古代、7〜8世紀にかけての条里制区画が大津道を基準として造られてきたことが、坪ごとに歩くことで体感されたところだ。また大津道に戻り、松原・藤井寺・羽曳野へと進み、長尾街道とも別れ、河内国府をめざす本来の大津道探検をして行こう。

布忍から国府まで、古代の大津道を探して歩く(カシミール3D )
ランチ求めて街道を行く
お昼の時間になり、食堂を求めて布忍駅周辺まで戻ったが、月曜ということもあり営業している店はない。コンビニで弁当でも買ってと思いながらブラブラ東へ歩いて行く。ゆるりと曲がりながら進む古街道然とした道路を歩いて行くが、南北に道を横切る水路や道沿いに伸びる暗渠の水路も多く現存する。それらの水流を分配する井関の水門もあちこちで見かける。条里制には区画に沿って縦横に走る水路は欠かせないという印象をさらに強くする。
上左:布忍の松原アーバンコンフォート前の大津道 同右上:微妙に曲がる大津道 同下:道沿いの井関 下左:道と直交する水路 同中:池中にある松原市民図書館「読書の森」、向こうは体育館 同右:イズミヤ前の大津道
500mほど行ったところの池に、要塞のような建物が現れた。「読書の森」と名付けられた松原市民図書館で、2020年に建ったという割には外壁のピンク色が煤け過ぎだ。この辺り一帯は大きなため池がいくつもあり、埋め立てられて松原中央公園となり、その中に文化会館も建つ。道路際にイズミヤ、その一角にピザハットがあって、ゆっくり座れてビールも飲めそうなので、普段はめったに入らないピザ屋でランチとする。26cmのマルガリータを注文、運ばれてきた時その巨大さに驚愕したが、何のことはないぺろりと全部いってしまった。70歳を超えてこの食欲、歩くとホントに腹が減るのだ。
水路の町・松原
乳飲み子が母の乳首をかみ切り死なせたという言い伝えがある「ちちかみ橋」や河内台地を南から流れ来て、本来西に流れる水を逆に東へ流し、阿保海泉池に水を集める堰樋、中門の堰樋跡など。ため池と田畑に流す水路、その水を分配する堰樋など、古代からの条里制が元となって水がネットワークされていた。水路の町・松原を象徴するように、市役所前の長尾街道の遊歩道にはわざわざ溝を掘って水を流している。大津道が通り、条里制が敷かれ、古代より生産と流通が盛んであった丹比・松原の町の記憶を忘れないようにするためのシンボルロードでもある。歴史を知らない人にとっては税金の無駄遣いと思えるかも知らないが、町の記憶をそのような形で伝えることは大事なことだと、老人になった今、そう思うのだが・・・・・・。
上左:ちちかみ橋の道標 同右上:水路の町のシンボルロード 同下:中門の堰樋跡モニュメント 下左上:中門の堰の水の流れの中に分量石が描かれている 同中:阿保茶屋の石碑広場 同下:河内松原駅に向かう中高野街道 同右:分量石の実物が中門の堰樋跡の道標になっている
官庁街を抜け、飲食店が建ち並ぶにぎやかな通りに入ってきたが、長尾街道と交差するのは中高野街道だ。江戸期には寺社巡りが盛んで、大津道(長尾街道)を通っていく葛井寺や伊勢参りをする旅人と高野参りをする人々で、この辺りは大いに賑ったに違いない。交差点付近には、宿屋や土産物屋、男の遊び場、阿保茶屋があったという。明治時代以降も、阿保茶屋は松原村の交通の中心地として、地域の記念碑や村内・街道を守る地蔵堂が立てられるなど、皆が集まる場所、コミュニティ広場だった。河内松原駅に向かう中高野街道には盛り場的な雰囲気が少し残っているようにも見える。さらに1kmほど先を行くと、仁徳天皇の子、反正天皇が開いた丹比柴籬(しばがき)宮があったとされる柴籬神社がある。仁徳天皇が高津の宮にいた頃、すでに難波から大和への道は想定されていたように思う。だからこそ子の反正天皇に丹比の地を与え、そこに宮を造らせた。そのことが代々天皇家に記憶されていて、200年たった推古天皇の時に飛鳥への官道、大津道と丹比道の建設が実現した、そんなふうに夢想するのだが・・・・・・。今回は時間がないので、柴籬神社には立ち寄ることができない。
住宅開発は池を埋める
さらに東に行くと、住宅開発にしのぎを削っているような、あちこちに不動産会社や広告看板が目に入いる。中でも「ハウスフリーダム 」という名が目立っていて、その名の大型マンションが建ち並ぶ一角もある。大企業ではなく、お手頃価格で細かい要望にも応えているような地元密着の会社のようだ。近年は都心志向が強いが、大阪市内は開発しつくされ、大阪市周辺の近郊に開発ブームが襲っている、そういうことだろう。この辺りは近鉄河内松原駅に近く、都心に出るのも便利で、人気が出ているのだろう。

上左:河内松原駅周辺の住宅開発を示す地図 同右上:不動産会社やその看板が林立する 同下:大津道沿いには埋め立てられた池が放置されている 中左上:住宅売り出しの看板 同下:大型マンションが並ぶ 同右:キリン堂や万代が建つ大規模開発地 下左:老人施設もある開発地 同下:阪和道の高架が道をふさぐ
阪和道の高架が見えだす頃、かなり大きな区画が開発されたのだろう、大型スーパーの「万代」と老人施設、戸建て住宅が建ち並ぶエリアがある。高校に通いだしてから60年近く近鉄南大阪線を使ってきて、河内松原駅手前の地域を車窓から見続けてきた。ここには大きな池が連続してあったが、1970年代には線路の南側では池を埋め立てイズミヤが建った。平成になる頃からだろうか、北側でも池の一部が埋められ、大塚高校の運動場に利用されていて、21世紀になってからだろうか、住宅開発されてきたのを車窓から見ていた。今、その場所を反対側、長尾街道側から見ている開発地域なのだ。すさまじい勢いで池がなくなっていく。

2020年ころの松原市ため池地図
松原市にあるため池は、昭和初期には133カ所あったのが、現在は37カ所に減っているとされる。100年間で100カ所もなくなったことになる。それほど激しく都市化され、近年では住宅開発及びその関連施設による埋め立てが主であって、ため池は希少価値になってきているのである。
条里制が敷けなかった地域
松原市の東側一帯には条里遺構があまり見られないのはなぜか。カシミール3D地形図上で大津道(長尾街道)沿いに西から東へ標高を見ていくと、海泉池辺りが20m程度でそこから徐々に高くなり、阪和自動車道周辺が一番高く24.5m、そこから東へアップダウンを繰り返しながら徐々に低くなる。東除川の手前で23mとなり、河川敷で18m、落差5mの急崖になっている。川を越えると20m前後の平坦地が続く。つまり、今ではどこも市街地化され平坦に見えるが、標高差5m程度の微高地に幾筋も侵蝕谷が入り込む複雑な地形をしていたとみられる。平面の水田が広大な面積で必要とする条里制にとって、この起伏の多い土地を開発するのは難しかった。また微高地の裾にため池が多数形成されるが、それは不定形のため池で、条里区画にあるような四角の池ではなかった。地形からそのように推測されるのである。


条里制が敷けなかった松原市別所・阿保・松ヶ丘・一津屋辺りの標高図(カシミール3D)と周辺の条里遺構図
大津道ありきの住宅地
阪和道の高架を潜ると風景は一変し、若干田畑が残るが、住宅が建て込む地域となる。大津道を境にして北側は松原市一津屋、南側は羽曳野市恵我之荘である。大正13年(1924)に大阪鉄道の河内松原~高鷲間に恵我之荘駅が開業され、郊外住宅地・恵我之荘が早くから開発されていて、歴史を経て落ち着いた住宅街の趣がある。緩やかに曲がる道路は二股に分かれるが、北側の道を行くと松原市立恵我南小学校の前に出る。大津道沿道では最後になるため池・西ヶ池があり、その東半分が埋め立てられ小学校となった。街道はこの池を避けるために大きくカーブしている。その先は右、左に小さくカーブしながら進むが、この町も大津道(中世以降の長尾街道)が先にありきで、古街道に沿いながら街並みが形成されてきたことが分かるのである。
上左・右:松原市一津屋・羽曳野市恵我之荘の街並み 中左上:住宅街を通る大津道 同下:一津屋にはまだ田畑が残る 同右:二股に分かれる大津道 下左:松原市立恵我南小学校 同中:たくさんの路地道と交差する 同右:緩やかに蛇行する大津道
重要文化財の吉村家住宅
道が下り坂になってきて、その先に橋が見えてくる。一昨年探検した東除川、それに架かる高鷲橋なのだ。雄略天皇陵の陵名を「丹比高鷲原陵」と言い、ここに高鷲橋があることにより一帯が高鷲原とされ、750mほど東にある島泉丸山・平塚古墳を雄略陵としている。昨年のブログ「雄略以後」で、近鉄高鷲駅が藤井寺駅の近傍で、高鷲原は藤井寺周辺までの広い地域を指し、雄略陵は藤井寺近くにあってもおかしくない(時代的にも)ということで現在の仲哀陵を雄略陵と推定したのだった。天皇陵治定にかかわるほどの意味深い名を持つ高鷲橋を渡ると、街道の北も南も羽曳野市に入る。

上左:下り坂の向こうに東除川が見える 同右上:東除川の上流 同下:高鷲橋 中左上:橋を渡ると長尾街道の説明板 同下:羽曳野市に入った大津道 同右:吉村家住宅の長屋門 下左:縦横に走る水路 同右:吉村家の入り口。重文の建物の手前に住宅が建つ
建造物としては羽曳野市唯一の重要文化財である吉村家住宅が街道付近にあるはずなのだが、道沿いには何ら表示がない。行きたい人はホームページなんかで調べて行きなさい、ということか?街道から一本北に入って、細い道を行くと入母屋造で茅葺の長屋門が見えてくる。本家は桃山期の書院造の建築様式を一部に留める代表的な大庄屋の民家ということだが、長らく羽曳野市に住みながらまだ訪れたことがなかった。今日は見学日でなく、ひっそりしている。表札には吉村と書かれていて、重文建物の横にごく普通の2階建て住宅がある。案内表示がないのは、今も吉村さんが住んでおられるので配慮されている、そういうことのようだ。
雄略天皇陵は丹比高鷲原古墳?
住宅は建て込んでいるが、あちこちに水路が張り巡らされていて、道路は街道と直角に交差する。東除川から東側は標高20m内外の平坦な土地で、安定した条里制が敷かれていたことが偲ばれる。そこを基盤に吉村家は大きな財を得ていたに違いない。住宅街が途切れた所に現れたのは大きな池だった。池の堤防でもある街道を少し歩くと、この風景は今まで何回か見ていることを思いだした。池の真ん中に樹木が繁る島は島泉丸山古墳で、5世紀築造の径75mの円墳。池を隔てて東にあるのが島泉平塚古墳で、一辺50mの方墳。これらが合体して前方後円墳を形作り、雄略天皇丹比高鷲原古墳とされているのだ。こんな継ぎはぎの形じゃ雄略さんがかわいそうだ。円墳と方墳には別々の人が葬られているという解釈で良いと思う。そして藤井寺の仲哀天皇陵が雄略天皇陵だと、そう認めても良いのではなかろうか。池に映りこむ古墳の風景を楽しみながら、どんどん東へ進む。
上左:島泉の町中には田畑がある 同中:道沿いの堰と水路 同右:島泉の大津道 中左:雄略天皇陵が水面に映える 同右上:池(濠)沿いのカーブする道を行く 同下:雄略陵の入り口 下左:水面に映る島泉丸山古墳 同右:拝所から見る雄略陵
古市大溝と大津道が交差する
安養寺と墓地があり、私も通った藤井寺自動車教習所、府営住宅のマンションと続くが、この間の道路沿いには水路が走り、また道を潜って北方へ水路が流れ、津堂城山古墳がある津堂地域の低地に流れ込む。ブログ「MY古代史探検・古市大溝を探る」の時、石川に架かる河南橋付近の取水地点から富田林市喜志、羽曳野市の東阪田、西浦、白鳥陵、古市大溝発掘現場跡、古市古墳群周辺を縫ってこの辺りまで来たことがある。この土地を見て、津堂(=港が寄り集まる大きな湖)が古市大溝の流れ込む終着地だったと推測した。港のような形跡は何もないが、津堂という地名と縦横に走る水路が大溝を夢想させるのだった。今回の探検で知った、大津道が官道としてこの地域を東西に通っていたことを付け加えるなら、古墳築造の用材や大陸からの物や人を運ぶ運河である古市大溝と堺の港と大和を結ぶ大津道が交差して、経済的にも文化的にも河内という地域を大いに繁栄させた、そのように言えるのではなかろうか。


上左:羽曳野市北岡には太い水路が走る 同右上:安養寺そばの墓所 同下:大津道沿いの広い水路 下左上:大津道沿いの水路にあるポンプ 同下:津堂地域(2021年9月撮影) 同右:津堂に流れ込む古市大溝の地図(ブログMY古代史探検「古市大溝を探る」より)
ニチバンの工場がない
津堂を過ぎると、岡とか小山という町名が付く地域なのだが、際立って高いところがないように思える。ここは羽曳野丘陵の北端部で標高20m~22m程度。古代人にとって、14~15mの津堂や大和川の辺りから見ると、岡とか小山に見えていたのだろう。住宅街の中をまっすぐ進んで行くと、何やら以前に見かけた風景に出合う。街道は斜め右に南北の道を横切ることになるが、その角が工事中なのだ。のんびり散歩しているおばさんがいたので、「ここは以前ニチバンの工場でしたよね」と聞いてみた。よくぞ聞いてくれたと、待ち構えていたようにいろいろ教えてくれる。ニチバンがすべて売り払いマンションと老人施設、その周りを公園にするんや、老人施設になったら夜になっても救急車が呼ばれたり、うるさなるのがカナンね、ニチバンは化学薬品を使っていたので、今地盤改良工事しているとか…。藤井寺駅まで5~600mだから、マンション住人にとっては便利だろうけど。

上左:大津道は南北の道を横切る 同右上:ニチバン旧大阪工場跡地沿いに進む 同下:地盤改良工事中の元ニチバン 中左上:古代大津道を探して古い道を行く 同下:二股道に出合う 同右:「右いせ」の道標、大津道と別れて右に長尾街道 下左:古代大津道と長尾街道の地図(カシミール3D) 同中:住宅街の中の畑 同右:2階建て文化住宅?が建つ
工事囲いに沿ってさらに東に住宅街の中を進むと突き当りになり、そこに「右いせ」の道標が立っている。さて、と休憩しながらこの先をどう行くか検討してみた。右へ行けば、いわゆる「長尾街道」に進み、江戸期盛んだった伊勢参りの道になるわけだが、今回はあくまで官道としての大津道を探求することが使命である。真直ぐは行き止まりだし、伊勢にはいかないので、まずは左へ曲がり、東へ向かうできるだけ古い道を探さなければならない。住宅地を左、右に折れ曲がりながら進むが、これらは昭和になって住宅地開発の時に付けた道で新しく、古代からの大津道はすっかり消えていると言うしかない。
田畑の中を大水川
ジグザグと道を繋いでいくと西名阪道の高架下を潜ることになり、抜けると一面に田畑が広がる。そこを横切るように大水川の水路が付いている。古市大溝の分流である大乗川が応神天皇陵にぶつかり、西側に迂回してつながるのが大水川で、その先は大和川に配水される。古代からこの辺りの用水路はいずれも石川から取水する古市大溝とどこかでつながり、周辺田畑を潤し、付け替え前の大和川と平行に流れながらそれに流れ込むという経路を作っていた。
上左:田畑を横切る王水川の水路 同右上:西名阪道の高架を潜る 同下:羽曳野名産のイチジク畑が広がる 下左:大井水みらいセンター 同中:同センターの入り口 同右:外環状線に突き当たる
王水川に沿って、大和川に流入する石川の流域を処理区とした流域下水処理場「大井水みらいセンター」がある。下水処理場だけでなく、メガソーラーで電気を作り、ふれあい広場という公園もあるという一挙三徳の施設なのだが、その存在すら知らなかったなあ。この南側を真直ぐ東に行くと、国道170号の外環状線に突き当たる。外環周辺は近年計画的に開発されており、直線道路が交差するばかりで何の面白味もない。外環を渡り、藤井寺市民体育館やテニスコート、グランドの南側を通り、国府遺跡に向かう。
志貴縣主神社
旧の国道170号線の惣社交差点を越え建売住宅が並ぶ真直ぐな道を歩いて行くと、南側に一段高い丘のようなところが見える。坂を上って行くと古そうな家が並ぶ旧村の惣社で、その真ん中に志貴縣主(しきあがたぬし)神社(河内国総社)があった。県主というのは大化改新以前の「県」と呼ばれる朝廷の直轄地で、地域の支配者「県主」が朝廷に奉仕するという形でこの地を統治していた。物部氏の登場以前、国造や伴造よりも古く、3~4世紀(古墳時代初期)に成立したとされる。河内には、志貴(志紀)県主、三野県主、大県主、紺口県主と4つもあり、河内は朝廷直轄地として重要視されていた。志貴県主は神武天皇の皇子で、第2代綏靖(すいぜい)天皇の同母兄とされる神八井耳命(かんやいみみのみこと)を祖とし、志貴縣主神社はこの地に河内国府が設置された時に創建されたと考えられる。
上左:惣社の村への上り坂 同右上:外環状線からの真直ぐな道 同下:途中に道明寺中学校がある 下左上:惣社の村中の道 同下:志貴縣主神社入り口の鳥居 同右:志貴縣主神社本殿
河内国の政治的中心地=国府
国府遺跡は、羽曳野丘陵の東北端、応神陵が位置する誉田断層の北端部の丘陵地にあり、古代には石川と合流した大和川が流れ行く広大な河内平野が望まれる自然の要塞でもあった。太古より人が住み着き、旧石器時代から中世に至る集落遺跡を形成していた。縄文時代から弥生時代の人骨が計90体検出され、飛鳥時代には衣縫(いぬい)廃寺が創建され、五重塔の塔心礎は「義侠熊田氏之碑」の台座の一つとして史跡内に残り、国史跡に指定されている。奈良・平安時代には河内国府が設置され、河内国の政治的中心地であったと考えられる。

上左:国府遺跡周辺の標高図(カシミール3D) 同右上:国府遺跡から北東、生駒山地を見る 同下:広場のグランドでサッカーをする子どもたち 下左:義侠熊田氏之碑の台石には衣縫廃寺五重塔の塔心礎が 同右:大正8年に大阪府が立てた標柱「國府遺跡之碑」
律令制度が整備される中、主だった官道はここを経由することとなった。大津道もその一つで、志貴縣主神社の北側(南側とする説もあり)を東西に通っていたとされる。その後、今は石川堤防沿いに開かれた住宅地、藤井寺市梅が園町のもっとも北の通り「十二番通り」に達するのだろう。京・河内・高野山を結ぶ南北に通る官道の東高野街道がこの堤防上を通っていたとするなら、その交差点は十二番通りが突き当たる堤防上にあったとみることができる。それ以後は、船橋村にあった港から石川東岸へ船に乗って柏原に着く。柏原からは大和川沿いに竜田道、南に向かうなら田尻峠を越え二上山の北側を回り當麻寺、竹内街道と合流して長尾神社に至る。竜田道を行くなら、斑鳩・法隆寺、さらに大和平野を斜めに突っ切る斜向道である太子道を行き、山田道から飛鳥に行くことができる。平城宮以前、7世紀から8世紀にかけ、いずれの官道も飛鳥宮をめざす街道だったのである。

上左:古代大津道と東高野街道の地図(「風土記ふじいでら」より) 同右上:梅が園町十二番通り 同下:十二番通りの行き止まり 下左上:国府八幡神社 同下:允恭天皇陵後円部 同右:土手の上を近鉄電車が走る
水運についても、この地域は大和川に接しており、北へ下れば難波の都へ、東に上れば大和の国へと通じていた。国府遺跡の北方にあった船橋村は、国府で利用された津(港)の名残ではないかと言われる。国府が置かれるには、とても都合の良い場所だったのだ。大津道の名の由来は、羽曳野市高鷲にある大津神社の近くを通ることによるとか、出発点である堺の地に榎津(榎名津)の港があり、それがかつて大津と呼ばれたためとも言われる。一方、大和川と石川の合流点である船橋付近が6世紀ころ川津として栄え、大津と言われる時期があった。官道の古代大津道はあくまで河内国府への道であることから、船橋の大津をめざす道であったという理由が「大津道」の由来に最もふさわしいように思うのだが・・・・・・。布忍から歩いてきて15㎞、いささか疲れた。棒のような足を引き吊りながら、国府(こう)の町中を歩き、国府八幡神社、允恭天皇陵の後円部を回り、近鉄土師ノ里駅に向かうのだった。(探検日:2025.3.31)