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高安山―信貴山

白村江の戦の後、天智天皇は大陸軍侵攻に備え、対馬、太宰府、讃岐などに城を築き、高安城は大和を防衛する一大拠点でした。壬申の乱時は近江軍の防衛拠点、戦国期には、松永久秀が高安山を出城に信貴山城を築きました。古代からの高安山と信貴山の防衛的関係を実際に歩き探検します。

三野県主と生駒西麓の古墳

河内平野は、大和川がもたらす肥沃な農耕地。古市古墳群最盛期の頃、三野県主は中河内を治めた。生駒西麓に展開する心合寺山古墳を初め多数の古墳は三野県主一族に関係するが、河内の治世者が物部氏へと変わっていく。愛宕塚古墳、玉祖神社も含め、古墳時代の遺跡を巡り、その時代背景を考えます。

八尾デルタ・・・物部氏の跡を訪ねて

長瀬川と玉串川の間の河内平野を八尾デルタと呼ぶ。物部氏は豊かな河内平野を基盤にヤマト政権を中枢で支えた。祖神、饒速日命を祭る弓削神社。道鏡は称徳天皇の篤い信任を得て国家寺・由義寺を建立。物部守屋墳、渋川廃寺、渋川神社など、八尾デルタにある物部氏の足跡を巡る。

十三峠越え

業平も歩いたという十三峠越の竜田道。大和から竜田川沿いに行き、平群から生駒を越え河内に入る。平群神社、三里古墳、長屋王墓、吉備内親王墓など、天武天皇に関係する墓が並ぶ。生駒東麓の中腹にツボリ山古墳、白山神社、杵築神社。十三峠越えは大和と難波をつなぐ最短ルートで物産とともに情報がいち早く伝播した。

瓢箪山から日下

瓢箪山古墳から山畑古墳群、山裾を歩き枚岡神社へ。近鉄石切駅から神武東征で長髄彦と戦った場所・日下へ。住宅開発が凄まじく、日下貝塚は石碑のみ。生駒越え旧街道筋にある河澄家は石上露子の実家。浜地蔵尊、浜の橋、楯津浜碑など、東高野街道が河内湖汀線に沿うことを発見する。飯盛山が近づき、野崎観音まで歩く。

暗峠越・国道308号線に沿って

大阪から平城京への最短路線は、国道308号線に沿う古道であろう。枚岡神社から暗峠に向かう急な坂道。峠から西畑、藤尾、大門の集落、萩原町で近鉄生駒線と出会う。南生駒から榁ノ木峠を越え追分、国内最大の円墳・富雄丸山古墳へ。西ノ京で垂仁天皇陵に行きつく。

生駒越え

石切から辻子谷に沿う急坂には地蔵が並び興法寺まで88体あり、巡礼道だった。生駒は多数の寺社が点在する修験の山でもあった。山上遊園地からケーブルが通じ、奈良の真言メッカ、生駒の聖天・ 寶山寺に参る。古代から生駒山は難波と大和の境界であり、神武が大和進入を断念させたのは、その霊威を恐れたからではなかろうか。

河内湖北東岸を巡る

野崎観音から飯盛山、野崎城跡へ。楠木正行を祭る四條畷神社から小楠公墓所までの参道は、街の東西の骨格を作る。忍岡古墳周辺は子馬埴輪や馬骨が出土して、渡来人が馬飼の技術を伝えた放牧地だった。寝屋川市域には太秦古墳群があり、北河内の開発には秦氏が活躍した。花崗岩の巨石を組合せた石宝殿古墳は貴重だ。

葛城一族の跡を訪ねて

新シリーズ「葛城東麓」を始める。大和が国として始まる原初でもあり、神々が治める国から王が支配する場所の始まりが葛城であると言う。葛城東麓で起こり、豊かな経済力と大陸ネットワークを携え、大和から河内へと展開する大和政権と対立しながらも繫栄していく葛城一族、その足跡をたどる。

①葛城・高天原

葛城一族の祖神・高皇産霊の命で天孫降臨がなされた。風の森の麓から高鴨神社を経て高天へ。参道の森を潜ると稲が黄金に輝く広々とした平原に飛び出る、この体験は天上にも昇る体験に似て幻想的。古代人は実り豊かなこの地を高天原と見て守護神を祭り、葛城東麓一帯の支配に乗り出す。まずは葛城一族の原点を訪ねる旅に出かける