西安の旅は、陝西省から河南省函谷関(かんこくかん)へ。函谷関からの西側を関中と呼び、代表都市は長安、東側を中原と呼び、その中心は洛陽だった。この2大古都を繋ぎ、また遮ることもできる所が函谷関だと言える。

西安市から函谷関へはの高速道路(G30)を走る。驪山・秦始皇帝陵・崋山・黄河・函谷関・三門峡へと続く。
西安から東へ200km、函谷関へ
函谷関から西安までの東西線は秦の統一、さらに漢による秦滅亡まで、最も重要な軍事線でもあった。西安市内からおよそ200kmの道のり。高速道路をひたすら走りながら遠くに見え隠れしていたのが秦嶺山脈で、2時間ほどたった頃、車窓から三角帽子の連山が迫ってきた。秦嶺山脈の東端に位置する、中国五名山の一つ華山だ。最高峰である南峰(2154m)、北峰(1614m)、中峰(2037m)、東峰(2096m)、西峰(2082m)の5つから成る。数年前行った桂林でも見たような全山花崗岩でできていて、雨水に侵食され峩々たる山容になっている。仙人が住む山として道士たちが修行のために登ったという霊峰だ。函谷関とともに老子ゆかりの土地で、道教の聖地とも言われる。今は、世界最長と言われる4211mのロープウエイで一気に山上まで行ける。修行の地を誰でもが楽しめる観光地にしてしまう、これが現代中国の圧倒的技術の成果というものだ。
上左:ドライブインにあった崋山の説明看板 同右上:秦嶺山脈遠望(帰りの高速鉄道から) 同下:牛肉以外の何でもありのランチ 下左:バス車窓からの崋山 同右:高速道路沿いを流れる黄河
ドライブインで円卓を囲んで中華料理のランチ。野菜ふんだんで、魚あり鶏肉ありの豪華版だが、チンタオビールはここでも3%程度の薄味だった。しばらく高速を走ると左側に、ゆっくり流れる黄河が見渡せた。地球が出来上がってから手付かずの黄色の大地を流れるままに削って流路とした、自然の驚異を思わせる滔々たる流れである。山、谷を越えながら漸く函谷関に到着した。
函谷関の戦い
渭水盆地の台地には東西方向に狭い隘路があり、その隘路を西方向に抜けると黄河南側に出てきて、その先は高い山地はなく、西へ進むと関中、さらには西安に行き着けるのである。隘路を西方向に進めないように、谷地形の道を遮る構造で関所を設けた。それが函谷関であり、戦国時代から関中に侵入する敵軍を秦の最東部で食い止める役割があった。

上左:渭水盆地の台地には東西方向に狭い隘路が何本も走る 同右上:漢統一前の項羽と劉邦の進軍経路 同下:渭水盆地の台地 下左:函谷関の東門楼の先には隘路を挟んで崖が続く(函谷関説明ジオラマ) 同右:函谷関周辺の台地と川の風景(函谷関説明ジオラマ)
秦の時代を通じて、人民を苦しめる秦の悪政に反抗する勢力が次々現れる。楚・趙・魏・韓・燕などの合従軍と秦は何度も闘うが、その都度東の国境・函谷関の戦いになり、合従軍の敗北に終わっている。その後も秦に対する闘いは続くが、徐々に反抗勢力が絞られてくる。楚を中心とする軍が天下を取るとみられてきた頃、それに敵対する漢が現れ、最終的には楚の項羽と漢の劉邦の戦いとなる。紀元前207年、倒秦に立ち上がった楚の懐王は、関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。劉邦軍は南回りに進み、南陽から武関を攻略、長安の南東方向の覇上に駐留すると秦は降伏し滅亡した。劉邦は関中に入り、函谷関に守備兵を派遣した。後れを取った項羽は翌年、函谷関に到着すると劉邦がすでに咸陽を陥落させたと聞いて大いに怒り、函谷関を破り燃やした。その後咸陽の東、始皇帝陵北部の鴻門に布陣する。
史跡公園・函谷関
現在の函谷関は、黄河に注ぐ川沿いの広大な敷地を造成して史跡公園にすると同時に歴史観光の名所にもなっている。南側の門前の広場に集合して、入場すると同時にカートに乗せられ、復元された東門楼のある函谷関へと連れて行かれる。広場の真ん中に立つと、東西にまっすぐ軸線が通っていることに気付く。東から西へと敵軍が攻めて来て、そのままドン付きの関所へ向かはざる得ないようなロケーションになっている。敵軍が攻めてきたような道順で紹介しよう。


上左:函谷関入り口の門 同右上:函谷関史跡公園全体パース 同下:ゲート前広場で遊ぶ幼児が可愛い 下左:東門楼から東へまっすぐ伸びる軸線の先に橋が見える 同右:西に向かうと東門楼へ
東側の門外には小高い岡が続くが、そこからは一直線に関所をめざすことができる。老子は牛の背に乗って西方に向かったが、函谷関を過ぎる時、関守の尹喜の求めに応じて五千言の書を書き上げた。『道徳経』と呼ばれるが、その一字一句を書き込んだ歩道がある。川に架かる橋を越え、関所前の広場から西へと徐々に上って行く。上って行くに連れ道幅も狭まり、関所の東門楼に導かれるように入って行く。
上左:東側から橋を通して東門楼が見える 同右上:東入口から函谷関を眺める 同下:孔子「道徳経」が書かれた遊歩道 中左上:川下の北側の風景 同中:川上の風景 同下:牛に乗る孔子像 同右:東から西に吊り橋が架かる 下左上:函谷関に向かうツアー客一同 同下:東門楼前広場 同右:堂々とそびえる函谷関東門楼
関所を越えると道の両側に崖が迫り、谷道の隘路をさらに西へ西へと進ませる。そこを崖の上方から弓矢や石などで攻め、敵方を一網打尽にするのである。実際に門をくぐってかなり先まで行ったが、両側が崖で囲まれた山道を行くだけである。隘路は最も細いところで2m程度しかないという。こんな戦法で敵からの攻撃を何度もかわしてきたのも納得がいく。
上左:函谷関東門楼の上 同中上:西側から見た東門楼 同下:門をくぐり函関古道を行く 同右:さらに行く 下左:だんだん狭くなる 同中:西門が見える 同右:西門の上からさらに西へ続く隘路を見やる
「鴻門の会」を見る
劉邦軍は咸陽を抑え秦が滅亡したと言えど、項羽軍は劉邦軍に比べて兵力のみならず勇猛さでも圧倒的に上であった。鴻門に陣を張った項羽は劉邦に謀反の罪を問い、明日にでも劉邦を征伐しようと議論していた。劉邦は部下の進言を受け入れ、項羽の鴻門の陣営へ謝罪をしに行く。後に言う「鴻門の会(鴻門宴)」が行われることとなった。「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。函谷関に兵を置いたのは盗賊と非常時に備えたものです」。劉邦の釈明を受け入れる格好になった項羽は、劉邦を討つ大義名分を失う。ここで劉邦を討てなかったことが後の敗北につながったと言われる。「鴻門の会」は最大の危機であったが、劉邦は臣下の進言を受け入れて行動し、臣下もまた身命を賭して主君の危機を救った。対照的に、実力があり自信もあったが故に臣下の進言を聞かなかった項羽は、その後の破滅を招く事となった。「鴻門の会」が、単なる暗殺未遂事件としてだけでなく、長としてのリーダーシップの在り方、相手の意図を見抜く力、さらには信頼関係の重要性を教える歴史的なエピソードとしても知られる。「鴻門の会」「四面楚歌」などの教訓は、高校の漢文の授業で習った気がするが、「鴻門の会」の現場へ行ってみようとするのである。「四面楚歌」は、項羽・劉邦の最後の決戦「垓下の戦い」の時で、もっと東方、楚の国での出来事だった。


左:西安市中心部から見た鴻門宴遺跡や覇上、咸陽宮の位置 中:鴻門宴遺跡の石碑 右:漢は西楚まで迫り、国境付近の垓下で最後の戦いが行われた(HP「中国語スクリプト」より)
秦始皇帝陵の北側4㎞ほどの所にあるが、寂れた田舎町の一画に、「鴻門の会」の宴会場面の復元やエピソードの解説などをする博物館があった。あまり人が訪れていなさそうで、故障個所の修理も行き届いていなく、ほったらかしの感じがある。「教訓」を教わるのは、中国でもあまり人気はないのだろうか。

上左:左側が項羽、右側が劉邦 同右上:鴻門宴遺跡入口 同下:鴻門の会に参加した両軍の銅像 下左上:遺跡付近の家並み 同下:前漢長安の位置。渭水を挟んで咸陽宮の南側、唐の長安の北側にあった(ウィキペディアより) 同右:鴻門の会の宴会場面を再現して展示
秦を滅ぼした劉邦は、鴻門の会以来、漢中と巴蜀を治めたが、いよいよ決戦の時が来て紀元前202年、垓下の戦いで項羽を撃って漢として統一したのだった。漢は当初洛陽を都としたが、再び関中に戻って遷都し、長安として新たに都城を建設した。都城は現在の西安北西の郊外にその遺跡を見ることができる。劉邦の開いた前漢(BC202~AD8)と劉秀により再興された後漢(AD23~220)を合わせると漢王朝は400年以上も続いたことになる。秦王朝が短命で滅びたこともあり、中国の統一状態を実質的に確定したのは漢王朝とみなされることとなった。