「へ」の字の中ノ池
今では古市大溝は田畑を潤す灌漑用水路と見られる場合が多いが、灌漑用ため池として中ノ池の役割は中世、近世を通じて重要だったようだ。中ノ池は下田池、上田池から続く大溝そのもので、ここで南から西へ「へ」の字に曲がっている。野々上村の北東端にあるが、この池は北方にある藤井寺村の所有で、野中村、藤井寺村の田畑の水を供給する。野々上村の悪水、藤井寺村所有の今池の余水をとって中ノ池が満水の時、北へ流し仲哀天皇陵の外濠に繋げ、岡村の灌漑用水として利用された。村同士が組合を作りそういう申し合わせをしていたが、不利な岡村とは何度も水争議があった。
また、鎌倉末期から南北朝時代にかけ、野々上村に飛ケ城が築かれ、藤井寺合戦には激しい戦場となった地域だが、中ノ池はかつて飛ケ城池とも呼ばれ、城の外濠の役割があった。羽曳野丘陵東端にあり、一段高い堤を築く中ノ池は防衛線でもあり、小さいながらも要の場所にあり、重要な役割を担った池だった。
住宅地に大溝を探る。
さて、中ノ池から西へ、今はすっかり住宅地になっているが、真っ直ぐに中ノ池の幅で大溝が掘られていたという。住宅地の中でその跡を見つけようというのだが、標識も説明板も何もない。ただ玄関を道路側に、裏側をくっつけるように並ぶ二軒お尻合わせの家並みが続く。よく見ると、家同士の裏側の境目に何やら溝のようなものが走っている。言わば太閤さんの背割り下水のような形で溝がある。地図と睨めっこすると、この溝の線が臭い。どうも大溝の南側の淵と一致していそうなのだ。南側に回り込んだら家並みが抜け、貸し農園がある。その端まで行ってみると、50cm幅の溝がずうっと続いている。何かが見えてきたような‥‥。
さらに南北に走る道路を越え西へ行くと、南側がやや高くなり、その台地に府営羽曳野野々上住宅のマンションが建ち、北側に土手を作っている。その土手の線が先ほどの溝の線の延長上にある。マンションの西端から土手の坂を下ると北側に埴生公園という草ぼうぼうの広場があるが、その北側も大きな土手になっていて、土手上に戸建て住宅が並ぶ。つまり、この辺りでは北、南の土手がはっきりしていて、その間は掘削された人工的川だったということを示している。
市境界を流れる古市大溝
今まで見てきたように、古市大溝が33〜36m内外の等高線を行き、羽曳野丘陵東端の崖下を開削することが多く、古代からの地形に依存している。しかし、灌漑用水として利用されるようになると、池や水路の開削、堤防などの埋め立てなどにより、土地の改変による人工的地盤が多くなる。それらを成した者に所有権があり、それを元に水利権の争奪が繰り返される。その後、村単位、村の連帯(組合)単位で水利権が確立してくるようになる。その水利権は近代にも引き継がれ、現在の羽曳野市と藤井寺市の市域の取り合いにおいても、歴史的に積み重ねられた水利権を持つ村や組合などへの所属意識の違いが影響し、両市の境界は掘・川路を巡って決められている場合が多い。つまり、古市大溝が境界を流れるといっても良く、今まで通ってきたイズミヤや西側の古市大溝発掘地から下田池、上田池、中ノ池、そして堀川池を繋ぐ古市大溝は、大略、藤井寺市と羽曳野市の境界線を流れていたと言える。
ここの大溝は中ノ池と区切られ、明治期には堀川池と呼ばれ、この地域のため池として利用されていた。堀川池の北側は周辺地域よりいち早く宅地開発されていて、その後池を埋め立て住宅地を広げ、藤井寺市域として獲得していた。そのため、周りが羽曳野市の中に飛び地のように藤井寺市域がある。戦後すぐ、高度成長期、現在の中ノ池と堀川(跡)の様子は下記の写真にある(Web 風土記「ふじいでら」より)。
特に中ノ池周辺地域は羽曳野市と藤井寺市が入り組んでいて、中ノ池から東が藤井寺市藤ケ丘で西側は羽曳野市野々上という町名だが、先ほどの古市大溝跡と見られる背割り下水から北側の一部が陵南町という藤井寺市の飛び地になっている。これは東側の藤井寺市と道路1本でつながっているから、飛び地とは言えないのだろうが。
高鷲の町中を流れる。
埴生公園を越えた辺りから少し北側にカーブしているが、広場からは下り坂になる。その先を見ると自然なカーブを描いているが、これは川跡だというのがわかる。白鳥陵の時もそうだが、ゆっくりした曲がり道は川跡と見て良く、経験的にそうと言える。そして、その行き着く先は、中池というため池だったが、今はそこを埋め立て大きな団地になっている。池が埋め立てられ公共施設、学校とかグランドなどになる場合が多いが、人が24時間暮らす住宅、藤井寺グリーンハイツという4棟の大規模マンションになっている。地盤は大丈夫なのか心配になる。今はコンクリートで固められた池底に川筋が2本掘られ、北側で1本に合流している。
水路は水門のある出口から高鷲の町中を北へ流れていく。恐らく古市大溝も兼ねていたと見られるが、暗渠になっている。町中へ続く川筋らしき曲がりくねった道を行くと、西側が少し段丘になった街区整理された住宅地に入ってしまう。建物の間から東の先を見ると、何か川のような‥‥。そこへ行くと、東側の崖下を幅1.5m程度の溝がグネグネ曲がりながら、家裏を縫って流れている。ちょっとしたせせらぎで風情もある。西も段丘だったからここ一帯は扇状地だったようだ。中池は谷を堰き止め水を溜めたもので、そこで水を管理していた。中位段丘に挟まれた扇状地の東縁に沿って用水路が築かれ、暗渠になった西側の水路と高鷲の町を二手に分かれ流れ、近鉄線の手前で一本に合流している。
近代を経ていろいろ改修されているだろうが、古市大溝は跡形なくなくなっても上方から来る水の流れは止められない。藤井寺周辺は戦後急速に住宅開発された地で、今では田畑はほとんど残っていない。近鉄の藤井寺球場があったくらいだし、大阪に出るのに15分ていど、便利で環境も良く住みやすいところだ。住宅の脇を流れる小溝にかつての古市大溝の名残りを見るのは私だけだろうか?
雄略帝陵周辺~長尾街道
近鉄線ガード下に水が集まり、線路の下を潜って北方の住宅地へ用水路は伸びる。500mほど行けば府道12号堺大和高田線だが、そこから北にはまだ田畑が残る。と、宮内庁管理の陵墓があり、それがなんと、あの葛城氏を滅ぼした、憎き雄略天皇の墓だという。その辺りになると大溝は大きく改変されて、何本も細い水路が通る。そのうちの1本を辿ると暗渠の部分もあるが、雄略天皇陵の堀へ続いているのがわかる。先ほどの近鉄ガード下からの水路は近年に改修され付け替えられたのか、コンクリートも新しく、住宅街をまっすぐ東に走り遠回りして北に曲がり、雄略陵のはるか東を通っている。もう一つの円墳に見える墳墓は雄略陵の後円部ではなく、島泉丸山古墳・島泉平塚古墳であり、外濠が大きなため池となっている。その北側の縁を通るのが長尾街道だという。竹内街道と約2km北側を平行して走り、二上山の北側を越え、奈良の長尾神社まで行く。高鷲駅近くに大津神社があり、大津道とも言われるが、竹内街道のように古街道として整備もされず、ありきたりの田舎道の体である。
津堂は運河港?
この辺りからは縦横に水路が何本も通り、どれが古市大溝跡だと確定することは困難だが、なんとはなしに側の安養寺墓地中道に誘われ入って行く。墓地が途切れた辺りに大師池というため池に出食わし、土手道を歩く。この池の水を周りの田畑に分配させるための用水路が北の方に伸びるが、さらにその先にカラ池がある。古い地図ではいくつもため池があるが、かなり埋め立てられ、一つは津堂市民野球場、も一つは藤井寺高校になっている。古代には、この池辺りで水路が合流していて、1km西方の東除川に流れ込む。
大きな池を埋めたててできた藤井寺高校から藤井寺市立北小学校辺りは一段低く、古代には沼地や湖の状態ではなかったかと推測される。そこを開拓し運河交通の港にしていたのではないか。この地域の町名が津堂と呼ばれているように津、つまり船着場、港。堂とは人がたくさん集まる建物、船が集まると言っても良いかはわからないが、港に集まる人出の賑やかなところと言っても良いのではないか。つまり、ここに水路が集まり舟運が発達していて、人々も集まり賑わっていたとみられる。
南からは古市大溝の大運河とつながり、その水は西へと降り東除川へ流れ込み、それは北で平野川となり八尾から大坂へ、さらに河内湖から大阪湾への交通につながる⁉︎東からは、石川の古市辺りで取水し応神天皇陵・誉田を経て藤井寺の町中を王水川となって津堂港へと流れ込む。津堂港に接するように長尾街道が東西に走り、堺と奈良を結ぶ。つまり、津堂の港は、東西南北の水・陸をつなぐ結節点であり、河内と各地と結ぶ交通の要衝だったと言えるのではないか。と言っても考古学的遺物は出ていないようだが‥‥。
河川交通が盛んだった古墳時代⁉︎
この古市大溝が水運の運河として発達したのはいつの時代だったか?灌漑技術が発達し、農業用地が広がってからは、水運機能よりも灌漑用水路として利用されたのだろうが、古墳時代には農地開発はされていなく、これらは灌漑用水路ではなかった。なぜ水運が重視されたかと考えると大古墳築造のためではなかろうか。古墳表面に貼る敷石、遺体を納める石棺、古墳造営に関係する様々な道具、そして大量の人々の運搬など、大きな流通が必要とされたためではないか?
津堂遺跡は、藤井寺市北西部一帯に広がる古墳時代から中世にかけての集落遺跡で、大型建物、や祭祀遺構が発見されている。最近の発表(2022年3月26日)では、7棟の掘立建物遺構と、柱を抜き取った土坑に土師器の高坏や小型丸底壺が発見された。出土した土器の特徴が、約1m東にある津堂城山古墳から出土した土器とよく似ていることから、この建物群は津堂城山古墳の造営と深くかかわる可能性が高いと評価されている。この津堂の港周辺は物流拠点で、倉庫建物などが集まっていた、その証拠が津堂遺跡の発掘で証明されてことにならないだろうか。
カラ池から藤井寺北小学校の間の広々とした田園の風景の中に、巨大な運河港があり、船の往来が盛んで、周辺に港湾施設、宿や店、民家が凝集した、そんな港湾都市をイメージするのだが‥‥。河内平野には大和と結ぶ陸路としての街道が発達していたことに加え、古市大溝を中心に河川交通が頻繁だったという、古墳時代をそのような新しいイメージで見てみることも必要ではなかろか。