峯ケ塚古墳
仁賢天皇陵の南方500mのところにあるのが峯ケ塚古墳、令和4年(2022)に3m50cmを超える日本最大の木製埴輪が発掘されて一時話題になった。墳丘長96m、前方部幅74.4m・高さ10.8m、後円部径56m・高さ9mで、仁賢陵と同じく末広がりの幅広前方部を持つ。後円部で4.3m×2.2mの大きな石室が発掘され、竪穴式と見られているが、横穴式と言っても良さそうな石室である。そこから3500点以上の副葬品が出土しているが、古墳時代中期的な武器・武具の多量副葬と渡来系要素の強い金・銀製品の副葬の中・後期両方を合わせ持つ過渡期の様相を示す。


上左・峯ケ塚古墳から安閑陵への歩行軌跡(カシミール3D) 同下:峯ケ塚古墳前方部左側から後円部を見る 同右:前方部右側から濠を挟んで後円部を見る 下左:後円部から前方部を見る 同中:日本最大の石見型木製埴輪の模写図 同右:後円部
築造年代は雄略陵より遅れ、仁賢陵、清寧陵よりは早い時期、6世紀初頭の大王級の墳墓と考えられている。 峰ケ塚古墳は宮内庁治定の大王墓ではなく羽曳野市で発掘調査が進んでいるが、被葬者を特定できるまでに至っていない。南側にため池化している外濠が現存し、さらに周りに二重の濠があったことが発掘調査で判明している。内濠の幅11m、内堤の幅18m、外濠の幅8mで、墓域は総長168m、幅148mの大規模なものだ。外濠外提上と思われるところに立ち墓域全体を見渡すと、濠に囲まれた墳丘が山と成す光景が立ち現れ、古墳という構築物の壮大さが間近に迫ってくる。コンパクトながらも外濠も含め古墳全体が、管理棟も含めた公園敷地内に確保されている史跡はそんなにない。その意味でも峯塚公園の価値は高いものと思われる。因みに、我が子たちの中学校は公園の南側、羽曳野撓曲の崖上にある峯塚中学校、ダルビッシュ有さんも通っていた学校だった。


上左:後円部側の外濠外提と思われる所から見る全景 同右上:等高線図 同下:墓域想定線を描いてみた 下左:後円部側の内濠外堤から墳丘全景 同右:羽曳野撓曲の崖上にある峯塚中学校
清寧天皇河内坂門原陵
峯ケ塚古墳の東側の道は羽曳野撓曲の崖下を行く道だが、これに沿って左手に大きなため池の芦が池が横たわり、その向こうに山のような盛り上がりが目に入る。この辺りで山と言えば古墳と見て間違いはない。位置関係から言って白鳥陵と呼ばれる軽里大塚古墳、それに重なるように二上山が奥に控えている。二上山もこの地では大きなランドマークだ。

上左:芦が池の向こうに白鳥陵と二上山が見える 同右:芦が池南側の住宅の後ろに清寧天皇陵が見える 下左:清寧陵に近づく 同右:河内坂門原陵と坂門ヶ原保育園を結ぶ、その距離は約2.3km
住宅が芦が池を遮るようになると突然宮内庁の看板、「清寧天皇河内坂門原陵」が現れる。私の住まいする「尺度(しゃくど)」という地名は、「(西)坂田(さかだ)」とも呼ばれていて、さらに「坂田」は「坂門原(さかとがはら)」の「坂門」から来ていると伝え聞く。同じく我が子たちは東坂田地区にある東高野街道沿いの坂門ヶ原保育園に通っていた。この陵とは2km余り離れているのだが、「坂門ケ原」と「河内坂門原」と一致するのかどうか。宮内庁による陵墓所在地名称はどのように決められるのか、改めて調べてみたい。
左:北からの西浦地区への入り口(坂の下)には地蔵堂が建つ 右上:峯ケ塚古墳から続く清寧陵前の道 同下:峯塚中学校への坂道
さらにこの道を少し行くと谷間に降りる急坂となり、西浦集落に入って行く。私がLICはびきのや図書館に行く時は急な上り坂で、アシスト自転車のモードをパワーにし、シフトを1にしても難儀するくらいだが、標高38mから43mへの落差5mを一挙に登ることになる。清寧陵のある中位段丘はそのまま東に広がり白鳥陵まで続くが、古市古墳群はここを南限とする。
清寧天皇陵
清寧天皇は雄略帝の第3皇子だが、跡取りがいなかった。雄略帝が殺害した市辺押磐皇子の億計(オケ)王(後の仁賢天皇)と弘計(ヲケ)王(後の顕宗天皇)を宮中に迎え入れ、それぞれ後継とした。星川王子の乱を鎮めたこと以外には功績を聞かないが、生まれながらの白髪であったことから白髪大倭根子命と別称されたが、短命で在位期間は4年、墳墓は白髪山古墳とも呼ばれる。
上左:清寧天皇陵前方部 同右上:前方部右側 同下:拝所の奥にそびえるように立つ前方部 下:南側から見た墳丘全景。前方部が地形的には高い(2枚の写真を合成)
墳丘長115m、前方部幅128m・高さ11m、後円部径63m・高さ10.5mの前方後円墳で、前方部幅が墳丘長より長く、後円部径の2倍もある。清寧陵は峯ケ塚古墳と仁賢陵の中間期の築造で、この時期の流行だとも言えるが、末広がり型の前方部を最も誇張した形となっている。羽曳野撓曲の下を通る道からは前方部を見下ろす形になり、巨大な陵墓であることを印象付ける。拝所近くには外濠の際まで行く道がないが、一カ所、ピロティ式のマンションの駐車場があり、その端から前方部の全景が見通せた。水を満々と湛えた濠とその向こうに前方部の森が鬱蒼と茂る。東方の後円部に近い葬儀場の駐車場まで回り込むと、後円部から前方部までの全容が見えてくる。横から見るとくびれが意識されなくて、平板な森が広がるだけだが、かなり大きく見える。末広がりの形は、前方部の大きさを見せるだけでなく、前方部の裾が長くなる分、墳墓全体が引き伸ばされて横に長く見える。前後左右でいかに大きく見せるかの工夫が、この前方部末広がり形なのだと実感する。
西高東低の地形を生かした造墓
周りを歩いてもわからないのだが、カシミール3D地図で調べると、西側の前方部外堤の標高が43m、東側の後円部外堤が39mで4mの高低差がある。そのままだと外濠の水は東側に偏ってしまうので、標高40mのところに濠を区切る堤を付け、高さの違う二つの池にしているのである。濠幅を入れると端から端まで170m以上の距離がある土地の高さを揃える工事はしにくかった、というよりも、西側から見て前方部を少しでも高く見せるためには西高東低の土地はそのままにしておく方が有利だった、そのように推測するのだが。


上左:清寧陵周辺の高低マップ(カシミール3D) 同右上:清寧陵南側の住宅は緩い坂に建つ 同下:後円部外提下から 下左:外濠を仕切る堤 同右:堤は一段高いところにある
後円部の外堤は国道170号外環状線に接していて、西浦からの坂道を登ったところで墳墓が真横に見える。国道を渡ると、清寧陵と軸を合わせるように小さな前方後円墳が横たわっている。清寧陵の陪塚と考えられる小白髪山古墳。小さいといえ、墳丘長46m、後円部径24m、前方部幅23mあり、基壇部には盾形の周濠があった。
左:小白髪山古墳、前方部から後円部を見る 右上:清寧陵から外環状線を隔てて見る 同下:後円部から清寧陵を見る
白鳥陵は安康天皇が眠る
羽曳野丘陵の裾野に広がる中位段丘は、南方から見ると5〜6mの高さの丘となって東に伸びている。そこに軽里大塚古墳が乗っているのだが、平地より少し高いところに墳墓が造成され、周辺を通る街道からは見上げる形になるよう配置されている。清寧陵からわずか300m北東にあり、白鳥陵として有名である。日本武尊(やまとたける)を被葬者としているが、その存在自体が疑問されている。存在したとしても、日本武尊は仲哀天皇の父、応神天皇の祖父に当たるわけで、応神天皇の在位を4世紀末とすると、日本武尊の活動時期は4世紀後半と推定できる。考古学的な観点から軽里大塚古墳築造は5世紀後半とされることから、1世紀近く後になる。その頃の大王として当てられるのは、倭の五王のうち興に当たる安康天皇と考えられる。倭の五王のうち古市古墳群に墳墓が存在するのが、済の允恭天皇陵、武の雄略天皇陵となるが、大きさといい整然さといい、軽里大塚古墳は興の安康天皇に相応しいと言える。
竹内街道沿いの安康天皇陵
墳丘長200m、前方部幅165m、後円部径106mの前方後円墳、仁賢陵や清寧陵などと同様に前方部幅が後円部径よりはるかに長く、5世紀末〜6世紀にかけての「新タイプ」、末広がりの美しい形をしている。周りに陪塚がなく、周囲に濠を巡らせ幅の広い外堤を築き、その外を掘り込んで外堤の存在を際立たせている。末広がりの前方部を手前の道から眺めながら歩いていると、その巨大さが伝わってくる。


上左:清寧、安康、安閑の各陵墓周辺の高低図(カシミール3D) 同右:高くそびえる安康陵の遠景 中:安康陵の墳丘全景(2枚の写真を合成) 中:安康陵前方部・拝所・後円部 下:安康陵の北側を通る竹内街道、東の彼方に二上山が見える
古市大溝は安康天皇陵の南から東に回り、北側の大溝発掘現場である現イズミヤ駐車場へと標高36mの一定の高さで流れていた。その流れに沿うように竹内街道が北側の外堤上を通り、ここから東方彼方に駒ヶ谷や二上山が眺められる。古墳を遠くに近くに眺めながら旅する人々は、安康陵の整然とした美しさとともに、倭の五王・興の偉業を知ることにもなったであろう。さらに旅人にとっては、この地は二上山麓にある太子や大和への思いを馳せ、次なる旅へと向かう道筋に位置していたのである。
谷間を近鉄電車が走る
安康天皇陵の南側の道を東に行くと、旧国道170号に入り、近鉄長野線の軌道をまたぐ橋を渡ることになる。羽曳野丘陵からの中位段丘はここで東側に急崖となり落ち込み、谷を挟んで誉田断層上にある別の中位段丘が現れる。これらの中位段丘間の谷間を近鉄電車が走っている。電車道の西側に古市車庫があり、私が小学生の頃、大雨が降れば必ず浸かるところだった。地形から見ると周り一帯は標高が30m内外で、一番低い位置にあり、南から大乗川の水がいっときに流れ込むと両段丘に挟まれた狭い谷間で堰き止められ、この手前の古市車庫などが水のあるれる場所になるのだろう。今は大乗川も太く改修され、ここで大きく東に曲がって石川へとスムーズに流れ込むようになっている。



上左:古市の町中で竹内街道と東高野街道が交差する 同右上:古市車庫検車区合同棟の東側を流れる大乗川 同下:旧国道170号線のガード下を潜る大乗川 下左:中位段丘の間の谷を走る近鉄長野線 同右:安閑天皇陵
石川沿って標高37m程度の中位段丘を形成しているが、その北端に安閑天皇陵が後円部を東向きにして横たわっている。羽曳野撓曲から丘陵東縁に位置する古墳はどれもが後円部を東に向けていることに、今更ながら気が付いた。このことは何を意味するのか知らないが、東へと旅人を誘っているようにも感じるのだが。
春日山田皇女のこと
安閑天皇の父は継体天皇、母は尾張連草香女で大和系列ではないが、その妃は仁賢天皇の皇女・春日山田皇女である。その母は和珥氏の出身だが、和珥氏は大和で最も古い氏族の一つで、安閑帝は継体系列が大和化されていく過程にあった。和珥氏は6世紀に春日氏などに分かれ、和珥春日氏が中心となるが、後に蘇我氏追いやられ、蘇我氏が政治勢力の中心となる。安閑帝の妃の名、春日と山田は太子周辺の字名で、竹内街道を歩いて行くと、駒ヶ谷、上の太子、春日、太子、山田という地名の所を通ることになる。継体帝の子を大和に馴染ませ、太子に拠点を移させる策略がこの妃の名称に隠されているのではないか?この策略の首謀者はもちろん蘇我氏である‥‥という妄想を抱くのだが。
安閑天皇陵
墳丘長122m、前方部幅100m・高さ12.5m、後円部径78m・高さ13mの前方後円墳。前方部幅が後円部径よりかなり広い末広がり形は共通している。中位段丘北端は標高38m程度あり、それプラス12〜3mの墳丘高があるので、50mの高さがある。東高野街道が北から安閑陵の後円部東側を回り南方へと向かうが、近づくにつれ大きな森のように見えてくるこの墳墓は、街道の格好の目印になったのに違いない。また竹内街道は安康天皇陵から東へ坂道を下り、標高30m程度の古市市街を通るが、山のように高く聳える御陵が東への旅を促してくれただろう。

上:安閑陵前方部(2枚の写真を合成) 中左:安閑陵の空撮(古墳説明板より) 同右:後円部左側から見た外濠沿いの墳丘 中左:東高野街道沿いの古い町並 同右上:安閑陵後円部には住宅が迫る 同下:古市の町中から安閑陵を望む 下左:通り越しに見る安閑陵 同右:日本武尊陵とも見られる白鳥神社
古市駅へ向かう帰り道の途中、何度も振り返りこの森の存在を確かめた。今はビルやマンションなどで視界がさえぎられることが多いが、通りや家々の間から垣間見ることができる。東西南北、どのように旅しても、この安閑陵は優れたランドマークだっただろう。見栄えを意識しながら安閑陵をこの場所に選定したのは、石川を越え駒ヶ谷、太子の地への誘導を画策した者がいたからだ、と思わずにいられない。見事なロケーション配置なのだ。
継体天皇の没後、安閑・宣化と欽明の朝廷が並立し、二朝間で内乱(辛玄の変)があったとされるが、歴史の示す通り、それ以後は敏達、用明、推古へと続き、欽明天皇系列になり、遠つ飛鳥で政治を摂り、近つ飛鳥に墳墓を築くことになった。その方向の元となったのが安閑天皇ではなかったか、と墳墓の位置とその方向から推定するのだが‥‥。
ありがとうございます
楽しみにしています。