⑤大乗川に沿って

 再び三度、新町・井関からの出発となるが、王水(おうずい)川ともつながり、引いては古市大溝とも関係する大乗(だいじょう)川を探検して行きたい。

古市大溝と大乗川

水を守る水守

 新町井関から東の方に水路が延びているとは思わなかった。そのまま北へ向かう方が古市へは速いのだが、地元の事情というのがあるのだろう。つまりこの井関の管理をしていたと思われる「水守」という字名のある土地が井関の東側に広がっており、そこ一帯の田畑を潤すために東に向かうのではないか?水守から東阪田への地形は石川に対する河岸段丘で、その先は河岸に向け下り坂になっている。水路は工場や倉庫の間を100mほど東に行って住宅街の手前で北へ直角に曲がる。その曲がり具合を住宅の隙間から堤防沿いに見ていると、おばさんがジロジロ見と見ながら通り過ぎていった。不審がられたのだろうが、その住宅街を離れるまで遠くからの視線をずうっと感じていた。ま、そうだろうね、いきなり侵入してきてスマホで写真、川端で動画まで撮っている。もうちょっとフレンドリーな方だったら、何かのきっかけで話しかけるのだが、距離を取って監視されていた。

水路は、工場・倉庫街から住宅街の西縁へ曲がり、北へと伸びる。

東高野街道に沿って

 さて、この河岸段丘の縁に沿って南北に東高野街道が通っている。そこを北へ向かうと南阪奈道路の高架が立ちはだかる。水守の町は東高野街道に沿って邸宅が並ぶ落ち着いた町だったが、高速道路とその側道により町が完全に分断されている。南阪奈道路の北側は工場街になり、大きなリサイクル工場ができていた。さらに行くと、東高野街道の西側に沿って水路が延びるが、恐らくこの水路の位置は、古代からのままだろう。5mの幅もあろうか、割と広い水路で、500mほど行くとスーパーのサンプラザがあって、その前の旧170号を斜めに横切り北西へ伸びる。地元では城山と呼ばれる丘陵地に差し掛かるので、それを避け南から西側の崖下を開削して水路をつけたためだろう。この丘陵地の北端に安閑天皇陵がそびえ、戦国時代には高屋城が構えられていた。

国道170号、近鉄線を潜る。

 旧国道170号を越えると、近年までは生コン工場の広大な敷地だったが、今はフジ住宅が開発した戸建て住宅造成地になっている。この辺りはいつも電車から眺めているが、新造成地にもポツポツと住宅が増えてきた。造成地の東縁に沿って水路が伸びていて、そのまま近鉄線のガードを潜る。この手前のコーナンにはよく行くのだが、親の言付けがあったみたいに、その先には行ったことがなかった。結構幅広い水路だが、この大乗川は大和川水系の一級河川でもあったのだ。子どもの頃、まだ川幅も狭く、まとまった雨が降るとこの辺りから近鉄の古市車庫までが浸かって、白く浮き上がって見えたことを思い出す。そんなこともあって、幅広く改修したのかも知れない。

 川の両側には戸建て住宅が立て込んでいるが、東側の住宅街の上に見えるのが安閑天皇陵の森だろう。川幅も広く安全なのか、高富養化で餌が多いのか、天然の鴨が数十羽遊んでいる。投網で獲れないものか?

古市の鉄道広場

 ブラブラ行くと左手に古市車庫が見え、その付近の川の両側は樹木も植えられ、なかなか良い風情の散歩道になっている。柳の木の向こうに国道170号の架橋のガードが見え、その下へ水が吸い込まれていく。ガード横の階段を登れば車の往来は激しいが、隙を見てそこを渡り、安閑天皇陵に挨拶して、反対側に降りる。橋の下から東側一帯は近鉄線が吉野からと河内長野からの線路の合流点で、大きな三角形の空き地になっている。大乗川はその南端、安閑天皇陵の北側崖下を流れることになる。川淵には柳の大木が数本あり、垂れ下がる枝が風に揺られ、そこだけ時間が止まっていて原始からそのままの風景だったように思える。その風景を突き破るように、轟音とともに電車が鉄橋を渡っていく。そんな様子が柳越しに見られ、鉄ちゃんでなくとも楽しくなる。

時折河内長野への電車が鉄橋を渡る。

石川に合流する大乗川

 三角広場を斜めに横切り、古市の町中に入る。細い入り組んだ道に迷い込み、何度も引き返したりしながらやっとのことで水路まで到達した。

安閑天皇陵の北側を回り込む大乗川。

 東阪田から水路と並行して北に進んだ東高野街道は、安閑陵の東側を通り近鉄の踏切を越えて古市市街に入る。大乗川は安閑天皇陵の北側を回って近鉄吉野線に沿って東へ流れるので、ここで東高野街道とはお別れである。古市は河内木綿などの輸送拠点として栄えたが、船着場付近に水運の安全を祈る金比羅大神宮があった。水路が石川に近づくところ、羽曳野市水道管理センター北側に神宮が置かれている。その辺りから湾曲し石川にしばらく並行し、竹内街道を太子へつなげる臥竜橋を潜った辺りから石川の土手内に入り、石川本流へと向かって流れるのである。

 前回見たように、石川と合流する少し前に王水樋という水門があるが、王水川の水はここから取水する。王水川の水は石川から取水するとは言え、実際には大乗川の水を取水することになる。大乗川は途中で数多くの川や水路、溝などから水が流れ込むが、元を正せば、河南橋辺りから取水した石川の水であり、古市大溝の水を分流しているということになるのである。

王水川大乗川古市大溝
古市大溝王水川大乗川は取水排水しながら石川とつながっている

 今まで見たきたように、古市大溝、王水川そして大乗川においても河南橋付近から取水した石川の水であることがわかり、全てが繋がっている。1500年前の古代から営営と築かれてきた河川は今も概略は変わらず滔々と流れている。そのことを想うと、人間はさまざまに地形を変え、人工化してきたとはいえ、水の自然流下性、水路の不可逆性を変更することは決してできないのである。人間の営みは水の自然力に抗しては成り立たず、歴史は水の流れに従ってのみ継続していく。そのことを畏れをいだきながら悟るばかりである。(探検日2021.10.29)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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