『日本書紀』の推古21年(613)11月の記述に「難波より京に至る大道を置く」とある。通説では、難波宮から真南に延びる「難波大道」と、それに直交する竹内街道を経て、飛鳥に至るルートとされるが、それに異議を立てる人がいる。柏原市立歴史資料館の安村俊史館長だ。推古朝の大道とは、難波津から四天王寺への道、そこから八尾の渋川を経由し柏原へ至る斜交道の「渋河道(しぶかわみち)」であるという。


左:四天王寺から柏原までの渋河道ルート(柏原市HPより、文字を大きくするなど一部改修) 右:大和・河内の古道(岸俊男制作(1970)より、一部改修)
難波大道は難波宮以後
古代宮都研究において指導的役割を果たしたとされる岸俊男氏は、その「大道」について難波宮からまっすぐ南へのびる道路と、それに直交する竹内街道のこととした。しかし、大和川今池遺跡の発掘調査で「難波大道」とされた南北道は確認されたものの、その後の調査で「難波大道」の設置は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(前期難波宮、652~)の造営時期である7世紀中頃以降であることが判明した。推古朝の7世紀初頭に設置された大道とは違うことがはっきりしたのだった。
推古朝の大道とは
推古朝の大道以前には、難波から飛鳥へは大和川を上る舟運が主要ルートで、推古16年(608)に隋の裴世清が小墾田宮に推古天皇を謁見したのはこのルートだった。裴世清は難波に一カ月半滞在し、船で大和川を上り大和の海石榴市で出迎えられ、そこから山田道を使い飛鳥の小墾田宮へ向かった。しかし大和川は水深が浅く、大和・河内国境の亀の瀬を舟で通過できずに陸に上がって峠越えしなければならないなど、水運には不向きだった。使節団などの来朝を機に、陸路の整備が緊急の課題となったが、同時に政権にとっては公的施設や官道など国内インフラ整備をはじめ、新たな国づくりが進められた。直線的な道路を指向しながらも、正方位への意識はなく、また精確な測量技術もまだなく、斜方位に延びる道路になったのだろう。推古21年の「大道」として整備した官道は、大和川に沿ったルートに設定されたのは、ごく自然な成り行きだった。


左:裴世清が小墾田宮まで行った大和川ルート(柏原市HPより) 右:推古朝の大道、渋河道・竜田道・太子道(柏原市HPより、文字を大きくするなど一部改修)
今回は、安村先生の説に乗っ取り、渋河道とされるルートを実際に歩いて、古代の大道の意味について考えてみたいと思う。
