雄略以後―河内から飛鳥への道

 昨年(2023年)、はびきの市民大学なるものに初めて参加したのだが、古市・百舌鳥古墳群における発掘調査に長年従事されてきた考古学者の天野末喜氏による「大古墳の被葬者を考える」の連続講義を受けた。世界遺産でもある大古墳の被葬者が定説とはかなり違うという説明に感銘を受けた。特に「倭の五王」とされる大王とその陵墓について、讃=仁徳天皇(大仙古墳)、珍=反正天皇(土師ニサンザイ古墳)、済=允恭天皇(市野山古墳)、興=安康天皇(軽里大塚古墳(白鳥陵))、武=雄略天皇(岡ミサンザイ古墳)としており、反正、安康、雄略の各天皇陵墓が定説とは大きく違うのだ。円筒埴輪、須恵器、副葬品などによる年代確定と、記紀や『宋書』などの文献資料からの場所や即位時期確定における説明には納得するものがあった。

岡ミサンザイ古墳=雄略陵

 とくに長年仲哀天皇陵と了解していた岡ミサンザイ古墳が雄略天皇陵であるということに、唖然としながらも深く納得するものがあった。5世紀後半の朝鮮半島の動乱期に対処するため、雄略帝は軍事力の増強とともに国内の経済基盤の充実を図り、国力増進に大きな変革をもたらした。ところが、その墳墓は円墳と方墳をくっ付けた島泉丸山•平塚古墳とされた。雄略は帝位継承の邪魔となる親族を殺すなど専制政治を行い、敵も多く恨まれる存在でもあったことから、死後の墳墓築造にクレームが入り、貧弱なものになったとも聞いていた。それとはまったく違って、大墳墓である岡ミサンザイ古墳であるなら、偉業を成し遂げた雄略の御陵として納得のいくものだ。

雄略陵、仁賢陵、清寧陵という配置

 雄略天皇以後、王権の不安定な時期には墳墓は小規模化し、横穴式石室の採用、武器でなく宝飾品の埋蔵など、陵墓のあり方に大きな変化があった。大王個人を偲ぶためとされるが、配置にも大きく異なるものがある。石川河岸段丘上に並ぶ允恭、仲津姫陵(実はこれが仲哀陵だと・・・)、応神陵という系列に対し、雄略以後の系列として、仁賢、清寧の各天皇陵は羽曳野丘陵東裾部に沿って並ぶ。五王のうち興、すなわち安康天皇陵とされる軽里大塚陵(白鳥陵)、さらに、安閑天皇陵がそれらの東側の古市高屋丘に築造されたところを見ると、東へ向かう街道沿いに配置されたことに大きな変化を見ることができるのではないか。

河内から飛鳥へ=蘇我氏の時代

 さらに石川を渡り、駒ヶ谷(近つ飛鳥)に百済王族の昆支王を筆頭に多数の百済からの渡来人が定住したこと。河内大塚古墳が欽明天皇のモガリ場で初葬の墳墓とし、後に遠つ飛鳥の梅山古墳に埋葬され、欽明陵が河内から飛鳥へ移行したこと。蘇我稲目の娘•堅塩姫を妃とする欽明天皇にとって、蘇我氏との関係は深いものがあり、その子である敏達、用明、推古へと続く天皇の陵が近つ飛鳥の太子にあること。これらの政治潮流の底には来たる新しい時代を先取りする大きな構想力が働いていた、と見ることができないか。それは後に、難波を外交の窓口にし、「難波より京に至る大道を置く」(推古天皇)とした大道の道筋に重要拠点を配置し、飛鳥を新しい都とすることで実現していくのであるが・・・・・・。

 古墳時代後期、5世紀後半から6世紀にかけ、大和政権が連合性から大王による中央政権支配へと大変革を遂げようとする中、政権拠点が河内から(近つ・遠つ)飛鳥へと移行していく。今回の古代史探検は、この道筋を史跡や陵墓で見て行うとするのだが、6世紀に強大化する蘇我氏は、雄略天皇に始まる大改革の時期すでに次なる世界を見出そうとしていたのではないか、そんな妄想もしてみたい。とりもなおさず、それらの史跡、古墳をつなぐのが竹之内街道であり、その道に沿って歩くことから始めたいと思う。

上左から:雄略天皇陵(岡ミサンザイ古墳)、アイセルシュラホールから雄略陵、下田池から二上山 中左から:仁賢天皇陵 峯ケ塚古墳、清寧天皇陵 下左から:安康天皇陵(白鳥陵)、近鉄線から安閑陵、安閑天皇陵
 
投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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