秦による統一
秦は周代・春秋時代・戦国時代にわたって最も西の国の一つとして存在し、周辺諸国と勢力争いを繰り返してきたが、紀元前221年、中国の歴史において初めて全土を統一したのだった。秦始皇帝は軍事力による統一だけでなく、度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。咸陽宮殿が手狭となり、阿房宮という広大な宮殿や秦始皇帝陵の建築も行った。これらの建設に大量の農民や囚人を使役させ、思想政策や儒教弾圧なども加えたことにより全人民の不満を高めてしまい、反乱の芽を育て紀元前206年、秦は劉邦により滅ぼされた。


左:統一前の諸国(紀元前260年)の群雄割拠 右:統一以降の秦の勢力範囲
版築基壇に上る・・・秦咸陽宮遺跡
雨上がりのわずかの晴れ間に秦の宮殿、咸陽宮の遺跡を訪れる。だだっ広い草地が広がっているのが遺跡公園で、その端に宮殿築造の歴史や施設の説明展示がされている博物館がある。西安からは渭水を隔てて北側にあること、渭水が造る西安湖などのロケーションを頭に入れ史跡を歩いてみるが、全く位置関係がわからない。二号宮殿、右に逸れ三号宮殿、元に戻りさらに歩いて行くと一号宮殿と標示があり、大きな土盛が見えてくる。これが1号宮殿の基壇で、すでに2000年以上も雨ざらしにされているのにしっかり形が残っている。石灰分を多量に含んだ微粒子から成る黄土が堆積した黄河流域では、この黄土を強く突き固めながら徐々に高く構築する「版築」という工法で、堅固な土塀や建築の基礎部分が造られてきた。一号宮殿基壇には誰かが上った筋道が付いていてその後を行くが、5~6m程度の高さがあろうか、頂上部分はしっかりしていて、版築の頑丈さが足元から伝わってくる。



上左:秦咸陽宮遺跡一号宮殿の基壇 同右上:遺跡は渭水を隔てた西安の北方にある 同下:遺跡に向かうツアー一行 中左上:秦咸陽宮は800m×1000m程度だったと推測される(グーグルアース) 同下:二号宮殿跡には使用されていた下水管が並べられていた 同右:段築の基壇に上る 下左:基壇上から 同右:段築工事の作業風景の模型(秦咸陽宮遺跡博物館より)
基壇上からその先、東側を見ると、谷が基壇を突っ切るように走っている。基壇を造るのに、平地を掘り込んでその土を版築に使ったので谷になったと思ったが、後に咸陽博物館に行って、復元模型や平面図を見ると、西側にも同様の基壇があるのがわかった。つまり、両側の基壇間にブリッジを渡し、その下を通り宮殿内に入って行くという構造になっているのだった。基壇の間の通路だったものが2000年の間にえぐられ谷になってしまった、そう考える方が理にかなっているように思う。


上左:一号宮殿西端にできた谷筋を見る(基壇間の通り道だったか?) 同右上:秦咸陽宮殿(一〜七号宮殿など)の平面図(咸陽博物館の展示より) 同下:一号宮殿の東側基壇部分と西側へのブリッジ(基壇間の谷間)を描く(咸陽博物館の展示より) 下左:一号宮殿の復元図(東西の宮殿の間は空いている・秦咸陽遺跡博物館展示より) 同右:一号宮殿の側面図(Bai du 百科・部分)
咸陽博物館
咸陽は秦始皇帝時代の都で、西安から渭水を渡って北西に25㎞ほど行った所にある。旅のガイド高さんが何度も説明してくれたのだが、地名の由来は、風水において「陽」が山の南側、川の北側を指すことから、北に九嵕山、南に渭水を控えるこの地が「ことごとく陽」に当たることから咸陽となったと。陰陽の地名は日本でも中国山脈の北側は山陰、南側が山陽と言ったことに見られる。咸陽博物館は、明の時代に建てられた、儒教の創始者である孔子を祀る孔子廟の跡を活用して1962年に開館した。秦と漢時代の文物を展示する博物館で、秦代の兵器、度量衡、生活用具をはじめ、咸陽一号宮殿や三号宮殿から出土された文物、漢時代の文物や墳墓から出土した彩陶の兵馬俑などが展示されている。漢の時代の咸陽は西方、北方に通じる交通要所であると同時に、前漢の王室の陵墓区、つまり日本で言う奥つ城の地であって、前漢の11皇帝のうち9皇帝が咸陽に葬られた。咸陽の地上・地下には秦~漢代の文物が数多く残されているという。
上左:咸陽博物館入り口の門 同右・下右:博物館付近の歩道にある人物彫刻 下左・中:元孔子廟だった博物館の中国風庭園
秦統一から太古の絹布まで
元孔子廟ということもあり、また雨にも濡れて厳かな雰囲気がある中国風庭園を通りながら建物に入って行く。秦統一までの戦いの歴史をさまざまなパネル、CGや映像で見せてくれるが、すべて中国語のため具体的なことはわからない。なるほどと感じたのは、秦の宮殿の下水管。それはシャワー室につながる太い土管で、皿に溜った水はこの土管を通って流れていく。先の秦咸陽宮遺跡で考えた一号宮殿やその基壇の復元模型などもここにあった。基壇の上には豪壮な宮殿が建設されていたのだが、紀元前3世紀代のこの頃、日本では竪穴住居や掘立小屋の弥生時代。中国では、こんなことがよくできたものだと感心するばかりだ。

上左:シャワー室からの下水管 同右上:秦が統一するまでの諸国との戦いの経路 同下:秦咸陽宮一号宮殿の復元模型 下左上:青銅器の武具類 同下:青銅の塊に彫られている文(秦統一前の篆書体(てんしょたい)の文字か?)
シルクロードを伝った2000年前の絹布の現物、黒化しているが衣地の柔らかさはまだ感じられる。この時期にはまだ鉄が出ていなく、武器や道具はほとんど青銅器製だった。建物の軒瓦の模様についてちょっと考える。日本の博物館でよく見る飛鳥宮や古代寺院の瓦は、蓮華紋や唐草紋のように厳密な繰り返しをする造りで、その伝来については小難しく考えてしまう。ここにあるのは、日本への影響関係もなさそうな原点的な模様で、紀元前の大らかさを感じて気楽に見ることができるのだった。
上:秦咸陽宮殿の軒瓦の模様はシンプルで愛らしい 下左:床タイルの模様 同右:素朴な人・動物形の土器
漢の兵馬俑
咸陽博物館のもう一つのテーマは前漢の時代。前漢の兵馬俑は、秦の時代のように等身大の兵馬俑を埋めることでなく、せいぜい50cmの高さの人形のようなもので、その数30万点も埋められていたという。展示では3000体ほどが整列していて、目を近づけて見ていると圧巻である。個々の兵士の表情もよく伺えて、親しみを感じる。個々の表情を見ていきながら、私に似た顔はないか探していくのも楽しかった。
大きさ50cm程度の兵馬俑。着色がわずかに残り、それぞれの表情がみな違う
阿房宮
秦始皇帝は咸陽の宮殿が手狭になったため、渭水を挟んだ南側に新宮殿・阿房宮の建設を計画し、紀元前219年に着工した。始皇帝の死後も工事が続いたが、秦の滅亡により未完のままに終わった。あいにくの雨の中、傘を差しながら阿房宮の前殿遺跡を訪れたが、そこには小高い丘が広がるばかり。秦咸陽宮遺跡でも見たが、秦や漢の宮殿は基壇に乗っていることが普通で、阿房宮も高さ7〜10mの基壇があったという。阿房宮前殿では版築の基壇が、なんと1200m×480mの広さで築かれていたという。建物はないがその広大な基壇が残っていて、史跡前広場から伸びる緩いスロープを行くと基壇上に行き着く。一帯は植林され、果てしなく森が続くが、ここに様々な宮殿の建物が造られ威容を誇っていたのであろうが、そんなことは想像だにできない。


上左:阿房宮前殿遺跡が広がる 同右:秦咸陽宮と渭水を隔てその南側に阿房宮を造った 同下:スロープを上り基壇の頂上に行き着く 下左:基壇上には森が広がるばかりである 同中:基壇は改造され、なだらかなスロープになっている 同右:広大な阿房宮前殿遺跡を上空から見る(グーグルアース)
農民や囚人70万人余りが動員されて、阿房宮と始皇帝陵の建造に当たらせた。無謀ともいえるこの二つの建設が秦の滅亡を導いたと言われるが、日本の大古墳築造時代はどうだったのか。仁徳天皇のように民のかまどを心配して減税したり、古墳の造営は農閑期に限ったとか、手間賃が支払われたとか、できるだけ民の負担を減らそうとした。人民を人間とみない秦始皇帝のあまりの惨たらしさに比べ、我が皇帝は慈悲深く思えるのだが……。
漢字の始まりは秦から
遺跡広場に漢字が書かれたタイルを敷き詰めた一角があった。その文字は、秦の始皇帝の時に定められた小篆(しょうてん)と呼ばれる書体で、史記「始皇帝本紀」の一節が書かれている。小篆の簡略体が隷書で、漢の時代に用いられるようになり、さらに楷書体、行書体がつくられ、現在の漢字になったという。
左:小篆書体の文字が書かれたタイル広場 右:史記「秦始皇本紀」の一節が掲載されている
殷の甲骨文字などは支配者の専有物であり、王室から賜るものだった。戦国時代には文字は地域ごとに独自の発達をしたが、秦の始皇帝が初めて文字の統一をした。国を統一することは全領土を武力で支配するだけでなく、全国に行き渡る道を付け、度量衡を統一したり、何よりも文字の統一が最重要事項なのだ。これにより皇帝の意思を明確に伝え、思想の統一を図るとともに反政府勢力を排除することもできた。漢字の元は秦始皇帝が統一した小篆の文字だということをささやかにアピールする広場でもあった。(「秦の時代」後半・秦始皇帝陵および兵馬俑坑博物館へと続く)