飛鳥を巡る旅(後編②—最終回)・・・石舞台から梅山古墳へ

 

 このシリーズもやっと最終回となり、エピローグにふさわしく飛鳥時代を駆け抜けた勇者たちのお墓巡りをしていきたい。石舞台古墳、都塚古墳、天武・持統天皇の野口王墓古墳、梅山古墳など、良く知られた墳墓だが、ゆっくり見て歩いて行くことにする。

飛鳥京から石舞台川原寺跡野口王墓古墳そして梅山古墳への歩行軌跡カシミール3D

石舞台古墳

 多武峯見瀬線でもある155号線を東へ、ドン突きを南へ行く。岡寺の参道入り口付近は、街並みも古色に整備されていて、平日にもかかわらずどの店も人の出入りが多い。ここを抜けると、石舞台に向かう上り道へと曲がっていく。何回か来ているが、建物や樹木で隠され、石舞台はそばに行かないと見付けられない。かなり上ったところで、右手にやっと石舞台。蘇我馬子の墓と言われる大古墳、封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは下方八角墳とも推測されている。また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)を巡らした壮大な方形墳であるという。

上左:岡寺参道前の街並み 同右上:県道155号線東へのドン突き 同下:岡寺参道前 中左上:玄関前のカラフルな御幣 同下:石舞台への道 同右:石舞台周辺の地図看板 下左:石舞台古墳 同右:下辺80m超の巨大な上円下方墳のイメージ

 埋葬施設は両袖式の横穴式石室、花崗岩で作られた石組みで西南方向に開口している。玄室は長さ7.7m、幅3.5m、高さ4.7m、羨道は長さ11m、幅2.5mの規模を有し、石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、総重量は2,300トンに達すると推定される。

 古代史に興味もなかった頃は巨大さに圧倒されたが、この10数年、あちこちの古墳を巡って来た経験から言うと、大きさはともかく横穴式石室を持つ古墳の一種であると、自分の中で位置づけできるので、驚くことはない。八尾市神立にある円墳の愛宕塚古墳は、大阪府内では最大級の石室を持ち、その玄室は長さ7m、幅2.5-3.1m、高さ3.9-4.2mあるので、規模から言っても石舞台古墳が特段に大きいとは思わない。ただ山中で樹林に覆われてはいなく、平坦部に人工的な土盛をした形は周辺から屹立していて、シンボル性は優れている。外堤を巡りながらその外形をイメージしようとしたが,なかなか像が結ばない。これ見よがしの大きさと形で威圧感を与えたであろうから、時の最高権力者、蘇我馬子であることに間違いはないと思われる。

都塚古墳

 さらに奥へと山道を上って行くと、緩やかな山裾に棚田が切り開かれ、その一角に都塚古墳があった。何の説明もなければ見過ごす程度の大きさだが、築造当時は八角の壇状の形だったので、古墳ということは一目でわかっただろう。6世紀後半の築造なので、馬子や蝦夷などの7世紀に活躍した蘇我氏の元を築いたとされる蘇我稲目の墓と推定する説がある。墳形は方形で、復原規模は東西41m、南北42m、高さは4.5m以上あったという。墳丘表面では階段状に積み石がなされ、0.3-0.6mの石段が計4段以上あったとされる。このような「階段ピラミッド」構造については、5世紀頃に高句麗・百済で見られる階段状積石塚との関連が指摘されている。

上左:坂の途中にある都塚古墳 同右:石棺が収まる石室 中左上:階段ピラミッド構造の模式図 同下:発掘当時の階段状の側面 同右:墳丘上から見た南方面 下左:同東方面 同右:石舞台から都塚古墳周辺の地図看板

 飛鳥周辺、特に南部には渡来系氏族の拠点が数多くあり、石舞台や都塚古墳周辺にもその拠点がいくつかあった(当ブログ「飛鳥を巡る旅(中編)山田寺から飛鳥宮へ」を参照)。蘇我氏が飛鳥に進出しだしたのは6世紀になってからだが、渡来系氏族をその傘下に収めつつあり、大和政権の中で活躍しだしていた。稲目になって中央政権で認められ大臣の地位にまで進み、経済、技術、文化、軍事など多様な分野で渡来人を活用し、大和政権に大きな貢献をした。渡来人とは強い関係を持っていたことから、この場所に中国や朝鮮半島の積石塚を真似た墳墓を築いたのも納得のいくところだ。しかし、蘇我氏の礎を作り大和政権を左右するまでに活躍した稲目にしては規模が小さすぎるのではないか。いくつか疑問点を抱えながらも、ともかく最後まで歩いてみよう。

飛鳥川に沿って下る

 蘇我氏最大の権力基盤を築いた馬子の墓が飛鳥の深奥部に築かれたが、そこは麓に飛鳥の村里、蘇我氏発生の地である大和盆地南部、さらに西方に金剛、葛城、二上山などの河内との境界をも眼下に収めることのできる位置だった。そしてこの地とともにあったのが飛鳥川だった。高取の山奥を水源とし、山々の間を滝のように縫い、平野部をゆったり流れ、この地に生産力をもたらし、人々に潤いを与えてきた。山地から平野に下る流れは速く、曲がりくねりながら淵を削り、石を流し、早瀬を作る。そんな飛鳥川とともに歩き下って来て、この川を詠んだ万葉集の歌が実感されるのだった。

上左:飛鳥川に架かる玉藻橋付近 同中上:飛鳥川に沿って伸びる道 同下:平野に出てゆったりした流れになる飛鳥川 同右・橘寺付近の橋 下左:万葉歌碑付近の飛鳥川 同右:「明日香川 瀬瀬・・・」の歌碑

橘寺・川原寺跡

 飛鳥川が田畑の間を流れるようになったころ、集落の中にひときわ高い甍が見え見えてきた。それが橘寺で聖徳太子がお生まれになった所として有名だが、元々は欽明天皇の別宮、橘の宮だった。仏教授受についての激しい争いは用明天皇の頃一応決着がつき、その子、厩の王子がこの地に橘寺を創建したと言われる。石段を上り門まで来たが、拝観料400円と書かれてある。十数年前には無料だった気がするが、先を急ぐ身にとって一時の拝観で400円は高い。手だけ合わせて退散する。

上左:橘寺のある集落 同右上:飛鳥川に沿う道 同下:橘寺への階段 下左:橘寺山門 同中:橘寺、川原寺跡周辺の地図看板 同右:聖徳太子の誕生地を示す石碑

 県道まで下ると川原寺跡。川原寺は、斉明天皇の川原宮跡に、子の天智天皇が建てた寺で、日本初の写経場だという。中金堂、東に塔、西に西金堂が建ち、中門から出た回廊がこれらを囲み中金堂につながっていた。川原寺の伽藍配置は他にあまり類を見ない「一塔二金堂式」で、広さは東西、最低でも150m、南北300mもあったという。建物は全く残っていないが、それらの柱の礎石が元のままの位置にあり、これら全体が川原寺跡ということだ。草ぼうぼうの中を歩いて中金堂であった弘福寺にお参りするという形になる。入山料300円也。誘うように中から視線を送る女性の方がおられたが、覗くだけにして失礼する。

上左:川原寺跡(南から見る) 同右上:川原寺跡 弘福寺 同下:川原寺復元図 下左:川原寺回廊柱跡 同右:川原寺跡(南東から見る)

川原の集落

 整備された県道に出ないで、川原の集落中の道を歩く。昔ながらの住宅が続く古道は、曲がりくねっていて歩くのが気持ち良い。飛鳥の歴史を物語る大史跡と隣り合わせだが、人っ子一人通らない。川原寺は飛鳥4大寺院と言われるが、岡寺や飛鳥寺などのように観光化されていない分、静かな生活が残されている。礎石を残しただけで元の川原寺を復元せず、言わば放ったらかしのままにしていたおかげかも知れない。私はこの方を気に入っているのだが……。

上左・同右上・中:川原集落 同下:甘樫丘東縁を走る道路 下左:川原集落から野口王墓古墳一帯の地図看板 同右上:亀石 同下:飛鳥ハイキングコースを行く

 ぶらぶら行くと、目の前に鬱蒼とした樹林に覆われた丘陵が迫ってくるが、これは甘樫丘の南端部なのだ。その東縁を南に行き県道を渡ると、亀石のある古道に差し掛かる。飛鳥ハイキングの時はこの道を必ず行くことになるが、今日はそこを行かず、さらに南へ、天武・持統天皇の御陵・野口王墓古墳に行くことにする。

天武・持統天皇陵

 近鉄飛鳥駅に通じるバイパス・県道209号線を行くと、東の丘陵地に幅の広い三角屋根を持つ、一見倉庫のような建物が何軒か建っている。これが新しい明日香村役場だ。飛鳥の景観に合わせるということだが、役所らしさを裏切っていてこれも良いのだろう。坂を下ると本物の倉庫があった。高市製薬の工場で、ドロップ剤の製剤技術を活かし、GUM、ルル、トラベルミン、エスタックなどののど飴・ドロップのOEM製造を行っているようだ。一瞬陀羅尼助のような古来の生薬を作っているのかと思ったが・・・・・・。

上左上:明日香村役場新庁舎 同下:高市製薬工場 同右:野口王墓古墳全景(東から見る) 中左:野口王墓古墳(登り口から見る) 同右上:八角形・五段築成復元図 同下:拝所 下左:墳丘側面の階段状の様子がかすかに見える 同右:樹木が生い茂る墳丘(西から見る)

 坂を下ると右手に竹藪の山が見えてきた。これが野口王墓古墳、つまり天武天皇と持統天皇の合葬陵で、本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段が巡らされていた。すでに大型前方後円墳が造られなくなった時代のユニークな形で、天武は通常の乾漆棺に埋葬されたが、持統は日本の天皇として初めて火葬され、金銅製骨蔵器に遺骨が納められていた。全国を統一し、律令制に基づいて新しい時代を切り開いた大王にふさわしい斬新な御陵である。拝所からぐるっと裏手に回ってみると、かなり土は流れているが、盛り土は階段状なっていることが微かに見て取れる。

飛鳥の歴史道

 御陵の横手から尾根伝いに山越えして古道に入ると、すぐに鬼の雪隠(せっちん)と俎(まないた)のところに出る。何のことはない、上方にあった古墳石室の蓋石が横転して坂下まで転がったもの、俎である底石はそのまま坂上にある。怪力を持つ鬼の存在を不気味に感じさせるうまいネーミングである。

上左:竹林沿いを進む 同右上:鬼の雪隠 同下:鬼の俎 中左上:丘の谷あいに農園が広がる 同下:カナヅカ古墳の地形測量図 同右:方墳の全景(南から見る) 下左:基壇部分南西隅から見たカナヅカ古墳 同右:方墳の際まで近寄る(南東側)

梅山古墳

 さらに歩くと大きな緑の塊、古墳を思わせるのだが、果たして梅山古墳だった。畑のあぜ道を歩いて御陵に近づくと、外濠に沿った道が円弧を描きながら続いているではないか。前方後円墳の後円部のようであるが、その周りの外濠に沿って歩いて行く。後円部の中央に土盛の堰があり、南側の濠は満々と水を湛えているが、北側は空堀である。道があるかどうか不安ながらも進むと、木立の枝に覆われながらもずっと先まで小径が付いている。ジャングル状態の山道を歩いているような感じだが、何とか前方部の拝所まで行き着けた。墳丘は前方部を西に向け東西に正確に主軸をとった前方後円墳で、墳丘全長140m、後円部径72m、前方部幅107mで、明日香村内では最大の古墳である。非常に多くの葺石があることでも知られている。

上左:水を湛える梅山古墳の南側外濠 同右上:南東の麓から見た梅山古墳 同下:水を湛える外濠(前方部から見る) 中左上:後円部外濠の中央にある土盛が堰になっている 同下:後円部外濠北側は空堀 同右:空堀の外濠北側に沿って小径が付いている 下左:前方部の拝所 同右:大王家と蘇我氏の墳墓が微妙な距離感を見せる 最下左から:吉備姫王墓とその墓域に配置された猿石

 白石太一郎先生の説によると、欽明天皇陵は、そこより800m北方にあり、大和最大の前方後円墳である丸山古墳だと。墳丘全長は318メートル、後円部径155メートル、前方部幅210メートルあり、梅山古墳と比べはるかに大きい。6世紀後半の570年以降最も偉大だった天皇である欽明は、蘇我稲目の娘堅塩姫を妃に用明、推古を、同じく稲目の娘小姉君を妃に崇峻を作り出したのだった。稲目と欽明がタッグを組んで新しい大和政権を飛躍的に発展させたという意味で、この時代の最大の権力者たちだった。この時期に飛鳥の地に築造された前方後円墳として、丸山古墳と梅山古墳はいずれかの陵墓に違いないとし、大きい丸山古墳を時の大王である欽明陵に、その配下でもあった稲目には梅山古墳を充てるのは至極まっとうな考えであるとする。私もなるほどと納得するのだが。(探検日:2024.11.6)

蘇我氏の飛鳥

 甘樫丘の南側に各辺が70~80m超の方墳である小山田古墳と各辺30mの方墳の菖蒲池古墳が並んでいるが、それぞれ蝦夷と入鹿の墓だとされている。この二人は乙巳の変で時の大王勢に滅ぼされたわけだが、その墓が稲目の墓とする梅山古墳の北東方800mにある。さらに小山田古墳の南方400mに天武、持統が眠る野口王墓古墳がある。梅山古墳と丸山古墳、梅山古墳と小山田古墳・菖蒲池古墳、小山田・菖蒲池と野口王墓古墳、これら墳墓の位置関係は、時代とともに変化する大王家と蘇我氏との権力関係の絶妙なバランスを測りながら配置されているのではないか。そのように捉えると、東に遠く離れた石舞台古墳、馬子との関係はどうなのか、と思索を巡らせるのである。半世紀にわたる蘇我氏と大王家との関係、それは飛鳥という地との関係でもあったと言える。稲目と欽明により飛鳥進出の礎を築き、馬子と推古により飛鳥に宮が造られ、蝦夷、入鹿の絶頂期に天智により滅ぼされる。これらは7世紀前半の決して長くはない激動の時代の舞台が、まさに飛鳥だった。決して美しいばかりでない、蘇我氏の悪戦苦闘の人間ドラマが繰り広げられた舞台でもあった。

 これにて、雄略天皇の時代から始まる蘇我氏の活躍を、河内から近つ飛鳥、大和そして飛鳥へとたどる旅を終了します。企画からほぼ1年をかけて追い求めてきた大王と蘇我氏との波乱に満ちた関係、それはまた、新しい日本を築いていく歴史でもありました。長きにわたりお付き合いいただき、誠にありがとうございました。(完)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(2)件のコメント

  1. 田中弘一

    ありがとうございます。
    この一年間に渡る古代遺跡散策の旅は、貴方でしか出来ないと思われる壮大な企画をよく完成されました。敬意を表します。

    1. phk48176

      毎回コメントをいただき、ありがとうございます。歩き回る中で湧きあがってきた考えを文にし、絵や地図にして表現してきました。合っているのか間違っているのか分かりませんが、その考えは私を虜にします。ま、こんな感じでこれからも綴っていきたいと思います。今後ともよろしくお願いします。

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