条里制を歩く

 前回の続き、近鉄布忍駅を降り条里制を探して歩いて行こうというのだが、その前に今回の古代史探検の背景、知っているようで知らない条里制について調べてみた。さらに、それを歩いて確認するためには、土地というものの成り立ちを知ることにつながってきて、なかなかに奥深い歴史認識が必要となるのだった。

大阪平野南部の条里遺構と古代景観(松原市史より)

律令制と行政組織について

 中国に発達した律令制を採用して政治改革をする動きは、7世紀初めの推古朝あたりから現れていたが、具体化するのは大化の改新後から。中大兄皇子、中臣鎌足が新政に着手して以降、白村江の戦や壬申の乱などの幾多の苦難を経て徐々に発展し、天武天皇を経て持統天皇の時代、大宝律令の制定をもって制度として完成したと言われる。民衆を組織する最小の単位は戸であるが、 20~25人くらいの血縁、婚姻の家族や親族で一戸口を成し、戸主が租庸調納入の責任者となる。戸を50集めて一里とし、里を幾つか集めたのが郡である。松原市や羽曳野市がある丹比郡には、依羅(よさみ)、野中、丹北、丹下、土師、狭山など11の里があり、石川、古市、安宿、高安、交野、志紀など14郡を集めて河内国を作っていた。こうして成立した国々が、畿内と東海道以下の七道に区分され、河内国は大和、山背、摂津、和泉とともに畿内に属していた。

条里制について

 律令制のもとに日本国を運営する根本は租庸調の税制であるが、田に課される税が租と呼ばれる。規定では、1段に付き稲2束2把、1町に付き22束となる。1段の収穫は上田の場合72束が基準だから税率は3.06%。それほど高くないように見えるが、その他に労役に駆り出される庸、絹・綿・麻布などの衣料品を主とする調、兵役や庸や調を運ぶ役目などもある。畿内は他国より軽減されているとはいえ、それらを合わせるとかなりな負担となる。その田租の計算基準であったのが条里制であった。

条里制の概要(松原市史より)

 条里というのは、古代に平野を6町幅で、東西・南北、あるいは地形の傾斜方向に従った方位で、直交状に区画し、その6町四方の区画を1町四方の坪と呼ぶ区画36個に細分した、そのような計画的な土地割りである。6町四方の1区画は里、里の列は条と呼び、某条某里というふうにその位置が示される。里内を細分した坪は「一ノ坪」から「三六ノ坪」まで序数を付けて呼ばれ、配列方法(坪並)は千鳥式と平行式の2種類がある。千鳥式は、一ノ坪から六ノ坪、その横の七ノ坪から折り返し十二ノ坪へというように三六ノ坪まで千鳥に折り返す。河内国、和泉国はほぼこの方式だった。1町の長さは109mで60歩。1歩が約1.82m、今で言う6尺。1歩×1歩=1.82×1.82=3.3㎡だから今の1坪と同じ。切り分けられた田の最小単位が1段で、6歩×60歩または12歩×30歩だから3.3㎡×360=1188。今の1反=300坪=990㎡だから、この当時の1段は1反の約1.2倍あることになる。

布忍の条里制を歩く

 大阪平野南部の地図を見ると、長尾街道以北で西除川東側の布忍(ぬのせ)から中高野街道辺りまでの地域に条理遺構が一番残っているようだ。条里制の基準線になっている大津道(長尾街道)に出て、布忍界隈の坪並の始まりの地点、西から東に向かう坪並の1番目の区画を探すことにする。いろいろ調べていくと、1町(109m)四方のあぜ道には必ずと言ってよいほどそれに沿う水路が付いていることを発見する。道がなくなっていても水路が残っている場合が多く、今も流れる水路を探す方が坪に沿う条里の道を正確に見当てられそうだ。また、道や水路が付いていなくても、建物の背中合わせになった所が一筋に続く場合、その線が条里制の区画境界と考えられる。条里制を尊重して区画境界に建物を建てていないことが多いのである。アパートや小規模住宅が背中合わせに一直線に並ぶ場合がそうで、そこに細い水路が通っている場合は、確実に条理の道だと言える。

条里制を歩いた軌跡(カシミール3D)とその上に各坪の境界線(橙色の線)を引く。(一)~(三六)は、1条1里分を千鳥に進む坪並の番号を付す。(一)は一ノ坪、(三六)は三六ノ坪を意味する 

 そんな原則に沿って細かく見ていくのだが、近鉄線の踏切から西へ行くとそれらしい小径がさっそく見つかった。よそ者が入って行くのがはばかれるような狭い路地であるが、街道から直角に北へ向っている。この道が恐らく2ノ坪と3ノ坪を区切る道だったに違いない。あぜ道だったらしくその幅も半間程度しかない。

上左上:近鉄布忍駅 同下:大津道(長尾街道) 同右:2ノ坪と三ノ坪の境界を通る路地 下左:お好み屋や駐輪場を通る路地 同右上:やや屈曲して通る路地 同下:歩行経路の地図(カシミール3D)。布忍駅裏、二ノ坪・三ノ坪周辺を示す

 布忍駅から西側はかなり開発がされていて、街道沿いには商店や住宅が隙間なく並んでいる。地図を見ていると、西除川が蛇行しながら南東から北西に流れるものの街並みは川の流れに従うように斜めではなく、基本的には東西軸、南北軸がきちんと通っている。つまり、元々の条里制の基本軸は保たれているのがわかる。路地を北に行くと、布忍駅からの斜道と合流して左に折れ曲がるが、この斜道は駅舎に沿うように後にできた道であろう。旧村からの邸宅が建ち並ぶ間を東西に真直ぐ通る道と交差するが、これは二ノ坪と十一ノ坪を区切る道に違いない。さらに進むと西除川の右岸に到達する。街道から一歩中に入いると、昔ながらの村の風景が残っていることに驚く。

上左:狭い路地を抜けると旧村に入る 同右上:路地は駅裏の道に交差する 同下:ニノ坪と十一ノ坪の間の道 下左:旧村豪邸の門構え 同右:西除川右岸に沿って大津道まで行く

背中合わせの路地に「一ノ坪」を発見

 川沿いに街道筋まで戻り、布忍橋を渡り西方に向かう。橋の際に惣井戸という古井戸が残されている。長尾街道を通行する人々の休憩場所でもあったようで、現在も新町公民館があり、古来この地域の公的施設が置かれてきた場所だった。この辺りが恐らく二ノ坪の西角のはずだが……。さらに100mほど西に行き、条理の一ノ坪の端が発見できるか探してみる。

左:西除川西側の大津道 右上:大津道と川堤の交差部分にある惣井戸 同下:新町公民館は大津道に面して建つ

 南側に入る幅広の道はあるのだが、それはまだ新しそうだ。北を向くと、建て込んだ建物の間に小さな隙間、つまり建物の背中合わせの隙間が見通せて、何と足元に狭い通路が付いているではないか。どこまで行けるか恐る恐る進んで行くと、フェンスやブロック塀に挟まれながらも100mほど、つまり1町分丸々小道が通っているのだ。この道が条理を画する「一ノ坪」の西端を通る道だったのだと確信した。地図には道の表示がないので建物の背中どうしが一列に向き合っているだけだと思ったが、実際に行ってみないと分からないものだ。ラッキーというか、この線が条里制にとって重要なので、道として残しておいた、そういう土地への思いがあったからだろうと改めて感心するのだった。真直ぐの区画線とは言え、幾多の災難に翻弄されその都度人の手が入り、微妙に曲りくねっている。古代からの長き歴史の手触りを感じざるを得ない。

上左:大津道に面して一ノ坪の始まりの小道への入り口がある 同右上:小道から見た大津道 土中:建物の背中が向き合う隙間の小道 同下:小道の出口 下左:微妙に曲がりながら進む小道 同右上:歩行経路の地図(カシミール3D)。一ノ坪から布忍神社への経路を示す 同下:一ノ坪と十二ノ坪の間の道は西除川にぶつかる

布忍神社

上左:布忍神社本殿前にはハート形のおみくじ結びがある 同右上:西除川に朱色の宮橋が架かる 同下:布忍神社入り口 下左上:末広稲荷大明神にカラフルな旗が立つ 同下:玉垣には旧村の名士の名が並ぶ 同右:西への出口、この先に難波大道が・・・

普段の町に条理の道

 朱色の欄干の宮橋を渡り東へ。この道が条里制の二条と三条を区切る東西の道で、緩やかに曲がりながらもおおむね真直ぐなのである。道脇に水路が沿っていて、条理の道であることがわかる。近鉄線の踏切を越え住宅街の中を行くが、条里制の番地でもあり、古字名として残る八ノ坪は現在松原第3中学校グラウンドで、その西側の九ノ坪は空き地になっている。その境の道を北へと行く。戸建て住宅が並ぶ間に保育園、鍼灸整骨院、不動産屋などがあり、庶民の町という感じだ。1町分行くと突き当りになり、「ぐいち」に曲がる道が付いている。城下町などでは敵軍が真直ぐ進めないよう道を筋違いに付ける例はあるが、この場合は近代になって水路の右側左側に幅広の道を付けたため道自体が筋違いになった、そういうことのように推測する。

上左:宮橋を渡って条理道のある街中に入って行く 同右上:わずかに曲りくねりながら進む条理道 同下:近鉄電車 中左上:近鉄の踏切がある 同下:その先に松原カリーノ保育園の塔が見える 同右:「ぐいち」の交差点を左へ 下左:中央鍼灸整骨院、右側は九ノ坪である空き地 同中:左、北方へ曲がる 同右:歩行経路の地図(カシミール3D)。八、九ノ坪の間の道を北へ行く

背中合わせの隙間に水路 

 「ぐいち」の角を左、西方に向かう。不動産屋、散髪屋、自転車屋が並び、店の前には幅1m程度の溝がある。1町行くと今度は右、北方に向かう。こちらの通りには溝が付いていなく、小規模の平屋建てやミニ開発の住宅が続く。2町ほど行くと左に大きな敷地の美和幼稚園があり、この南端が区画の境のように思う。道を挟んだ東側には2階建ての小住宅が軒を合わせてびっしり並んでいて、その南側にある最近建築した戸建て住宅群と背中合わせになり、間に水路が通っている。これが背中合わせのすき間が坪の境界になる典型的な例だ。水路際が少し空いていて歩けそうなので入ってみると、それぞれの住宅の裏側を見ながら進むことになる。南側の住宅の間が少し広いので、そこから表通りに出る。住宅が途切れたところが十字路になっていて、そこを左、北方に向かう。

上左:「ぐいち」の角を左に曲がったところ、散髪屋や自転車屋が並ぶ 同中:歩行経路の地図(カシミール3D)。「ぐいち」の交差点から美和幼稚園までの経路 同右:道路に水路が沿う 下左:背中合わせの隙間に水路が通る、これが条理道だった 同右上:平屋住宅が並ぶ 同中:美和幼稚園 同下:背中合わせの住宅連なりを出た所の十字路

 相変わらず新旧の小規模な住宅の中を行くことになる。暗渠になっている水路沿いを行くが、麵製造所の「オオタメン」を越えた所で暗渠が取れて水面が顔を出す。ここも境界なのだが、水路際は細すぎて歩けないので、半町ほど北へ遠回りして、右に曲がり東へと向かう。棟続き平屋や2階建て木造アパート、戸建て住宅、立派な邸宅など、いろんなタイプの住宅が混在している。1町ほど行ったら南北に通る水路があり、その脇に土地が余ったのか児童公園が作られていて、遊具のシーソーに乗って一休みする。

上左:「オオタメン」前には暗渠になった水路が走る 同右:道を横切る水路にはすのこ板が載せられている 中左上:道を横切る水路の水面が表に出る 同下:棟続き平屋住宅 同右:2階建て木造アパート 下左:児童公園に向かう道周辺の住宅街 同右上:歩行経路の地図(カシミール3D)。「オオタメン」〜西ヶ池方面への経路 同下:児童公園

一里一条分の北限・西ヶ池

 この辺りは最近まで田畑があり、急速に開発されてきた、という感じだ。今回の一里一条分の北限、三一ノ坪に当たる西・西ヶ 池の北縁までやって来た。西ヶ池は西と東に二つ並んであり、いずれの東西の長さは1町、坪の区画単位になっている。この地域の標高は15.5m程度で北に行くほど低くなっている。池は北側に広がる田畑に水を供給しているのだろう。今まで歩いてきた地域には、長尾街道沿いに40~50年前まであった池から水が供給されていたとみられる。西除川はあくまで狭山池からあふれた水を配水するための川であって、田畑の用水は無数のため池から網の目に張り巡らされた水路を伝って供給された水であったことは、以前に東除川探検で知ったところだ。

西・西ヶと南側の住宅群 同右上:東・西ヶ池と善宗寺 同下:西ヶ池北側には田畑が広がる 下左上:西ヶ池は堀水利組合が管理する 同下:歩行経路の地図(カシミール3D)。西・西ヶ池から田井城集落の地図 同右:西と東の両西ヶ池の間、三一ノ坪東端の道を南へ行く

田井城の集落

 西と東の西ヶ池の間の道を南に下り、1町南の道を左、東方に行くと田井城の集落に入る。布忍周辺の古い地図を見ると全域ほぼ田畑だが、西ヶ池南側の田井城だけが集落になっていて、早くから人が住み着いていたのがわかる。旧村らしい大きな屋敷が並び、さほど広くはない地域だがお寺も神社もある。春の大阪場所では佐渡ヶ武部屋のけいこ場にもなる善宗寺、その奥に田坐(たざ)神社がある。田井城付近は平安時代後期に荘園化し、京都の石清水八幡宮領となり、田井氏が治めた。戦乱時には各地に環濠集落や砦ができたが、この地も何らかの防衛施設ができ、城のような様子でもあったのだろう。そんなことから、田井氏や田井荘の名が元になりこの地が田井城と呼ばれるようになったのだろう。田坐神社は田井氏の氏神だったが、石清水八幡宮の関係で八幡神を祀り、村社として崇敬されてきた。水路に沿って田坐神社の回りを一巡りし、田井城の村中を南下し、公民館の前を通りすぐに西へ曲がる。

上左上:田井城集落西側からの入り口 同中:東・西ヶ池に通じる小道 同下:田坐神社外周には水路が回る 同右:田坐神社 下左:集落南側、公民館に通じる道に面する邸宅 同右上:集落内にある邸宅 同下:田井城公民館

古い町から新興住宅地へ

 古い街並みからまた新興の住宅地に戻る。1町、2町と行くごとに道を横切って南北に水路が伸びている。水路ごとに坪を区画する境界のあぜ道があったのだろう。2番目の水路際から西の1区画に東新町第二公園があり、また一休み。最近の探検では、少しでも座れる場所があれば必ずと言ってよいくらい休憩する。どうもそういう癖がついてしまったみたいだ。長く座っていると歩く気がしなくなるので、2分ほど座って回復する兆しが見えたのでまた歩き出す。

上左上:公民館南方の道を西方へ向かう 同下:道を横切る水路 同右:公園の縁に通じる水路 中(上)左:裏側を水路が通る浜井商店 同右:東新町第二公園 中(下)左:「ぐいち」の角に向かう道路には水路が沿う 同右上:北から見る「ぐいち」の交差点 同中:東側から見る「ぐいち」の交差点 同下:歩行経路の地図(カシミール3D)。田井城~「ぐいち」交差点あたりへの経路 下左:「ぐいち」交差点を左、東方に行った街並み 同右上:行き止まりにも畑 同下:夏野菜までの端境期の広い畑

 しばらく行き次の角を左へ。変わり映えのしない住宅街を歩いていると、どこを歩いているのかも分からなくなってくる。GPSで確かめると、先ほど北向きに歩いて「ぐいち」の曲がり角まで来ていた。その時はここを西に行ったのだが、今度は左、東方に向かう。2区画ほど歩き右に曲がると、広い畑に出てきた。白菜や大根などの冬野菜が取り入れられ、夏野菜までの端境期のようで、ネギか玉ねぎかが青々しているだけで特段めぼしい野菜はなかった。

七ノ坪、八ノ坪は中学校、五ノ坪はマンション

 道路わきの水路が物置小屋で塞がれていて見通せないのだが、この水路は境界で間違いがなく、南北に並ぶ六と七ノ坪の東縁だろう。右、西方に曲がり、少し変形だが遠回りして七ノ坪区画の北側を回る。七ノ坪は校舎、八ノ坪がグランドというふうに2区画を使って松原第中学校の敷地になっている。そして八ノ坪の西北角に来たが、最初の頃に通った道でここを北に行ったのだが、これからは南に曲がり長尾街道へと進むのだった。この道は幅が広く真直ぐ南北に抜ける道で、地域の生活道路として早くに拡幅されていたのだろう。中学校南側にはため池を埋め立て、松原アーバンコンフォートという10階以上もある大マンションが建っている。ここも1区画丸ごと、五ノ坪という1町(109m)四方ごとに開発されているのだ。長尾街道を挟んで南側にも3区画分の大きなため池があったが、昭和50年(1975)代から住宅開発されている。これらのため池の水が、今まで歩いてきた条里制の田畑を潤していたのだ。

上左:畑の角を西に向かう 同右:七ノ坪東縁の水路の上には物置小屋が乗っている 中(上)左:松原第三中学校の体育館 同右上:学校回りの水路 同下:歩行経路の地図(カシミール3D)。中学校の北・西側を回って長尾街道に入る 中(下)左:中学校北西角 同中:グランド北側の道 同右:フェンス越し(西方から)に見える中学校全景 下左:グランド西側の道路 同右:松原アーバンコンフォート西側の道から大津道へ
左:昭和49年(1974)頃の空撮。大津道(長尾街道)を挟んでため池が4つ残っている  右:昭和59年(1984)頃。大津道南側のため池は住宅街になっているが、北側の池はまだ残っている

古代からの合理性・条里制

近鉄布忍駅から歩いた軌跡は条里制の区画を描いていた

 布忍周辺にある6×6=36坪の条里制の地域をその区画が分かるように行ったり来たりしながら歩いて来たのだが、GPSで歩行軌跡をたどるカシミール地図が条里制の跡を一目瞭然に教えてくれる。1500年近くたった今でも、条里制区画の跡が見て取れることに驚く。飛鳥時代に原形が施され、奈良・平安時代に補強・固定化されたのだが、民衆の土地への執着もさることながら、古代律令制が近代になっても一つの経済原理として社会基盤を適合していたと言えるのではないか。それは日本人としての観念形成の基盤となり、思考方法そのものの古層にしっかり根付いているのではないか。水路が真直ぐに伸びていたり、建物が背中合わせで軒を連ねていたり、そういう形態の中に奥深い思考の形跡を見るのである。

昭和20年ころの空撮。布忍周辺に広がる田畑は条理制の区画をとどめている

 真っ直ぐな線、直交する形、これらは近代合理性から始まる形ではなく、古代人も作った形でもあることが分かった。大津道という直線道路は、最も早く行き着くという時間的感覚と、それを基準線として条里制を敷くという空間感覚の融合した大きな造形物でもある。つまり「合理性」とは人類始まって以来、人間が携えた思考でもあると言えようが、そんな思考の原点を思い描きながら、さらに大津道を歩いてみたい。(探検日:2025.3.31)

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phk48176
古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。
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古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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