葛城、大和平野南部に点在する神武天皇、欠史天皇の宮跡と陵墓。1=神武天皇、2=綏靖天皇、3=安寧天皇、4=懿徳天皇、5=孝昭天皇、6=孝安天皇、8=孝元天皇 〇・・・宮跡 ▢・・・陵墓
はじめに
②欠史8代天皇の宮跡と陵墓 葛城一族には、まだまだ掘り起こせない事柄がたくさんある。その一つが、葛城王朝、つまり神武天皇以来の歴史的事実が認められないとする、いわゆる「欠史8代天皇」の足跡である。しかしながら、2代・綏靖(すいぜい)、3代・安寧(あんねい)、4代・懿徳(いとく)、5代・孝昭、6代・孝安、7代・孝霊、8代・孝元、9代・開化までの各天皇の宮と陵墓が言い伝えも含めて史跡として認められている。当然初代の神武天皇も含め、宮跡の石碑が立ち、墳墓がそれぞれ存在する。今回は、パート1・パート2の2回に分けて、これらを辿ろうとするのである。我が家から行きやすいルートで行くとして、近鉄南大阪線、吉野線、御所線、JR五条線などの沿線に点在する。
<part 1>
安寧・懿徳・神武・綏靖・孝元の各宮跡、陵墓を巡る。
安寧天皇の宮跡と高田の町
まず、第3代安寧(あんねい)天皇の宮。近鉄南大阪線の高田市駅で下車。この線は何十回と通っているが、高田市駅で降りるのは2回目。急行も停まり、今や完全に大阪のベッドタウンになっているが、昔は大坂と大和を結ぶ街道筋で発達した中継地の商業町だった。駅前商店街が健在だがそこに入らず、北へ行くとすぐに目的地、岩園坐多久虫玉(いわぞのにいますたくむしたま)神社があり、道路に面した玉垣の間に安寧天皇の片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)碑が見つかる。近在に静御前の生まれた里があるという立派な神社だ。
あっけなく宮跡が見つかったので、時間を持て余す、というほどの計画はないのだが、せっかくなので周辺をぶらぶらする。駅から少し離れると立派な邸宅が並ぶ旧市街地があり、かつては大和木綿の生産、加工、販売で栄えた町で、内本町、南本町といった商家町の名も残っている。半分くらいは建て替わっているだろうか、新・旧の住宅が隣り合わせに建つが、違和感がなくきれいな街並みをつくっている。新しい家も手間をかけた上等だからだろう。と、何か爽やかなメロディが耳に入ってくる。宮城医院の看板がかかる近代ビルが建つ前の街路灯にスピーカーが取り付けてあり、そこから流れてくる。毎日、ミナミの商店街雑踏のにぎやかすぎる音に慣れている者にとって、同じ商店街とは思えない、この爽やかさにうっとりする。行きかう人達も気持ち良くあいさつもできそうで、行儀正しくなるだろうなあ。
また近鉄電車に乗り、坊城(ぼうじょう)駅下車。一つ手前の駅は「浮穴(うきあな)」と言い、不思議な、ちょっとエロいと思っていたが、安寧天皇宮「片塩浮孔(穴)」に由来するのだな。そこから東へ行き、住宅地を過ぎると田畑が広がり、その彼方に広大な橿原運動公園が見えてくる。野球場、サッカー場、広場、テニスにプールと何でもありーのスポーツ広場。この辺りは田畑を潰せばいくらでも土地がある。こういう施設の充実で秒を競うアスリートが輩出するのか、0.5秒のために大きな農業生産が犠牲にされている、これは許されることか?と憤っても仕方ないわな。と間もなく女子駅伝がスタートするようだ。今日日の子は恵まれているというか、施設でしか運動できない。野山を駆け回って体を強くする、そんなことができない‥‥。またもや年寄りの愚痴でしかないか、と悟るのでもある。
畝傍山周辺の陵墓
スポーツ広場の向こうに見えているのが畝傍山というのは分かっているのだが、その手前に被さって、丸い形のやや濃い緑をしているのがめざすべき第3代安寧天皇陵だ。円墳のようでもあるが、近くに寄ってもどんな形の古墳か見分けがつかない。古墳に近接する家並みの間を過ぎ、反対側の道路に回るとこの陵墳の拝所があった。そこを過ぎてさらに進むと、デーンと大地に横たわる牛のような大きな緑の塊が現れ、前方後円墳であることがわかった。正式名は「畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)」だが、地元の俗称では「アネイ山」と呼ばれる。どの説明書にも大きさとか発掘物などの古墳情報がない。これから見て行く欠史の天皇陵はいずれも宮内庁管理だが、同様に情報が一切なく、このあたりが欠史たる所以であるのか、謎に包まれている。
山に囲まれた道を少し行くと第4代懿徳(いとく)天皇陵「畝傍山南繊沙渓上陵(みなみのまなごのたにのえのみささぎ)」。拝所である正面はよく手入れの行き届いた松が数本うまく配置され、瀟洒な風景を作っている。正面左側には元濠だったのか池があり、今は灌漑用ため池に使われているようだ。外側から覗くと陵墓の回りに人一人通れそうな小径があり、たどって行くとぐるっと一周できた。前方後円墳か?墳丘長100 mは有に超えているだろうが、ここにも説明がない。
この一帯は畝傍山周辺。ということは橿原神宮があるわけで、お参りする当てもないが、ちょっと寄ろうか。七五三でたいそうにぎわっている。幸せそうな家族の風景をしり目に、境内を横切り北神門をくぐり、鬱蒼とした林に囲まれた北参道を抜け、神宮公苑線の太い道に出る。車がビュンビュン走る道を500mほど行くと、左側に神武天皇「畝傍山東北陵」への入り口がある。そこからさらに300 mほどの山道を回ると、こんもりした森をバックに拝所を示す木の鳥居が見えてきた。厳かさを演出する絶妙のアプローチである。円丘とされるが四角い古墳にも見える。その前にはいくつもの直線が平行し、交差するスクエアな広場。古墳や神社でも、古代の施設にはまっすぐな線は多いが、それらには結界を示す、何か地中から立ち上がってくる意味のある線として見えるが、ここの直線は機能的な意味しか伝わってこなく、近代的な造形物と見える。江戸期に治定・修復されたというが、明治期以降、橿原神宮の建築と同時に作り直した感じがするのだが・・・・・・。
さらに北へ、次は第2代綏靖(すいぜい)天皇「桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)」。神武よりは小振りの方墳で、何かしら趣がある。樹木の植え方も枝ぶりもなかなか良く、風雅な庭園を見ているようで飽きない。綏靖天皇の宮は葛城山裾、一言主神社の手前の山道に「高丘宮跡へ」の石碑が立っていたが、葛城麓から秋津洲の平野を一望できるところにあったのを思い出す。
飛鳥にある欠史天皇の宮跡と陵墓
次は飛鳥の岡寺辺りに点在する宮跡と陵墓なのだが、そこへ向かうのにもう少し北へ歩き、八木西口駅から近鉄に乗ることにする。その途中、あの今井町の東端を通るのだが、20年も前に訪れた時には食べもん屋どころか、休憩するところもなかった。それと比べたらエライきれいに整備され、お店もたくさんあって、ちょっとした観光地になっている。ゆっくりまた来ることにし、さっさと駅に向かうことにする。
橿原神宮駅から真っ直ぐ東へ行くと、大きな池の堤防にぶつかる。石川池に浮かぶ島にあるのが、第8代孝元天皇「劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)」。箸墓古墳のように中之島全体が古墳と見てしまいがちだが、この古墳はそんなに大きくはない。南側は陸とつながり、入り口になっている。階段を登っていくと、頂上部だけが陵墓であることがわかってくる。拝所手前にある楓の紅葉が綺麗で目を見張る。山の頂にあるためどこまでが陵墓の境界か定めがたいが、自然の地形をうまく取り込んでいる。
石川池南側の山地一帯に住宅街が広がるが、そこを上り、下ると、田畑に囲まれた村落風景の中に入って行く。周りを眺めまわすと、西北の彼方に畝傍山の角張った山稜が見えている。先ほどの石川池の堤上からの眺めもそうだったが、どこ に行っても畝傍山が見え、それとの位置関係で我が位置を測る、という具合になる。この地域にとって、大和を創始した初代神武天皇が眠る畝傍山は、大きな存在だったように思う。人々は近くで、また遠くで崇める精神的シンボルだったのかもしれない。
ぶらぶら歩いていると、西方に大屋敷が並ぶ集落が見え、つい誘われそこへ入って行く。住居表示には「見瀬町」とある。さらに坂を登るとモヒカン刈りの頭髪のような墳墓が迫る。そうか、見瀬丸山古墳の裏側に出たわけだ。いつもは橿原神宮から飛鳥へ行く途中、道脇に前方部からの横腹を見せるのだが、今は後円部を見ている。基壇部分がきれいに草刈りされ、後円部頂だけが木々の生えたままにされている。目の前にすると、やはり大きい。墳丘長310m、大きな古墳が作られなくなった時期の6世紀後半の築造で、曽我稲目の墓とも言われるが、今回のテーマではないので南側だけ周り、さっさと岡寺駅方面に向かう。
地図では先ほどの孝元天皇の宮廷だった「軽境原宮(かるのさかいはらのみや)」跡が岡寺駅の東北側にあるのだが、なかなか見つからない。行きつ戻りつして、線路の西側に出ようとして踏切へ行きかけると、踏切手前に石棒状の物が逆光の中で浮かび上がる。宮跡を示すものが一本の石碑でしかない。哀れにも感じるが、伝承でも口伝えでも良い、こうして宮があったことを後世に伝えることは、土地の記憶を受け継ぐ上で重要なことだと思う。踏切を越えた高台にあるのが牟佐坐(むさにます)神社で、この境内は孝元天皇が即位した宮地であると伝わっている。
白橿町の懿徳天皇・軽曲峡宮跡
さて、今日のラストになるが、御陵が畝傍山南にあった懿徳天皇の宮「軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)」を見つけることに。白橿町にあるというのだが、ここに行きつくのが難儀なこと。丘陵部一帯が「白橿町」として開発された橿原ニュータウンなのだが、旧町村からは独立している。牟佐坐神社の裏に家々が見える。神社の裏から登れないか、とGマップで調べたが、直接の道が引かれていない。石段下のベンチに座る古老に聞いてみたが、「あきませんな、北の太い道路から行かなあかん」という。どうしてなのか、他所者にはわからない地元の関係があるのだろうか?
Gマップの指し示す通り、北側に大きく迂回して自動車道路を行くことにする。緩い坂をずんずん上り、一戸建てが続く住宅街に入って行く。その頂上辺りから少し西に降ったところの白橿近隣公園の端に、今回のテーマではないが、沼山古墳があるというので見に行く。径18m、高さ5.5m、横穴式石室がある6世紀後半の円墳。東漢氏(やまとのあやうじ)の拠点・飛鳥の檜隈に隣接していることから、渡来系の人物が葬られていたかと……。
元に戻り、坂を上り切った突き当たりの茂みの中に隠れるように立つ石柱を発見。そこに「軽曲峡宮跡伝承地」と書いてある。よっぽど探さないと見つからない細身の石碑だ。宮跡を物語るものは石碑しかない、しかしよくぞ残してくれていたと思う。
石碑が建つ垣根の裏側に回ると自動車専用の道路があり、その向こうが盛り上がり、下の集落と隔てる崖になっている。この崖をよじ登らない限り白橿町には行けない。崖っぷちに沿って少し行くと眼下に団地の建物が見えてきた。近づくとそこへ通じる階段が付いているではないか。下から歩いてきてこの階段を見つけるのは外部の人間には無理というものだ。来た道を戻り遠回りしなくてすんだが、歴然としたこの段差が、下の集落と上の新興住宅との隔たりそのもののように思えるのだが……。
一時はどうなるかと思ったが、欠史歴代天皇の宮跡と陵墓を見つける旅<part1>を終了できた。当初の目的では、また電車に乗り、掖上の神武天皇の宮から御所の第5代孝昭天皇陵まで歩くつもりだったが、それは土台無理なことだった。<part 2>として次回に続きます。(探検日2020.11.15)
<part 2>
欠史8代天皇の跡巡りの後半、初代の神武天皇の宮跡も含め、大和平野南端部、古代大和の呼名でもあった「秋津洲」の東から西まで・・・。葛城の山、その裾野に広がる平野と丘陵。この地形が絶えず意識され、宮、また陵墓が築かれてきたことを感じながら歩くのでした。
柏原村の橿原宮
今回一番確かめたかった所でもある神武天皇の宮跡、つまり橿原宮である。記紀に書かれているように、神武東征ののち大和を平定し、橿原宮で即位されたとする。「日本書紀」には、畝傍山の東南、橿原の地・・・とされ、明治天皇が今の橿原神宮を建てられた。しかし、この地は白樫村と呼ばれてはいたが、橿原という地名ではなかった。日本書紀の「東南」は「西南」を読み間違ったもので、畝傍山から約4km西南には古来、柏原という村があり、本居宣長も「菅笠日記」の中で、そのように書いている。8世紀には柏原村の名があり、近世の「大和誌」でも「橿原宮は柏原村にあり」とされ、神武天皇社という宮もあり、地元では圧倒的に神武天皇宮跡は柏原村である。明治の中央政府が強引に畝傍山東南に神武の宮として橿原神宮を作った、そう見えるのである。とまあ、諸説あり、真実は闇の中だが、その柏原村へ行ってみようというのである。
近鉄御所駅から5分ほど歩いてJR御所駅で五条線に乗り換え、二駅目の掖上駅に8時40分に着く。次の電車は10時2分着。JR五条線は、なんと1時間半に1本というダイヤ。無人駅で降りるのは3人ほどで、寂しい限りの駅風景だ。集落内の道を北に向かう。曽我川に出て、それに沿って行くと自然と柏原村集落に入り、道端に「掖上の道」の案内看板が立ち、「神武天皇社」と「水平社博物館」が並んで書かれている。御所市内を車で走っていると何度も「水平社」の看板を目にするが、日本の部落解放運動の原点でもある水平社がここにあったんだな。時間があれば覗くとして、先ずは神武の宮ヘ。
真っ黄色のイチョウの木が見えて、知らずの内に足がそちらに向いていたが、そこが神武天皇社だった。あの神武天皇の宮跡と言えど、小さな、どこにでもある村の鎮守さんにすぎない。鳥居前の石碑には「祭神神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)」とあり、この記名が値打ちである。説明板には、「この地が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに証拠書類を全て焼却して指定を逃れたという」とあり、橿原神宮のようにたいそうに祀られることを願ったのではないという。万世一系の天皇として国民支配の原理とされるよりも、村人の心の中で愛しまれた天皇さんだった……。本当の神武さんは、大和朝廷以前の葛城王朝初代の大王とするなら、この葛城地域を治め、時々顔を見せてくれる村主のような存在だったのかもしれない。我々が描く神武像は近代国家が作り上げた天皇像にすぎない、と言えるかも知れない。
この神社の裏手から川沿いに行くとすぐ水平社博物館の正面に出た。まだ9時過ぎだし、久しぶりに差別問題を考えるか、とチケットを買って館に入った。開館は10時からだが、せっかくだし、ということで見学させくれた。今まで何十回と研修を受けてきたが、天皇制そのものが部落という差別構造を生み出す原因をなすものだと教わったが、その初代天皇を祀る神社の真横に部落解放の拠点があるのは何故だ。天皇制の意味をわざと考えさせるためか、または柏原村の神武さんのように、天皇は本来全人民に慕われるべきだという、天皇の理想を示すためなのか?差別の厳しさはともかく、正・反が共存できるということは、葛城という地域の鷹揚さ、この地のもつもっと大きな力というものがあるからだと感じるのだが……。
玉手の森は孝安天皇陵
さて、曽我川に流れ込む万願寺川がもたらした小さな扇状地を歩きながら、田園地帯の東寺田から山裾の玉手地域へと入る。「玉手」とは、玉のように美しい手、天使の手、玉手(ぎょくしゅ)という意味だが、この地が何故玉手かというのは、第6代孝安天皇「玉手丘上陵」があるからだろう。JRの踏切を越え玉手集落に入るが、人っ子一人通らずひっそりとしている。どの家も大きい農家屋敷だが、中に飛び抜けて巨大な、外塀も兼ねた倉庫のような長い棟が伸びている。若い者は皆都会に出て年寄りだけが残った、という感じだが、大屋敷に挟まれた狭い空間で、ジャージ姿の老人が畑を耕していた。「こんにちわ」と一声かけて、不審者でないことをアピールしておく。
さらに奥へと当てずっぽうで歩いて来たのだが、こんもりとした木々の塊があり、ここが孝安天皇陵の入り口だった。階段を上がり曲がりくねる山道に踏み込むと、うっそうとした樹木に囲まれ、恐ろしげな山の神の声が聞こえそうな雰囲気が漂ってきた。登り切ったところでパッと明るくなって視界がひらけた。目の前に聳え立つ孝元天皇陵拝所が現れた。そして反対側には大和平野の南端であり、五条へと続く巨勢山地の北端でもあるところに室宮山古墳の森が際立って見える。この夏に行ったところだが、あの東側の八幡神社境内に孝元天皇宮跡の石碑が立っていたな。ということは、この御陵は自分の宮を見ているということになる。なかなか良いロケーションだ。
陵墓は山の頂の盛り上がりを利用しているが、拝所の脇を下りると墳丘の縁に沿って伸びる道が見えた。緩く曲がる道に踏み込んでいくが、前方後円墳の基台に沿って歩いているのか?円墳ではなさそうなのだが、今一つ形を把握できない。拝所に戻ってくると、反対側の山への道が見つかり、それを行くと鐘撞堂に出くわす。さらに、下りの階段を行くと、そこは満願寺の墓所で、陵墓と何となく繋がっている。麓の山門辺りから眺めると、孝元陵が寺の甍の上に聳えるように見え、陵墓を護るようなロケーションで寺が配置されていると思わせる。
孝昭天皇と秋津洲
県道に出て第5代孝昭天皇の宮跡を探す。どの地図にも明快な場所の指示はなく、県道を行きすぎたりまた戻ったり、付近の人に聞いたりしたが、いっこうに分からない。まあ、石碑一本だけの話だし、地元の共感を持って建立されたわけでもなさそうだし、所詮欠史の天皇だし・・・と諦めながらも、Gマップでググると、県立御所実業高校の校門の辺にマークが付いている。先ほど行き過ぎたのだが、また戻って食堂でもないか、と校門から中へ入ってみると、工事中だが、何か立っているものがある。これだ。土台の周りにレンガを敷いて整備しようとしている。ああ、疲れた。何度は諦めかけたが、やっぱり粘るものだね、学校の中だとは思いもしなかったが・・・。
続いて同じ孝昭天皇陵を見に行くことにする。孝昭天皇の宮の北西の方角、国道24号線、鴨都波神社付近にあるのだが、この近くに適当な東西を結ぶ道路がない。仕方なく田んぼの中の農道をひたすら西に行くが、次第に道が細くなり、畦道になる。さらに用水路の縁を歩くことになってしまった。
神武天皇が東征を終え、この地を治めることを決め柏原の地に宮を構え、嗛間丘(ほほまのおか)に登り、国見をした。日本書紀には、その時西に見える金剛山と葛城山の重なる様が蜻蛉(あきつ)が交尾しているごとくだと、この地を豊かな実りをもたらす地「秋津洲(あきつしま)と名付けたことが、日本の国号の始まりとされる。
少し南の御所市室には弥生遺跡で有名な中西遺跡があり、弥生前期からの水田跡で、3×4mといった小さな区間の水田など1700面、2万m²に渡る国内最大規模の水田遺構があった。大和平野南端の水田が一面に広がるこの地が、まさに神武天皇が国見をした秋津洲に当たるのである。先ほどから私はその秋津洲を東から西に横切ってきたのだが、日本の国の始まりの地を歩いてきたと思うと感慨も一入ある。第5代孝昭天皇の宮が秋津洲の中ほどの玉手にあり、その陵墓が秋津洲の西端にあるということは、孝昭さんは秋津洲の豊かさを満喫した天皇だと言えるだろう。
何とか秋津洲の畦道を踏破し、蛇穴(さらぎ)村に着き野口神社に詣る。蛇が穴に潜りその穴に蓋をして大蛇を避けたことからくる古来の風習が残り、毎年5月5日に開催される「蛇曳き汁掛け祭り」は今も続けられている。小さな村の鎮守社という面もちだが、こんなに小さくても男女一対のトイレがある。そんなところにも村人の信心の篤さを思う。
今まで何度もこの辺りを通っていたが、24号線の向こうに見えるこんもりとした森が第5代孝昭天皇陵。一段高いところに拝所があるが、狭いながらもきちんとした構え。その下に孝昭宮なる神社があり、石段を登って行くと祠の裏手が墳丘の外周とつながっている。
そこから陵の周りを回ってみることにする。円墳のようだが、前方後円墳?どうも本当の形がわからない。この古墳の上からは秋津洲の全景が手にとるようにわかる。秋津洲とともにあった権力者の墳墓だと容易に推測できる。
欠史8代天皇と大和
欠史8代天皇の内、第7代孝霊天皇と第9代開化天皇以外、葛城周辺を中心に大和平野南部に点在する、初代神武天皇を含め各天皇の宮跡と陵墓を見て回ったことになる。7代孝霊天皇の宮跡は田原本町、陵は王寺町、9代開化天皇の宮跡・陵墓はともに奈良市内卒川神社付近にあるが、遠方なのでまた今度訪れることにしよう。
前回、高鴨神社を訪れた時にこの地の歴史を振り返り、葛城の麓、つまり秋津洲一帯は、事代主を祭神とする鴨系一族の耕作地で、それを高産霊系の葛城一族が統治し、葛城王朝として支配地を広げていった、と説明した。この生産力を背景に欠史8代の内6代までの天皇の宮は葛城山麓から畝傍山の辺り、秋津洲にかけて定められた。御陵についても畝傍山から秋津洲にかけて築かれたことは見てきた通りである。
鳥越憲三郎先生によると、第5代孝昭、第6代孝安が宮、陵共に秋津洲にあることから、葛城一族はこの頃、葛城山麓から大和南部の平野部を完全に政権下に治めたと思われる。7代孝霊天皇の宮は田原本町、陵は王寺町にあることから、大和平野中央部への展開があったと推測される。8代孝元天皇は、宮、陵ともに飛鳥の地にあり、これを指して衰退かとも見られるが、皇后、妃ともに物部氏から娶っていることから河内国も統治下に置いたとする。最後の9代開化天皇になると宮、陵ともに奈良市内に置いたということを考えると、葛城政権はついに大和全体を統治することができるようになったと説明できるのだが、これはどう考えれば良いのか?
10代は崇神天皇となり、大和桜井に宮が移り、その後は史実の通り、大和政権が大和東部で確立されていく。その間、葛城王朝が滅んだことになるのだが、政権交代の争いがあったのだろうか?
初代神武も含め欠史天皇については、治世の長さが不自然なこともあり創作性が強いとされるのだが、紀記にも載り、謂れも含めた伝説も数々あることから、全く架空ではなく、何らかの事実があったとみる。気になることは、宮内庁管理としながら各墳墓については規模、埋葬品、棺の形などの情報がなく、造成時期、埋葬者の鑑定が全くできない。その秘密主義が返って欠史として埒外にされてしまうのだが、その秘密の中には、大和政権誕生以前の重要な歴史事実、つまり国の始まりを明かす根源的な史実があるに違いない。そのように思うと古代史はさらに奥が深く、興味が尽きないのである。(探検日2020.11.8)