三國の辻(三國丘)で摂河泉の3つの国境が接するが、和泉と河内を分かつ境は何度か移動し、和泉国が定着して後に西高野街道に沿った線に落ち着く。一方、摂津の南端と和泉・河内の境界は、当初から大津道で定着している。大津道は先にできていて、国境を決める基準となる道だった。それでは、河内と摂津を分かつ南北の国境線はどこにあったのか。それは大津道上に接点を持っているはずだから、大津道を歩いて行けば出合うに違いない。


左:摂津・河内・和泉国境(堺市史続編より) 右:方違神社から布忍まで、大津道の歩行軌跡(カシミール3D)
新しい町、古い町
方違神社から東方へ、大阪府道堺大和路線沿いを真直ぐ、ただただ歩く。彼方にあったツインタワーが目の前に迫ってくる所、北側を見ると何やら殺風景な風景が広がっている。立て看板があり、近づいて読むと、なんと大阪刑務所とある。背の高い塀が取り囲んでいるということではなく、近年建て替えたのかモダンなマンションのように見えるが、幅広い通路の奥に留置所ビルがある。街道の道路沿いに刑務所作業製品展示場というのがあって、中に入ってみると刺繍や袋物、家具や革靴などが並べてある。どれも念入りに作られていてさぞかし丈夫なのだろうが、欲しいものはない。
上左:大津道沿いの扁平なビル 同下:大阪刑務所(南側から) 同右:ツインビルが近くに迫る 下:刑務所作業製品展示場とその内部
やっとツインビルの正体がわかった。『美しい、幸せなゆとりの時間』というフランス語で、「ベルマージュ堺」という専門店街、ツインビルは壱番館と弐番館の高層マンションであると。東側にJR阪和線堺市駅があり便利なんだが、横に刑務所があることが「こそばい」ところなんだろうなあ・・・・・・。
上左:ベルマージュ堺全景 同右上:ベルマージュ堺南側の遊歩道 同下:阪和線堺市駅北側の地域図 下左上:大津道の踏切 同下:大津道・長尾街道 同右:大津道を電車が横切る
長尾街道に戻るとそこに阪和線の踏切がある。電車が頻繁に行き来し、その都度遮断機が上がり下がりして、人々が一斉に踏切を渡る。しばらく踏切のある風景を楽しんだ後、さらに東に向かう。堺市駅東商店街は少し曲がりながら道の両側にいろいろな店が並ぶ。人通りは途絶えることなく、自転車も忙しげに通る。300mほど続く商店街には薬局、焼き芋屋、マッサージ、不動産、コンビニ、風呂屋、教会もある。生鮮食品店はないが、ベルマージュと住み分けしているのだろうか。この街道から南側は、北・中・南と3つの長尾町とつく町名であるが、長尾街道の由来を語る史跡などは一切見つからないので、長尾街道と呼ばれて以後に何らかのきっかけで長尾町としたのだろう。
上左:堺市駅東商店街は人通りが絶えない 同右上:風呂屋、教会が並ぶ 同下:同商店街 下左上:大津道に北長尾町が接する 同下:商店街を外れたところの街並み 同右:府道28号線沿いに黒部医院
五箇荘村の物語
方違神社からほぼ真直ぐに来た道が、関電長曾根変電所を過ぎた辺りで大きく右にカーブし、狭間川を越えた所でまた左に曲がる。これは巨大な今池を避けるためで、池の南縁に沿って湾曲するように道が付けられた。今池は埋め立てられ、今は五箇荘中学校になっている。
上左:カーブする街道 同右上:関電長曾根変電所を過ぎた辺りで大きく右にカーブ 同下:狭間川 下左上:五箇荘中学校グランド 同下:大津道を横切る自転車 同右:小さな変電所前にある長尾街道の道標
五箇荘という名称は堺市の町名にはないにもかかわらず、今も広い範囲で小中学校、保育園、地域会館(公民館)などに使われている。明治22年(1889)に浅香山村 、大豆塚村、奥村、北花田村、船堂村、万屋新田、花田新田、庭井新田が合併して、大鳥郡五箇荘村が誕生したという。五箇荘は15世紀後半の記録にあらわれ、大和川付替前には大依羅神社を氏神とし我孫子・杉本・庭井をも含むかなり大きな地域だった。今井宗久が五箇荘の代官だったし、北花田一帯を支配した澤池氏は、堺港を拠点にした遣明貿易で巨額の冨を得た。大津道(長尾街道)は、堺や住吉の港と河内、大和を結ぶ流通の幹線道で、五箇荘村に大きな繁栄をもたらした。



左:五箇荘村域(青線(大和川付け替え以前の想定村域)+赤線(明治22年以降の村域)・・・大和川付け替え以前の村域) 右上:現在も「五箇荘」(五ケ荘も含む)の名が付く施設 同下:松原市域へと入る大津道の歩行軌跡(カシミール3D)
上左上:五箇荘小学校付近の街並み 同下:愛染院 同右:愛染院設利塔 下左:華表神社への真直ぐな道 同右:愛染院山門と観音堂
べっちんのねんねこ
愛染院を後にしてしばらく行くと、大きな道路を渡ることになる。大阪メトロ御堂筋線が地下に走る府道28号線、地元では「ときはま線」と呼ぶ。大阪市内では我孫子筋と呼ばれる道で、大和川を渡り堺市に入ると常磐町、行き着く先が浜寺公園なので「常盤・浜寺線」、それが縮まって「ときはま線」となった。これを渡ると、船堂町となるが、五箇荘村の役所があった所でもあり、今も古い家が残る。街道右手に蔵前西方地蔵があり、天保期の地蔵が2体納められている。少し行くと、格子が美しい屋敷があり、前に真新しい長尾街道の道標が立つ。左側の扉に「金鳳別珍株式会社」の表札が架かる。昔、普段は綿入れの布団だが、余所行きにはべっちんのねんねこを羽織っておんぶされた、という記憶がある。別珍は起毛された表面が柔らかく、ベルベットのような高級感がある。その別珍がここで作られていたのか。「金鳳別珍」とは明治28年(1895)に始まった衣料品工場で、昭和初めには金鳳足袋がヒットして全国に売り出され、昭和35年(1960)まで続いたとされる。法人登録されているので、今も別珍は作られていそうな感じはするが・・・。
上左:蔵前西方地蔵(天保期の地蔵2体) 上右上:ときはま線 同下:昔ながらの長尾街道 下左:「金鳳別珍」の表札が架かる 同右:金鳳別珍東側の家の前に長尾街道の道標
難波大道=河内と摂津の国境
大和川、狭山の最奥から来る西・東除川などがもたらす肥沃な土砂により、弥生時代より水田開発が盛んだった河内平野を地盤にするのが河内国だった。そして河内湖の水際を開拓し農業生産を盛んにする河内国はその領地を広めていった。一方摂津の国は、国際交易の窓口の難波津や国際交流の拠点でもあった難波宮を管理する国の直轄地であった。摂津国は上町台地を中心に丘陵部を占めるが、時代が進むにつれ河内国の勢力に押され気味だった。こういう状況の中、南部については、摂津国が国境を難波大道に設定したのは、ここを防衛線として河内の勢力を食い止める意図があったのではないか。難波宮から南進する難波大道を汚すことは畏れ多いこととし、これを国境とすることに疑義の生ずるはずはなく、古代から中世、近世を通じて国境線は変わらなかった、そのように考えるのだが・・・。大和川の付け替え以降、明治4年(1871)に摂津と和泉の国境は堺大小路・長尾街道から大和川に改められ、大和川以南が和泉と河内との境界となった。現在では堺市と松原市の境界として、そのまま受け継がれているのである。


左:摂津・河内・和泉の国境(服部昌之「古代の直線国境について」より) 右:河内・摂津の国境(いこまかんなびの会・原田修「河内・摂津両国堤と放出について」より)
堺市と松原市の境界を探す
そろそろ堺市と松原市の境界に差し掛かるところだが、そんな表示はどこにもない。現在の大泉緑地の中にある大泉池から発して西除川に流れ込む光竜寺川、その周辺は土地が開けて見晴らしが良い。川沿いに北上してみるが、難波大道跡、または河内と摂津の国境があったことはかなり大きな話なのに、それを説明する石碑などがいっさい見当たらない。船堂公園の東方にある住宅街の中の道を西から東に歩いて行き、通り過ぎてから気づいたのだが、アスファルト道の上に南北に縁石が引かれているではないか。周辺を見やると、いくつかマンホールが集まっている。マンホール蓋をよく見ると、西側では堺市のマーク、東側では松原市のロゴが書かれている。つまり、この縁石は両市の境界線ということになる。住宅が建て込んでいるが、縁石の延長線上の北側、南側は、わずかな隙間だが先まで見通せる。つまり境界線の上には住宅は建てられていない。家が境界にまたがっていると、それはややこしい問題はあるだろう。

上左:堺市北区北花田町2丁と松原市天美我堂3丁目の境界 同右上:堺市北区船堂町・北花田町と松原市天美我堂の両市境界周辺を歩く 同下:北花田町2丁から天美我堂3丁目へ 下左から:松原市の水道メータ、グーグルマップの境界上に立つ 、堺市のマンホール(2つ)
まだ畑が残り、その西側の縁に住宅が一直線に詰まって建っているが、その縁が境界線なのだろう。さらにその南側の大きな空き地の中央を畑の縁を延長した境界線が走り、線は南側にある事業所の敷地を通ることになる。長尾街道に戻り道路上に境界線があるか確かめてみたが、先程の境界線は事業所としていたパナソニックエイジフリーという介護施設の敷地内を南北に走り、一本の長い縁石が通っている。それを示すように、長尾街道に面する縁に法務局名で境界表示板が打ち込まれている。それと注意しないと絶対気づかないが、ここから真直ぐ北に境界線があり、東の方には北側が松原市、道路を含めて南側が堺市なのである。長尾街道は東西方向に松原市・堺市の境界線でもあるのだ。何かすっきりしたというか、ここを南北に10数m幅の大道が通っていたのだという感慨もなく、あっけなく疑問が解けてしまったのである。
上左・右:畑(松原市)と連なる住宅(堺市)の間を両市境界が通る 同中:グーグルマップ上の境界に立つ 中左:空き地の真ん中を境界線が通る 同右上:長尾街道に面したパナソニックエイジフリー 同下:境界線と街道の交差部分に立つ 下:長尾街道に面した老人施設の敷地内を通る境界線縁石と境界表示板
条里制の名残が見える
難波大道との交差地点から東に来ると街道はどこまでも直線道となり、官道であったことがわかってくる。これに交差する南北道路も真直ぐな道が多い。直交する道路は、条里制の格子状の区画があったことを示す名残だろうか。それにしても路上に「T」というローマ字が描かれた3叉路を示す道路標識が多いのは何故だろう。街道の交差点に立つと、太い道は街道を横切ることが多いのだが、細い道は南北連続せず、街道でいったん止まり少し距離を置いて反対側に伸びる、つまり筋違い道が多い。後に説明することになるが、大津道が条理制の基準線で、北側と南側では単位距離が違っていたことによるものだが・・・。

上左:大津道(長尾街道)を軸に、条里制をうかがわせるような筋違いに交差する道が通る 同右上・下:T字交差点幾つもある 下左上:太い道は直交する(松原新町郵便局前) 同下:新興住宅地に入るT字交差点 同右:逆方向のT字交差点が連続する場所もある
松原市域では条里制の田んぼが延々と広がっていたことなど、今では想像だにできない。マンションやアパート、小規模の住宅が連綿とつながっている、現代そのものの風景が展開されている。昔を忍ばせると言えば、田畑を潤した水路が道路沿いに伸びていたり、道端に地蔵尊が立っていたりすることぐらいか。そうこうしているうちに小さな家が並ぶ街並みにはふさわしくないような太い川が現れる。これが西除川で、以前探検した東除川に対して、狭山池から流れ出てきて西側に水を除ける大きな川だ。そこに架かる橋が布忍橋で、しばらく行くと近鉄布忍駅がある。夕闇も迫り、そろそろ今回の探検を終え、近鉄電車に乗って家路に向かおう。(探検日:2025.2.14)