古代の海岸線・堺津を探して

 大津道(長尾街道)の出発点は港だったが、それは中世の環濠都市だった堺の港ではなく、7世紀代の古代における港、堺の津と言われるところだった。それはどこだったか、仁徳天皇陵をはじめ、百舌鳥古墳群がずらっと並ぶ丘陵地にほど近い、古代の海岸線を探すところから始めたい。

左:堺の町を巡る歩行軌跡(カシミール3D) 右:左図の地域各所の標高を記す(カシミール3D)

堺市街の街並み

 南海高野線堺東駅を降り、西側の広い通りを渡り堺銀座なる商店街に入ろうとする。信号待ちをして周りを見渡すと、高島屋のビルから東側が高い土地になっていて、広い通りの部分が最も低く海の底のようにも感じる。道路を渡るとアーケード商店街が迷路のように増殖し、小さな飲み屋や食堂が軒を連ね、夜になったら竜宮城のようににぎやかになるのだろうと想像する。アーケードの下を右に左に歩いているうちに大きな通りに出てきた。大小路筋と言い、海岸まで伸びている。歩道が広く野外彫刻や地蔵堂、高速道路を潜る緩やかなスロープの歩道橋、並木も途切れず続いていて、ちょっと私の堺イメージとは違うモダンな都会センスの道路空間になっている。

上左:堺東駅西側の横断歩道を渡る 同右上:堺東駅西口 同下:堺銀座のアーケード街 中左上:大小路筋の歩道に地蔵堂 同下:避難場所は上へ上へと三国ケ丘の高台に 同右:広い歩道には野外彫刻も 下左:熊野小学校の校門の上には桜の枝の支え台が乗っていた 同中:大小路筋 同右:モダンなデザインの歩道橋 

 シンプルにデザインされた歩道橋を渡り、反対側へ。少し行くと開口(あくち)神社があり、15年ほど前、住吉大社から神輿に伴ってここまで来たことがあった。盛大に祭りが行われていた境内は広々としていたが、今は閑散としてこじんまりした感じに見える。海や港の守り神でもある神功皇后が祭られ、大津道や丹比道はここから始まるとされた。西の鳥居から出るとそこは堺山之口商店街の通りだった。呉服屋やふとん屋、衣料品店など、昔ながらの商店が軒を連ねている。大阪ではちょっと考えられない、中心街でもまともな生活が根付いているという証拠だろう。アーケードを出ると昔ながらのお茶屋や和菓子屋もあった。

上左:開口神社境内 同右:神社前にある神具店 下左:堺山之口商店街に面した西側入口 右上:商店街 アーケードを外れたところにある昔ながらの和菓子屋やお茶屋

堺の町割と掘割

上左:チンチン電車が走る大道筋 同右上:与謝野晶子生誕地の石碑 同下:駿河屋がある往時の街並み 中:さかい利晶の杜の外観と内部 下左:享保20年(1735)の堺の町割、海側の堀がまだない 同中:文久年間(1861~4)の環濠都市としての堺 同右:海に向かうフェニックス通

 大道筋は堺の観光名所として必ず出てくるが、阪堺線・宿院の電停付近にはかの有名な与謝野晶子の生家、和菓子の駿河屋があった。この界隈には先ほどの堺山之口商店街にあったような商店が並んでいたに違いない。宿院の角を西に行くと「さかい利晶の杜」という博物館があり、この辺りの通り名が西に行くに連れ、中浜筋、浜六間筋、下浜筋となり、海岸に近づくことがわかる。大坂夏の陣により焼失した堺の町を復興するため、徳川幕府は中世よりも規模を拡大して町割りを行ったが、街の外周を囲み海際まで伸びる掘割が今も残る。

古代の海岸線を探す

 フェニックス通の住吉橋の下を流れる土居川に沿って北に進むと、水際が遊歩道に整備され気持ちよく歩ける。南海本線堺駅辺りまで来ると内川となって東に曲がり町中に入り、さらに行くと左に曲がり、川の周辺が広場になっている。掘割が最も内側に折れ込むところだが、古代から中世にかけての水際線に近い所のように推測される。緩やかな階段状になった水辺広場は船着き場の趣きもあり、ここから西側は船が行き交う港であっただろうとイメージが膨らむ。

上左:掘割(土居川)に沿う遊歩道 同右上:住吉橋付近は工事中 同下:土居川に架かる竜神橋の親柱 中左:南海本線堺駅付近で海へ流れる川と別れる 同中:カーブを描きながら内側に折れ曲がる 同右:内川に架かる戎橋の親柱 下左:昔の船着き場を思わせる広場の階段 同右:ザビエル公園前の内川の水辺

 水辺に沿って行くと、ザビエル公園がある。フランシスコ・ザビエルが堺を訪問したとき、ザビエルをもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡と言われるところ。発掘調査によると、この敷地内の西側に中世の頃の水際線があったことが分かった。今の川縁から50mほどの所になるが、古代の海岸線はもう少し東に入った所と予想される。ちん電が走る大道筋に近い所、道路際から100m以内の所まで波が来ていた。古代には護岸を構築する技術がなく、自然の砂浜に杭を打つ程度の港設備だっただろうから、水際=港と言っても良い。大道筋の西側一帯は港町としてにぎわっていただろう。

上左:ザビエル公園 同下:ザビエル公園から長尾街道に向けて信号を渡る 同右:古代海岸線の地形を推測する(BTG 城郭都市研究会『大陸西遊記』編集部より) 下左:ザビエル公園を横切る中世の海岸線を示す地図 同右:ザビエル公園前を走るチンチン電車

堺津・港が大津道の出発点

 現在、長尾街道の西側の出発点を大道筋の花田口とされているが、ザビエル公園の辺りが堺津という港であったのではなかろうか。港が出発点であったがゆえに、古代・中世を通じて、和泉、河内と大和を結ぶ流通の拠点であり続けたと言えるだろう。「大津道」という名称は、港から出発する道だからこそ、そう名付けられたように思う。それはともかく、ザビエル公園東南隅から大道筋を渡って真直ぐ南東に伸びる道がプロト大津道であり、長尾街道なのだ。堺市街を通り、丹比・河内を東西に横切るこの街道の重要性を確認させるように、沿道の随所に「長尾街道」と銘記する道標が立っている。

長尾街道を歩く

 しばらく行くと、神社の祠が見えてくる。これが通称堺天神と呼ばれる菅原神社。大阪府の指定文化財になっている楼門が美しい。堺の町割りは、大小路を境に北組と南組に分かれ、菅原神社は北組の氏神社で、南組のそれは開口神社である。いずれも堺の豪商達の寄進で成り立ち、堺町衆の繁栄のシンボル的存在だ。狛犬の代わり設置された天神さんの乗り物・牛の石彫は、よくなでられて光っていて、氏子に親しまれてきたことがわかる。

上左:長尾街道脇に菅原神社が見える 同下:菅原神社 同右:楼門が朱色で美しい 下左:吽様の牛の石彫 同右上:阿様の牛 同下:神社に似つかわしくない立派な門がある

 街道をさらに行くと、高速道路が視界を遮る。この高架下には江戸期に開削された掘割運河の土居川が流れていた。土居とは堤のことで、掘った土を盛り上げ堤としたところから、人工的な川という意味でこの名が付いた。元々土地が低く水が溜まっていて、湿地対策としても堀川を掘り、残土で陸地化していった。カシミール地図を見ると、南海高野線に沿った西側の土地は標高2m前後と低く、南部から少し高い陸地が大和川方面にかけて付きだし、その周りに海水が回っていたことがわかる。この陸地の一番高いところに紀州街道の大道筋が通り、その陸地部分が堺の街となった。町割の周辺に掘割を通して環濠都市とするには、都合の良い土地の形をしていたのである。堺東駅を降りて感じていた海の底のイメージもあながち間違いでもなかったのだろ。

上左:交差点を渡ってさらに伸びる長尾街道 同右上:長尾街道は生活道路でもある 同下:一昔前の魚屋のような店先 下左上:阪神高速堺線が横切る 同下:高速沿いに土居川公園が続く 同右:古代の水際は大道筋が乗る丘陵地先を回り込み、東側に住吉浅香浦という入り江を成していた(堺市北部の古道復原(森村健一))

都市伝説?のトンネル 

 高速の下を突っ切っていくと、南海高野線にぶつかるが、この電車軌道をどう越えて行くのだろうかと興味が湧いてくるのだが、果たして地下道で潜るのだった。高島屋の立体駐車場入り口の横にアーチが見えて、次から次に人がその中に吸い込まれて行く。昭和の都市伝説の一つに出合ったように、いつまでも見飽きない不思議な光景だった。薄暗いトンネルの中をこわごわ歩いて行く。電車道の地下トンネルと言えば、JR大阪駅北側に広がっていた梅田貨物駅を潜る北梅田地下道を思い出す。超近代の新梅田シティに行くのに地下道を潜るのだが、このアンバランスが何とも心地よかった。このほどうめきた開発により消滅したが、堺東駅のトンネルにはいつまでも残ってほしい。

上左:南海線軌道下を潜るトンネル入り口、これも長尾街道 同右上:堺東駅方面に向かう 同下:向こうに南海線が見える 下左:トンネル入り口 同右:トンネル内

三国山の方違神社

 異空間から戻り地上に出ると、ごく当たり前の都市風景が広がっている。街道はすぐに広い幹線道路、大阪府道12号線堺大和路線に合流し、車がビュンビュン走る道路脇の歩道を歩く。彼方にマンション風のツインビルが見えるが、この辺りでは新景観、それは何だろう。すぐ近くに「門前そば」の看板。以前には満員で入れなかったので、今回は是非食べてみたいと入ってみた。天ぷらそばを注文したが、麺に粘り気があってうまい。腹ペコだったのでかやくご飯なんか付いていたらと思ったが、ここではそばのみ。人がいないのでいろんなものを作れない、そばを味わってほしいという店主の願いなのであろう。

上左:方違神社内にある「三國丘」の碑 同右上:右が高野線を越えるバイパス、左に向かう細い道が長尾街道 同下:東の彼方にツインビル、右手に門前そば 下左上:方違神社本殿 同中:境内にある和泉名所図会説明板 同下:神社に隣接する反正天皇陵 同右:古代の海に近接する百舌鳥古墳群の地形図(カシミール3D) 

 先にそばに目が行ってしまったが、門前の門は方違(ほうちがい)神社の門であって、それを忘れてはいけない。社地は摂津、河内、和泉の境にあった三国山(三国ヶ丘)にあり、いずれの国にも属さない地、方位のない地であることから、方位、地相、家相などの災除けの神社として有名である。また三国ヶ丘の丘陵地は大阪湾の海岸沿いに南方の石津川辺りまで伸びていて、その丘陵地の上に反正陵、仁徳陵、履中陵などが乗っている。古代には、瀬戸内海を通る船に対して巨大古墳が連続する景観によって大和政権の偉大さを見せつけたのである。大津道や丹比道(竹内街道)は、百舌鳥古墳群と古市古墳群、特に仁徳陵と応神陵を繋ぐ経路としての役割もあったと言えるだろう。(探検日:2025.2.14)

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phk48176
古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。
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古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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