東除川は蛇行する

 再び東除川に沿って歩くことになり、菅生、平尾、美原、河原城、樫山、そして恵我之荘を通って行く。大阪狭山市立斎場から恵我之荘辺りまで、直線距離が13kmに対して標高は60mから22m、38m下るが、その傾斜角度はわずか0.17度。家の傾きの許容範囲の角度は0.3度とされているから同一平面、無視しても良いくらいの傾斜でしかない。その分、東除川は大いに蛇行していたとみられる。河川周辺に居住され始めて2000年以上になろうが、流路の変更はかなりされてきた。そんな人の暮らしの跡も見付けながら川沿いを下って行くのだった。

古代から続く菅生集落

 市民ふれあいの里などの公園地帯を過ぎると田園地帯が広がり、田畑の向こうに東除川が近づいてくる。ゆったりと曲線を描く川筋は、水も自然流下のままに穏やかに流れていて、昔のままなのだろう。きれいな水面にサギも羽を広げるようなのんびりした風景がある。川の東側に沿って林が続くのも昔のままで、羽曳野丘陵の西裾に沿って流れを作っていることを示しているのだろう。

上左:菅生南方の川筋は緩やかに曲がる 同右:サギが集い、水は清らか 下左:羽曳野丘陵西裾が迫る

 川は菅生(すごう)の町に近づき、急きょ東に、ほぼ直角にカーブする。カーブの直前に菅生神社がある。創建は不明だが、周辺には中臣氏の出身者が多く住み、地名から菅生氏を名乗り、この地を支配していた。8世紀の孝謙天皇時に記載もあり、古代からの集落だと見られる。この地は洪水で長年悩まされていて、集落を守るため川は曲げられた?標高を調べると、5~7mの段差がある崖のような線が菅生の町中を通っている。川が曲がらなかったらちょうどこの線を進むことになるので、元の川筋はここを通っていたと推測ができるのだが。

上左:生神社 同下:曲がる川の先に神社の杜が見える 下:東除川は菅生の集落南側を流れ、緩やかに曲がり北へ向かう

 その後、川は自然の流れのように蛇行しながら国道309号線を潜り、さらに大きく蛇行を繰り返し北方に伸びていく。東側からはPL教団本部辺りを水源とする平尾小川が合流してくる。こんな形で羽曳野丘陵から東除川に多くの川が流れ込んでくるが、西側からは一本も流れ込まない。東除川から西側は西へとやや低くなる平板な土地で、灌漑用水はため池から取られることもあり、東へと流れる水源がないのである。

上左:309号線を潜り東へ向かう 上右:309号線の彼方にはPLの塔が見える 下左:羽曳野丘陵からの川が合流する 同右:羽曳野丘陵からの流れを受ける東除川水系図

丹南の河内鋳物師

 美原高校付近を過ぎると小平尾という地名になり、田畑に住宅や工場、倉庫などが混在する風景になる。しばらく行くと対抗二車線で道幅も広くなり、赤い煉瓦敷きの「東除川緑道」と名付けられた遊歩道が川沿いに伸びる。日覆の屋根の下にベンチがあってしばし休む。最近はこういう腰掛けるところがあるとありがたい。遊歩道を気持ちよく歩いていると、ひと塊の林が見える。そこに5m四方くらいの土盛りがあり、古墳のようにも見えるが、なんら説明がない。横に伸び放題の樹木に囲まれたプレハブの建物があるが、ごみが詰まった廃屋。車道が迂回するくらいのアンタッチャブルな世界のようで、訳がわからないまま次に進む。

上:小平尾辺りを流れる東除川 下:東除川緑道

 先の方に南阪奈道路の高架が見えてきたところで、工場の建物が立ち並ぶ場所に差し掛かった。遊歩道に「おしゃか」のいわれが書かれた金属製の説明板が突然現れた。この辺りは古代難波と大和を結んだ竹内街道にも近いところで、河内鋳物師が活躍した河内国丹南郡(堺市美原区小平尾・多治井)と言われる地域である。渡来人が伝えた先進的な鋳物技術を学んだ河内鋳物師は、ここを拠点に全国の鋳物業をリードし、東大寺の大仏修理や鎌倉大仏の鋳造に参加したとか。特に梵鐘の鋳造技術は抜きん出ていて、12〜3世紀に鋳造された梵鐘の8割を河内鋳物師が作ったとされる。その作品分布を説明する鋳造板もある。古代の河内鋳物の技術が今にも伝えられてきたという名所に出合えて、我が故郷の誇りに似たものを感じた。

東除川緑道には河内鋳物師のいわれを書く鋳物板のディスプレイがある

 さて、自宅から堺方面に行く時は南阪奈道路の側道を通るのだが、その下を東除川が流れいるなんて気も付かなかった。信号のある所まで遠回りして側道を渡り元の川筋の道に戻るのだが、だいぶ太陽も傾いてきた。ぶらぶら歩いていると、対岸の岸壁に映る三角形が四つも並ぶメルヘンチックな影絵が目に入る。三角屋根の工場が4棟並んでいるだけなのだが、この時間帯ならではの風景だ。影絵の先には、サギが獲物を狙って立ち尽くしている。川は勢いよく流れているが、サギには時間が止まったように見えているのだろう。こちらもしばらく佇んで見ていたが、その間中いっときも動かない。実に辛抱強いというか、彼らの時間感覚とは如何なるものか、とても不思議な感じがした。

上:アオサギとシラサギが獲物を狙う 同右:南阪奈道の高架 下:工場の三角屋根の影

自然植生の川岸林が残る

 工場が途切れた所、切り立った崖の上に雑木林が現れた。高さ5〜6mはあろうか、帯になった丘が南北に伸び、ここだけが開発に取り残されたように見える。後に羽曳野市史で調べたが、この林は太古からそのまま残る川岸林と言われる自然植生で、以前は川の両岸に連続して見られたというが、東除川ではここしか残っていないという。意外や、ここにきて古代風景と出逢えるなんてね。いつまでも残っていてほしい、切に願うのである。

上:自然植生の川岸林 下左:西側の丘陵部から見た林 同右:川上から見た林全景

 ということは、うねる川を真直ぐに付け替えたということだ。元の川筋は、川岸林に沿って西の方に曲がっていた。その川上は、今の川を横切って東側に大きく蛇行しながら流れていた。河原城町会駐車場となっているが、へた地のように斜めに住宅地に食い込む空き地は元の川の土手であっただろう。さらにカシミール航空写真を見ると、2~3mの段差になって川跡のような崖が大小の曲線を描きながら南の方に続き、南阪奈道側道に近いところで元の川に入るようだ。意外とあちこちで元の東除川は真直ぐな川に改修されているようだ。

上左:旧川筋は、川岸林の方から川を越え芝地の方に伸びていた 同下:芝地から南方へ蛇行していく 下左:さらに河原城苑を回り込んで蛇行する 同右:その後現東除川に繋がる

河原城にお城があった

 そんな感慨を抱きながらしばらく行くと、四辻に立派な地蔵堂が建っている。その壁に、「河原城跡」を説明するボードが掛かる。地名として河原城を知っていたが、お城のことだとは思わなかった。元弘の乱(1331年)の時、楠木正成に従った河原弘成が東除川に沿った丘陵地に砦を築いたとされる。川に沿ったところは標高35~6mで、先ほど見た一段高くなた川岸林から西方は40m以上あり、丹比小学校を含むその南部一帯に城の区域が広がっていたとみられる。今でもその辺りには城山、城畠、城脇などという小字名が残っているという。

上左:丹比小学校の南側一帯に城(砦)があった 同右上:小学校入口にある地蔵堂 同下:川岸林に続く高台に城があった 中左:川岸林に沿って城があった 同中:ため池部 同右:クレイン乗馬場 下左:城跡南端部?から 同右:川を挟んで東側にも広がっていた

竹之内街道が通る町

 ますます影が長くなってきたが、先を急ごう。川は大きく東に湾曲し大和川合流点から6.6kmのところまで来た。さらに東除川は羽曳野市内の北部に位置する郡戸、埴生野、樫山という地名のところを蛇行しながら流れる。川の両側には、スーパー•マンダイや工場、住宅、マンションなどが混在して建て込んでいて、もう畑地など見当たらない。そんな市街地を流れる川に架かる橋の名が、「伊勢橋」とある。周辺に伊勢と付く地名はなく、これは伊勢神宮に詣でる時に渡る橋で、かなり古い街道が通っているのではないか、と察しがついてGマップを見ると、竹内街道とある。堺の仁徳陵辺りから真東に伸び古市を通っていく。橋の袂をよく見ると、河原に降りていくスロープが付いている。ひょっとして、南の狭山や金剛の人は船に乗り東除川を下り、ここで降り竹内街道に入って伊勢に向かった。または船着場で、ここで荷物を積み替え、竹内街道を使って堺や河内に運んだ?そんなことがあっても不思議ではないだろう。川は排水路でもあるが、人や物を運ぶ運河でもあるのだから。

上左:河原城から大和川まで6.6km 上右:河原城から樫山の川筋 下左:伊勢橋(竹之内街道) 同右:河原へのスロープ

 川沿いの道は、日頃よく通る堺羽曳野線と交差する。西に行くと阪和道とループを回りながら交差し、片側2車線の中央環状線に入る。さしずめ現代の竹内街道と呼べるもので、河内と泉州をつなぐ大動脈だったが、今はあちこちに高架の高速道路ができて、その機能も曖昧になってきている。大阪南部地域は、大阪市内を経由する南北の幹線道路は充実しているが、東西をつなぐ道は今でも手薄、このことは鉄道でも言えることだが・・・・・・。古代には、今とは逆で難波と大和の連絡が重要だったから東西を結ぶ街道が多く、南北は高野街道と紀州街道程度だった。その理由は、南北には川筋が何本も伸びていて、水運が人・物の流通に大きな役割を果たしていた。この東除川もそんな機能を持っていた、そんなことが言えないだろうか。

下:恵我之荘辺りは住宅が建て込む 同右:恵我之荘駅への道

 道路を越えると、恵我之荘に入ってくるが、この辺りは完全に住宅街で、川沿いには小住宅が密集している。狭いながらも公園もあって、子ども達が元気に遊んでいる。数十年前には川遊びも盛んだったのだろうが、数々の水難事故もあって、川淵には高い鉄の柵が隙間なく張り巡らされている。もう日もどっぷり暮れようとしているが、子ども達の歓声はいつまでも続いている。今回はこの辺りで打ち止め、近鉄・恵我之荘駅から電車に乗って帰ることにする。(探検日:2023.11.8)

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phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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