古市大溝は、藤井寺・羽曳野の市域境界でもある下田池、上田池、「へ」字の中ノ池をつないで西に曲がる。さらに高鷲、雄略帝陵近くを通り、藤井寺北小学校辺りから津堂に流れ込む。津堂とは港が集まる湖で、大溝は人・ものを運ぶ運河として古墳造営にも役立った。河川交通盛んな古墳時代の新しいイメージを描く。
④王水川をたどる
津堂へ東から流れ込む水路はどのように続いているのか。石川の取水口・王水樋を確かめるため、藤井寺市立北小学校の地下を通り、長尾街道に沿い、藤井寺の整備された水辺、さらに応神天皇陵外濠外周、誉田や碓井を流れる王水川と呼ばれる水路をたどりながら探検して行く。
⑤大乗川に沿って
古市大溝とつながるもう一本の水路・大乗川は、新町井関から出発し、東側の水守へ流れ、その後東高野街道と並行して北へ流れる。国道170号線、近鉄線を潜り、広い川幅の一級河川となり、さらに安閑天皇陵の北側を流れる。石川に近づき並行し、王水樋を通り石川本流に達し、古市大溝のネットワークを形成する。
日々古代史探検
日々古代史情報をチェック、資料を調べ、地図を探索し、エリアが見えてきたら、即、探検に出かける。歩いて歩いて、新しいエリア古代史の視点を発見する。写真や動画をちりばめながら、一続きの文章で熱々の古代史探検記を綴っています。
⑧葛城・南郷遺跡群・・・イメージ探訪
南郷遺跡群は今世紀初頭、棚田や段々畑を統合する大区画圃場整備事業で発掘された。古墳時代の工房、住居、高殿、祭事場など、葛城一族の都市的遺跡として考古学的な大発見だったが、調査後全て埋め戻され田畑となった。金剛山東麓に散在する遺跡を個々訪ね、葛城一族の繁栄を想像するのは楽しくもあった。
生駒西麓
古代人が真っ先に住み着いたであろう河内湖の水際、つまり生駒山地の西側「生駒西麓」だと思われます。古代より大陸文化の取り入れ口でもありました。難波、大和、それらとの中継点であった「生駒西麓」は古代には重要な役割を担いました。竜田川、恩智、高安、八尾など、生駒西麓をくまなく歩いて探検します。
竜田越え
伊勢物語の在原業平が高安の女に会いに来た「竜田道」とは?柏原市の大県辺りでは、業平は生駒山地の南端を回り、生駒西麓沿いに来たとして、そこを「業平道」とも名付けています。大和から河内・難波へとやって来る、生駒山地を越える古代の道「竜田越え」とはどんなものか、竜田道を探検することから始めます。
河内六大寺
生駒西麓には寺社が多く、柏原地域内では、南から、鳥坂寺、家原寺、知識寺、山下寺、大里寺、三宅寺という六つの河内六大寺があった。中には創建が四天王寺や法隆寺と同じ頃のものもある。奈良・平安時代を通じ、天皇を始め朝廷の方々が難波と大和を行き来するときの中継点でとして重要な存在でありました。
恩智
生駒西麓のメイン・恩智地域を歩きます。八尾市にかけて高安山の裾野があり、その中でも旧恩智村一帯に広がる扇状地が一番大きく、縄文から弥生にかけてすでに人が住み着いていました。神宮寺墓地、恩地左近一族の活躍、恩智神社、恩智城、お初徳兵衛の墓、戦時遺跡・掩体壕など、古代・中世・近世、さらに近代の遺跡を巡ります。
高安
霊地としての生駒西麓・高安を巡ります。俊徳丸鏡塚古墳、抜塚のある迎寺墓地、高安山麓一帯の標高60〜180mの地域に200を超える高安千塚古墳群があります。松尾谷には双室ドルメン・二室塚古墳、全長14mの両袖式横穴式石室を持つ開山塚古墳など、河内平野を見下ろす絶好の場所に様々な古墳が築かれています。