④葛城東麓の古墳群

はじめに

 今回は大和政権下の葛城一族の活躍の場でもある葛城山東麓、その古墳を巡ろうとするもの。行政区で言えば葛城市域。御所市とは古代遺跡に関する政策が違うのか?市域境界で史跡情報もプッツリ切れている。御所市には室宮山古墳や南郷遺跡などの大遺跡、一言主や高鴨などの神宮があるが、葛城市には、史跡は小規模だが、住宅開発も盛んで金持ちのようで立派な歴史博物館がある。どっちが勝ち、とは言えないが、貴重な葛城一族の史跡として両市で一体的に管理運営、情報発信をして欲しいものだ。

葛城東麓の葛城一族の史跡地図
近鉄新庄駅から笛吹神社屋敷山二塚古墳葛城東麓の古墳群を巡り竹内街道から磐城駅まで歩く

飯豊天皇陵

 近鉄御所駅に行く途中いつも目に入る柿本神社と飯豊天皇陵。今日はそこから始めたいと、新庄駅で下車。駅の真裏、西側に柿本神社。柿本人麻呂は持統天皇からこの辺りに領地を賜り、住居を構えたとされるが、いつの頃からか神さんになって祭られてしまった。境内に植えられた「筆柿」という、2cmほどの小さな、筆先のような形をした実を付ける柿の木に魅せられた。この柿の木にこそ人麻呂の魂が宿っている気がして、種があるなら是非譲って欲しいものだ。

 近鉄線に沿って南へ、住宅と田畑の混在地を歩いていくと、何やら大きな茂みが見えてきた。飯豊天皇埴口丘陵、電車からだと一瞬で通り過ぎるが、側まで来るとデーンと大きく、よく整備されている。宮内庁管理、墳丘長90m、外濠が取り巻く前方後円墳。外堤には剪定された松が並ぶきれいな古墳、6世紀初頭の築造だという。清寧天皇崩御の後、に億計尊(おけのみこと)と弘計尊(をけのみこと)が皇位を譲り合っている間 、10カ月だが、忍海角刺(おしみつのさし)宮で政治を執ったとされる。推古、持統より早く、日本最初の女帝だったというのだが‥‥。飯豊青皇女は忍海郎女とも呼ばれるが、仁徳と葛城磐之姫との子である履中と葛城黒姫との子とされるが、いずれも葛城を源とし、忍海の地に最も所縁が深い。5世紀末で雄略に葛城一族本流が滅ぼされており、葛城の拠点が南郷あたりの葛城南部から北部である忍海の辺りに移りつつあった。強力な大王による一元支配の時代に入り、その政権内にとどまった葛城氏の地位を表す古墳と言える。大古墳から中・小古墳への規模において、また埋葬位置においても序列が明確化していく時期にも当たる。

 欠史8代天皇時代から葛城山麓で起こったプロト・葛城氏、南郷地域のような工業生産力をバックに朝鮮大陸との交流を促進し、倭の五王の政権内で葛城氏を再興した葛城襲津彦の時代、その象徴である室宮山古墳のような大古墳があった。このような金剛山東麓における葛城一族の遺跡とは違う、大きな時代の変化を物語っているのが葛城山東麓の遺跡と言えようか。そんなことも頭に入れながら、今回の探検を始めたいと思う。

鉄の生産地、忍海

 名神大社の一つで、前回に行けなかったところ、そして「鉄の忍海」と言われる拠点、笛吹神社へ参ろうか。さらに南へ行き、笛吹若宮神社を探すのだが、なかなか見つからない、というかいくつも神社があって惑わされる。神社の杜のような茂みを見つけて遠回りして行くも、それは厳島神社とあった。ごく近い距離だが、まだ南にもう一つの神社があって、それが若宮神社だった。いずれも笛吹神社の氏子枝宮で、正月には本宮から朝7時に宮司が斎行される、と周知の紙が貼ってある。

 そこから絶えず葛城の山容を目にしながら、南西の方角に緩やかだが、坂を登って行くことになる。一定距離を登るごとに大きな土手にぶち当たるが、それがため池で、数えられないくらい多くの池がある。山からの水を溜めておいて、田植えなどのここぞという時に放流する。これが山麓斜面の田作りの知恵というものだろう。山からの水を直接田に引いてない。山の水も気まぐれなんだろう、また水争いもあったろう、溜めてちょっとずつ出して分配するという中に、村の政治も含め、いろんな工夫があるのだろうな。

 笛吹神社への入口でもある脇田神社に詣でる。ここも枝宮で正月午後1時の斎行になっている。鳥居の足元に、径2.5mもあろうか、大きな六角形の塔礎石が置かれている。これが薬師寺配置の伽藍で7世紀後半に建てられていた地光寺東遺跡の東塔礎石で、西塔のそれは田んぼの中にあるという。また、150m西に地光寺西遺跡があり、8世紀前半の四天王伽藍配置の遺構が見つかっている。この時期最も勢力のあった忍海一族の氏寺と見られる。

笛吹神社

 山麓線を渡り、さらに山の方へ。わずかな傾斜に段々を付けた田畑が延々と山際まで続く。その山際に笛吹神社、葛木坐火雷(かつらぎにいますほのいかづち)神社がある。創建は神代とも伝えられるが、主祭神は、火雷大神と天香山命の二神。後者は崇神期に笛吹連として天磐笛を賜ったことから始まり、そこから笛吹神社の名の由来があるが、それよりも前から火明神が祭られていた。つまり、鍛治製鉄が盛んな土地で鉄の製造に欠かせない火を守る神さんを祭ったことから始まる。

 県の天然記念物であるイチイガシが鬱蒼と茂る森の中、石段を登り境内に入る。背の高い木々に囲まれた中に時折斜めの光が入り、凛とした空間が立ち上がってくる。この感じは、古代から愛しまれてきた空気感かな‥‥、ハッとして「空間の歴史性」という概念が成立するのではないかと思い付く。つまり「空間」は単に構築物によってのみ構成されるのではなく、そこを使う人々の歴史によってこそ作られる、という新しい空間研究の方向がありうる、「空間の歴史学」、なかなか良いではないか。しかし、もう誰か研究してるんだろうな?

笛吹神社境内
境内中腹の広場に日が差すと幻想的な空間になる

 祠の奥に円墳だという古墳があり、正面に横穴式石室が開いている。このような古墳が神社の西から南の山地に何十もあり、笛吹古墳群を形成している。それらの石室には、ヤットコ、鉄床、金槌などの道具類の他、朝鮮半島の工人の埋葬に欠かせないものとされる、鍛冶生産で排出される鉄さいを添えであることから、渡来人を埋葬する墳墓と考えられる。

 もとより、葛城襲津彦が新羅から連れ帰った人々を桑原、佐糜、高宮、忍海に住まわせ、四邑の漢人の始祖となったということだが、その中の忍海漢人が鍛治に従事する渡来系集団であった。先ほどの脇田神社一帯は鍛治製鉄業の拠点集落とする脇田遺跡があったが、渡来人の工人たちを束ねる忍海一族が大きな権力を持っていた。火雷神社の氏子枝宮は17社あり、先ほどの若宮、厳島、脇田はもちろん、角刺神社、西辻神社など、旧忍海郡のすべての神社を統括していた。ということは、火雷神を守護神とする権力者がおり、製鉄業を営む村々を統括していた、これが渡来人の工人たちを束ねる忍海一族の長だった、ということができるだろう。

葛城東麓の遺跡群

 このような一族の死者を埋葬する古墳や墳墓の群集墓が葛城北部の山麓に数多く存在する。葛城から南、金剛東麓には群集墓は見られなかったが、時代は大きく変わり、北、葛城東麓にはおびただしい小型墳墓があり、葛城勢力の北への展開が窺われる。それは一方、流通経路の変化であり、紀ノ国ルートが廃れ、二上山南路の竹内街道や平石峠道、さらに北路の大坂道、穴虫峠越えが開拓され、大和からこれらの峠道を経て河内へ、さらに難波から大陸への海上ルートが中心になってくる。流通経路が大きく変化する、そういう時代の転換点でもあった。そして古市や百舌鳥の大古墳群が象徴する河内王朝の時代へと入っていく。結論は急がず、それぞれの史跡を見て回ろう。

葛城山東麓に、大規模な老人施設が集まりつつある?

 葛城の山裾を縫って葛城山麓公園内にある寺口忍海古墳群に行こうとしたのだが、笛吹神社からはまだまだ山の上の方に行かなければならない。その名も山口という集落近くまで行くが、それは行き過ぎで、また降りて行くことになるが、こんな山奥なのに広い範囲で造成工事が進んでいる。その近くには大きな老人施設、ウォームヴィラ新庄園というのがあるが、まだ老人ホームを作ろうとしているのか?山麓公園入り口あたりまで降りてきたが、目当ての古墳群は公園の西端にあり、優に1Kmはありそう。行くだけで日が暮れそうで、とてもそこまで行ってられない。山の方へ上がってくるのじゃなかった、ああ、1時間くらい無駄足を食ったようだ。次には平地に降り、大古墳を見に行かなければ‥‥。

火振山、屋敷山の大古墳

 山裾に新しい道ができていて、逆に遠回りさせられることになるが、なんとか平地の街並みが見えてくる頃、道脇に古そうな神社が現れた。大宝天皇神社とあるが、大宝を年号とするなら、文武天皇(701〜4年)の世のこと、かなり古い神社となるが、創建、謂れなど全く分からない。石段や灯籠などに崩れた所がなく、大事に手入れされ、地元の篤い崇敬がうかがえる。神社の裏側にも大きなため池が横たわっているが、少し降りていくとまたため池。その南側に竹林が混じるこんもりした雑木林。気を付けないと見過ごしてしまいそうになるが、これが前方後円墳の御陵なのだ。池西側から回り込み、田の畦道から古墳内に入ると、数段に造成された円い土盛りがあり、後円部であることがわかる。ブッシュで頂上部までは登れなく、遠回りして東側へ回りこむと、墳丘側道に沿って前方部へと道がついている。前方部の過半は池の縁になるが、池東側の堤から古墳内に入れて、「入るな」の標識はあるが、前方部頂に登れる。細長い前方後円墳でかなり人の手は入っているが、古墳の形ははっきりしている。これが火振山(ひぶりやま)古墳で、墳丘長95m、5世紀半ばの造成という。葛城山麓の緩やかな坂の途中に横たわる長大な古墳で、どこからも見通し良く、優れたランドマークになっている。

 この北方350mにあるのが、葛城東麓最大の前方後円墳、墳丘長135mの屋敷山古墳だ。火振山はこれにやや先行するが、同じ方向を向いた100m級の大型古墳が二つ並んでいることから、両者はこの地域を治める同族の支配者であると見て取れる。

古墳の東脇を山麓線が通り、車がひっきりなしに走る。

 屋敷山公園には、今まで何回か子どもを連れて弁当を食べに来たことがあったが、エー、もう30年も前やんか、この盛り上がりが古墳だとは思わなかった。築山風に樹木を配置した後円墳側から登れるようになっている。円墳頂から北に向いて平地が続くのが前方部で、その先から急坂となって基壇部に降りる。何段かの築造で結構高く、15mはあろうか。前方部端から横腹を見ると滑らかにカーブがあって、なるほど前方後円墳だと納得できるのである。5世紀中頃の造成でこの地域最大の前方後円墳であることから、大和王権とは縁戚関係がある葛城一族の支配者と見られる。ぐるっと一周したが、やはり大きい。5世紀始めの室宮山、掖上罐子塚の後の世代の葛城一族の支配者であろうと言われている。

二塚古墳

 次は、前方部縁に沿った道をひたすら西へ、ということはまた山への登りになる。やや日も傾きだしてきて、急がないと予定の古墳を見られないかもしれないと焦るが、足は思うようには進まない。寺口北の集落の最奥部に入ってさらに山道を登ると田畑の中にこんもりした盛り上がり、それが二塚古墳だった。標高200mの尾根上に位置し、忍海や新庄の町、さらに大和平野を一望できる絶好の地に造成されている。墳丘長60mの前方後円墳、6世紀中頃の造成と見られ、後円部に穿たれた横穴式石室から鍛治の工程でできる鉄鋌が出土している。それは5世紀のものと比べ分厚く、近くの鍛治工房製品とすれば先ほど見た脇田遺跡からのもので、それらを含めた鍛治生産の指導者層が葬られている可能性が高い。

 墳丘の周りは幅15m程度の周濠と見られる平坦部があり、東側は一段低くなり、今は田んぼになっているが、畦道を伝って一周できる。山の斜面に屹立していて、姿もりりしい。私にとっても今まで出会った古墳の中でもベスト5に入る美しさ、と言っても過言ではない。ここから御所の平野を見下ろす眺望も素晴らしい。この絶景の場所に渡来系工人の長と言える人が埋葬されているのだが、その人は工人や支配層からも崇敬の高い方だったに違いない。お墓も大事にされてきたことを思うと、皆に尊ばれてきたという、人々の慈しみの気持ちが伝わってくるようだ。

眼下に御所の平野を見渡せる葛城山中腹の絶景の中にある。

葛城山東麓の群集墓

 だいぶ日も傾いてきたが、ずんずん降りていく。これからは葛城山裾に点在する群衆墓を見て行くことにするが、その一つが南阪奈道路の工事で発掘された太田古墳群だ。今は道路の下に埋もれ、道の駅かつらぎの上方に横穴式石室が一つ復元保存されているだけだ。北へ行くに従い、兵家、的場池、三ツ塚、竹内の古墳群が続くのだが、これらは、今までの笛吹、山口千塚、寺口忍海、寺口千塚各古墳群とは違う形相がある。

 鍛治生産の拠点とされた脇田地域に近い、葛城山裾の南部は、二塚古墳に埋葬された渡来系工人の代表者の下、鍛治に関わる渡来人の群衆墓が主だった。北部の群集墓は6世紀後半以降、渡来系と大和系が棲み分けられていく。また、主な流通路が、紀ノ国路から難波への道が開発され竹内街道に重要性が増してき、この街道を警護、管理する役人たちの墓が群集墓として形成されていく。それはまた、平地における屋敷山や火振山という支配者の大古墳を元として、それらに仕える豪族たちの墓がより平地に近い山裾に位置する墳墓群を形成している。つまり、6世紀半ばから葛城東麓の支配構造に大きな変換、つまり大和政権の支配がより強化され、葛城一族がその政権下に組み込まれ、この地の統治を葛城一族に任され、鍛治を始めとする産業の計画的で効率的な生産体制、難波への流通管理の強化がされたということがわかるのである。

 群集墓のそれぞれを見学する時間はなかったがずんずん北へ歩みを進める。途中、二塚古墳と同様の形式の平林古墳が山へ500mのところにあるという表示があったが、この時間ではとても行けない。前髪はなくとも後ろ髪を引かれるが、振り切り次へ。

後円部頂上からの麓側全貌。平野部を統治する有力者の墳墓と見られる。

 兵家(ひょうげ)古墳群に近い芝塚古墳が畑の中にポツンとある。2号墳が西方100mにあったが石棺だけが1号墳の後円部に保存されている。1号墳は後円部が残り、前方部は平らに削られかなり改変されているが、全長50mの前方後円墳であることは分かる。6世紀前半の築造で高田から大和平野全体を見渡せる好位置にある。新庄や忍海の町の先に三角山が目印のように際立つが、あれが畝傍山だろう。大和平野南部最大のランドマークと言えるが、前回欠史8代天皇の跡を見て回った時、畝傍山周辺に神武をはじめいくつもの御陵があり、この平野周辺に点在する陵墓は畝傍山との位置関係を測りながら造られてきた、という感想を持った。葛城東麓の古墳も畝傍との距離を測るように位置されているに違いはなかろう。

 池の淵を上がり、当麻イトーピアの戸建て住宅が並ぶ中を北へ行くと、眼下東方に周りとは独立した丸い形の竹薮がポツンとある。これだけ経験を積むと、古墳であろうという勘が働く。恐らく5世紀前半の築造で、径46mの円墳である鍋塚古墳だろうが、そこへ回っている時間がない。遠くから写真を撮るだけにしておこう。この辺りには決して小さくはない墳墓があちこち点在しているが、難波との流通路、竹内街道を管理する役割を持った豪族たちの墓なのだろうと推測される。

竹内街道

 そうこうするうちに住宅地を過ぎ、芭蕉が逗留して歌を読んだという綿弓塚に差し掛かり、すぐに竹内街道に出る。河内・太子の竹内街道は何度も通っているが、東の出発点でもある当麻の辺りは初めてだ。緩やかに曲がる下りの坂道でもある街道筋は綺麗に整備されている。丸い月も東の空にかかり始め、周りの空気は冷たくなってきた。最後に見ておきたいのは、街道沿いのスポーツセンター前にあるという的場池10号墳。スポーツセンターには古墳らしきものはなく、庭があるだけだった。そうかと、庭に踏み入ると端の方に石組があり、南側から覗くと石室らしきものがあるが、どうも小さい。径10m程度の円墳のようだが、石室の背は低く、奥行きも1m程度。これは時代が進み、7世紀頃の火葬後に遺骨のみを埋葬する墳墓だから、ということらしい。古墳を建物の借景に取り込んで保存するという、なかなか賢いやり方だ。

 街道をさらに進むと、長尾神社に行き着く。ここが竹内街道の出発点となる。今日の成果多い古代旅のお礼を兼ね、お参りする。犬の散歩やジョギングをする人たちがついでにお参りに来ている。すっかり日常生活風景の中に入り込んでしまった。さあ、帰らなきゃ、とすぐ北側にある駅、磐城駅へと向かう。何十回と通過している駅だが、ここから電車に乗るのは初めて。車窓からすっかり日の沈んだ葛城山を眺めていると、ああ、今日は一日中、葛城山に遊んでもらったなあ、としみじみとするのであった。 (探検日:2020.12.26)

葛城東麓の史跡めぐり全行程
投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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