三宅町屏風と伴堂にまたがる600m四方の範囲で、不定形の田畑の中に10基ほどの前方後円墳を主体にした古墳群があった。削り取られて跡形もないものもあろうから、島の山古墳を北端とし、黒田大塚古墳を南端とする地域には数十基も集まった大古墳群があったと思われる。
伴堂杵築神社
再び太子道に戻るが、そろそろ昼時。前回はとうとう食べ損なって昼抜きになってしまった。奈良盆地の中央部分だが、幹線道路に沿って歩かない限りコンビニもないし、ましてや食堂などあるわけがない。小川に架かる橋を渡って太子道に出たところに「やまぐち華彩」という弁当屋があった。食いはぐれたら災難なので、一つ注文してみた。おばさんが出来立ての天ざるうどんの弁当を持ってきてくれた。ついでに「ビールなんかないですかね」と聞くと、「隣が酒屋やけど、今日やってるかな」。代金550円也を払って出てみると、酒屋のガレージの脇に酒の自動販売機があるではないか、ああ、ラッキーとはこのこと。さらにその隣に厳島神社があり、入り口横にベンチもあって、弁当、酒、ベンチの三点セットが瞬く間にそろって、もう幸せの絶頂だ。
左:橋を渡れば太子橋、正面左側が弁当屋、その奥が酒屋 右上:酒屋の自動販売機 同下:ビール・ベンチ・天ざる弁当
この神社の少し南には伴堂杵築神社があり、祭神はいずれも素戔嗚命だが、伊勢参りの「おかげ踊り」の絵馬(県有形民俗文化財)が有名だ。太子道沿いに窪田、吐田の杵築神社があったが、狭い三宅町には屏風と伴堂、さらに但馬にもあり、3つも杵築神社がある。出雲大社は元々杵築大社で、素戔嗚命を祭っていたが、出雲の方が大国主命を祭神としたことで、出雲大社という名に変えた。明治4年(1871)のことだ。大和の方はあくまで素戔嗚命を祭るので杵築神社のまま。なぜ素戔嗚命を祭り続けるのか?日本神話では、素戔嗚命は八岐大蛇を退治し稲田姫と結婚する。思うに、八岐大蛇は氾濫する川とすると、古代にこの土地を洪水から守り、稲田として開拓していった繁栄物語の原点が素戔嗚命だからだろう。そう考えると腑に落ちるのだ。
上左:太子道沿いに伴堂杵築神社 同右上:神社の玉垣沿いに太子道の看板 同下:神社入り口 下左上:三宅町花のあざさが浮かぶ水槽が境内にあった 同下:説明パネルにあったあざさの花 同右:杵築神社
屯倉から三宅へ
5世紀〜6世紀初頭における屯倉(みやけ)の初期のものとして、畿内を中心に豪族の支配を介さず、大王が自ら開発・経営した直轄領的な屯倉が置かれた。その一つが現在の地名にもなっている三宅地域だった。大和朝廷が地方の豪族に命じ、但馬、石見、三河の国から使役として人を集め、この低湿地を開発し、灌漑用水路を作り、稲作を奨励した。また、盛土をして小型前方後円墳を築き、その周りに濠を掘り、稲作の用水を確保した。三宅古墳群の被葬者は、その開発管理者たちだと考えられるが、総指揮を執ったのが葛城氏一族で、島の山古墳や大塚山古墳に眠るのではないか。開発管理者の出身地の石見、三河、但馬の地名が三宅町に残るとともに、後に条里制が敷かれるが、太子道周辺の土地には適応されず、不定形な形をした土地のままだった。


左:屯倉(三宅町)域内の三宅古墳群、但馬、三河、石見の位置図 右:三宅町、田原本町黒田を通る真っすぐな太子道を延長した筋違道の推定図(いずれもカシミール3D)
屏風杵築神社辺りから三宅町、さらに田原本町黒田、宮古にかけては見事なまでにまっすぐな斜交道となっていて、筋違道の典型であると言える。この斜交道をまっすぐ北へ延長すると油掛地蔵に当たる。油掛地蔵前の太子道は現在、南北に真っすぐだが、元は斜めだったと思われる。途中の寺川も左岸の堤防道が太子道とされているが、川筋は何回か付け替えされているので、元からではないだろう。大和川も大きく動いている。そのため、三宅から黒田、宮古にかけての斜交道は昔から変わらぬ太子道だと言えるだろう。
田原本線の踏切物語
伴堂杵築神社からその典型ともいえる太子道を歩いて行くと、真っすぐと言えど微妙にくねくねしながら伸びている。古道らしい道で、ここを歩くのは気持ちが良い。ところが、三宅町伴堂から近鉄田原本線の手前の道はかくかくと曲がり、真っすぐな線になっていない。踏切を渡って黒田に入るとすぐに斜交道になり、この線と元の三宅や伴堂の太子道に線を引くとぴったりつながるので、元はまっすぐな斜交道であったと見て取れる。
上左・下左:三宅町内を通る太子道 上右上・中:道すがら見かけた蔵と大和屋根 同下:融観寺前地蔵堂の西国三十三所霊場の観音菩薩 下右:伊勢参りの目印、大神宮の石灯篭
このかくかくとした道になったのは、地元の意見で田畑の有効利用からか条里制のような正方位の区割りにしたのだろうか。はたまた、現代になって田原本線をつける時に、線路と直行する踏切にする必要ができたためだろうか。現在の近鉄田原本線は、地元会社の田原本鉄道(後の大和鉄道)が新王寺ー田原本を結ぶ鉄道として大正7年(1918)に整備したもので、将来の発展を考えて直交踏切にした。どうもこちらの方が正しいように思うが…。

上左上・下:太子道の三宅町南端部では、左に右にかくかくと道が曲がる 同右:元々の太子道は、三宅~黒田間も真っすぐ進んでいたと推定される(カシミール3D) 下左:踏切を渡り三宅から黒田に進む 同右:黒田から三宅の方を踏切越しに見る
欠史天皇・葛城氏の勢力争い
黒田の地に第7代孝霊天皇の黒田廬戸宮があり、後に法楽寺となり聖徳太子が開基と伝えられる。墳墓は、王寺町の孝霊天皇片丘馬坂陵とされる。8代孝元天皇の宮、墳墓は橿原の地に戻るが、9代開化天皇の宮は奈良町にある率川宮、墳墓はその近くの春日率川坂上陵とされる。それまでの2~6代までは橿原や御所の地域の中で転々としていたが、7代孝霊になり奈良盆地中央部、9代開化はさらに北部に進出したことになるが、それ以降、10代崇神天皇からは三輪山の麓や天理一帯に拠点が移る。孝霊天皇は妃の倭国香媛との間には倭迹迹日百襲姫が生まれ、その娘が卑弥呼で箸墓の地に大塚が造され、大和政権の始まりとされる。その前史として欠史8代の天皇の活躍があった。葛城の麓から大和中央へ進出しようとしたが、途中で倒れた。つまり、その後の三輪山麓を拠点とした大和政権と対抗したが、敗れたか、または和睦しその配下になったか、急速に勢力を弱めることとなった。欠史8代の天皇の権力基盤は葛城氏であり、その統治範囲の拡大は葛城氏の勢力拡大そのものであった。それはまた葛城氏が大和川流域を支配していく過程でもあった。島の山古墳、大塚山古墳、さらに三宅古墳群を挟み、最終的に孝霊天皇の黒田廬戸宮近くに黒田大塚古墳を築く。6世紀初頭というが、5世紀末に葛城氏宗家は雄略天皇に滅ぼされているので、孝霊天皇をリスペクトする傍系の一族の長が被葬者だと考えられる。大和川流域にかかわる古墳づくりは葛城氏の盛衰を伝えている、そのように見ているのだが、どうだろうか。そう簡単ことではないとは思うが、3世紀から5世紀にかけての大和盆地における勢力争いの一局面としてみていきたい。
黒田大塚古墳
2021年に欠史8代天皇の跡を訪ねる探検をした時(ブログ「葛城一族の跡を訪ねて②欠史8代天皇の宮跡と陵墓」)、黒田に来たことがある。近鉄田原本線の踏切を渡ると、少し道が斜めに曲がりその先がずうっと見通せる。古い住宅が並ぶ街並みに見とれたものだが、少し行き右に入ると黒田大塚古墳の丸い墳丘がぴょこんと出てくる。前回もそうだったが、町の人に誰とも出くわさない、忘れ去られた街のように静まり返っている。2段築成の前方後円墳で墳丘には葺石は認められなかったという。周濠がありその幅8m、深さ0.8m、周濠を含めた古墳全長は86mに及ぶ。休憩所の壁に古墳形態の変遷を説明するパネルが掛っていて、水利との関係で削平も激しく何回も改修され、元より一回り小さくなったことがわかる。町中の古墳ゆえに各時代のニーズに合わせて手を加えられ続けてきたのだろうが、よく残った。古代よりこの土地を作った重要な人が眠ると伝えられ、愛しまれてきたのだろう。
上左:黒田大塚古墳、後円部から前方部を見る 同右上:踏み切を越えてすぐ左にカーブする太子道 同下:路地に入り古墳の方へ行く 下左:黒田大塚古墳、前方部から後円部を見る 同右:築造時からの古墳形態の変遷を示す
孝霊天皇黒田廬戸宮
西側に、黒田大塚古墳が築造される元となった8代孝霊天皇の黒田廬戸宮があった。後にこの宮と古墳を取り込みながら法楽寺という大寺院が建てられた。聖徳太⼦の開基と伝えられる真⾔宗の寺院。室町時代盛時の法楽寺の伽藍坊院が描かれている板絵には堂宇数25を数えたが、兵⽕で焼け、現在は本堂1坊を残すのみとなっている。ちょっと寂しい宮跡を後にして、立派な蔵がある大きな屋敷が続く町中を探訪する。
上左:法楽寺・孝霊天皇の黒田廬戸宮への入り口 同右上:法楽寺本堂 同下・下下:黒田の町中、どの家も立派な蔵を持つ 下左:室町時代盛時の法楽寺の伽藍坊院の図
太子道に出ると村はずれに孝霊神社がある。もとは、先ほどの板絵にも描かれたように法楽寺にあったが、明治期に黒田村の氏神として引き継がれこの地に遷座された。先に太子道ありきで、神社も、近隣の民家もともに、昔からの街道筋の町並みを残している。南側の池も斜交する太子道に沿うように台形になっている。この池越しに見る大きな塊の山のてっぺんが二つに割れ始めている。徐々に形が変わりつつある二上山を見つつ、太子道を行くのであった。(探検日:2025.10.29)