生駒西麓

古代人が真っ先に住み着いたであろう河内湖の水際、つまり生駒山地の西側「生駒西麓」だと思われます。古代より大陸文化の取り入れ口でもありました。難波、大和、それらとの中継点であった「生駒西麓」は古代には重要な役割を担いました。竜田川、恩智、高安、八尾など、生駒西麓をくまなく歩いて探検します。

竜田越え

伊勢物語の在原業平が高安の女に会いに来た「竜田道」とは?柏原市の大県辺りでは、業平は生駒山地の南端を回り、生駒西麓沿いに来たとして、そこを「業平道」とも名付けています。大和から河内・難波へとやって来る、生駒山地を越える古代の道「竜田越え」とはどんなものか、竜田道を探検することから始めます。

河内六大寺

生駒西麓には寺社が多く、柏原地域内では、南から、鳥坂寺、家原寺、知識寺、山下寺、大里寺、三宅寺という六つの河内六大寺があった。中には創建が四天王寺や法隆寺と同じ頃のものもある。奈良・平安時代を通じ、天皇を始め朝廷の方々が難波と大和を行き来するときの中継点でとして重要な存在でありました。

恩智

生駒西麓のメイン・恩智地域を歩きます。八尾市にかけて高安山の裾野があり、その中でも旧恩智村一帯に広がる扇状地が一番大きく、縄文から弥生にかけてすでに人が住み着いていました。神宮寺墓地、恩地左近一族の活躍、恩智神社、恩智城、お初徳兵衛の墓、戦時遺跡・掩体壕など、古代・中世・近世、さらに近代の遺跡を巡ります。

高安

霊地としての生駒西麓・高安を巡ります。俊徳丸鏡塚古墳、抜塚のある迎寺墓地、高安山麓一帯の標高60〜180mの地域に200を超える高安千塚古墳群があります。松尾谷には双室ドルメン・二室塚古墳、全長14mの両袖式横穴式石室を持つ開山塚古墳など、河内平野を見下ろす絶好の場所に様々な古墳が築かれています。

高安山―信貴山

白村江の戦の後、天智天皇は大陸軍侵攻に備え、対馬、太宰府、讃岐などに城を築き、高安城は大和を防衛する一大拠点でした。壬申の乱時は近江軍の防衛拠点、戦国期には、松永久秀が高安山を出城に信貴山城を築きました。古代からの高安山と信貴山の防衛的関係を実際に歩き探検します。

三野県主と生駒西麓の古墳

河内平野は、大和川がもたらす肥沃な農耕地。古市古墳群最盛期の頃、三野県主は中河内を治めた。生駒西麓に展開する心合寺山古墳を初め多数の古墳は三野県主一族に関係するが、河内の治世者が物部氏へと変わっていく。愛宕塚古墳、玉祖神社も含め、古墳時代の遺跡を巡り、その時代背景を考えます。

八尾デルタ・・・物部氏の跡を訪ねて

長瀬川と玉串川の間の河内平野を八尾デルタと呼ぶ。物部氏は豊かな河内平野を基盤にヤマト政権を中枢で支えた。祖神、饒速日命を祭る弓削神社。道鏡は称徳天皇の篤い信任を得て国家寺・由義寺を建立。物部守屋墳、渋川廃寺、渋川神社など、八尾デルタにある物部氏の足跡を巡る。

十三峠越え

業平も歩いたという十三峠越の竜田道。大和から竜田川沿いに行き、平群から生駒を越え河内に入る。平群神社、三里古墳、長屋王墓、吉備内親王墓など、天武天皇に関係する墓が並ぶ。生駒東麓の中腹にツボリ山古墳、白山神社、杵築神社。十三峠越えは大和と難波をつなぐ最短ルートで物産とともに情報がいち早く伝播した。

瓢箪山から日下

瓢箪山古墳から山畑古墳群、山裾を歩き枚岡神社へ。近鉄石切駅から神武東征で長髄彦と戦った場所・日下へ。住宅開発が凄まじく、日下貝塚は石碑のみ。生駒越え旧街道筋にある河澄家は石上露子の実家。浜地蔵尊、浜の橋、楯津浜碑など、東高野街道が河内湖汀線に沿うことを発見する。飯盛山が近づき、野崎観音まで歩く。