改めて飛鳥の古代史探検を豊浦から始める。近鉄橿原神宮前駅から真東に伸びる道、県道124号線は飛鳥川を越える時ちょっとずれるが、前回にも歩いてきた安倍・山田道とつながっている。橿原神宮前駅東口からバスでやって来て、豊浦駐車場駅で降りるや否や東の空に暗雲が立ち上り、そこから一筋の光線が漏れた。まさに風雲急を告げるごとくだったが、果たして、何も起こらなかったが・・・・・・。

上左:豊浦から飛鳥京方面を歩いた軌跡(カシミール3D) 同右上:風雲を告げる雲か 同下:民宿にしている民家をあちこちで見かけた 下左:豊浦の刈り取りを終えた田んぼ 同右:山田道は飛鳥川を渡り真直ぐ西へ、橿原神宮駅まで延びる(豊浦駐車場に立つ案内地図)
豊浦宮
豊浦はこじんまりとした村里という感じだが、飛鳥における最初の宮が築かれ、ここから飛鳥の宮都としての歴史が始まったという記念すべき場所なのだ。推古天皇が593年に豊浦宮で即位し、それ以来100年に及び歴代天皇は飛鳥の地に宮を造った。豊浦の地は、推古天皇の母方の祖父・蘇我稲目の向原家のあったところで早くから蘇我氏の本拠地だった。物部氏を滅ぼして絶大な権力を得た稲目の子・馬子は、飛鳥の中心・真神原(まかみがはら)に飛鳥寺を建立する一方、皇居をも自らの本拠地に遷移させたのである。それまでは歴代天皇は磯城や磐余に宮を築くことが多かったが、初めて飛鳥に、それも蘇我氏の私邸に宮を築くほどになり、宮廷をも我がものとしようとしたのである。
豊浦寺は四天王寺伽藍配置?
北側から村中に入って行き、向原寺、甘樫坐神社、難波池神社と回り、さらに南へ、もう村のはずれと思われるところに石で覆われた一角があり、塔心礎の基壇とされる石敷きだとみられる。豊浦宮の後に蘇我氏の氏寺でもある豊浦寺を建てたが、現在の向原寺はその講堂があった位置に当たり、金堂跡は南側の豊浦集落の集会所辺り、南端の石敷きが塔跡とすると、南から塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置の寺院であったように思われる。このように、古代豊浦寺は現在の豊浦の村全体を覆うような大きさで、推古の豊浦宮もこのような規模だったように見られる。

上左:豊浦寺跡の石碑が立つ向原寺 同右上:金堂とみられる集会所 同下:塔の基壇跡とみられる石敷き 下左:甘樫坐神社 同中:四天王寺式伽藍配置とみられる豊浦寺 同右:豊浦の家並み
10年間居住した豊浦宮から603年にすぐ近くの小墾田宮に遷都することになるが、これには600年の第1回遣隋使の派遣が大きな契機となった。隋の都や宮殿、政治システムを直接見聞きしそれに見習うべく、今後は中国を中心とする国際社会に参入しようとする推古朝の宮殿としては、豊浦宮は手狭であった。小墾田宮の造営と遷宮、冠位十二階の制定、憲法十七条の発布など、政治体制の整備を次々と進めていき、満を持し607年に再び遣隋使を派遣することとなったのである。
小墾田宮を探すが・・・
小野妹子が派遣された第2回遣隋使に対する答礼使として、608年日本に派遣された裴世清(はいせいせい)は難波津から大和川を上り海石榴市(つばいち)に上陸、そこから陸路・山田道を通り推古天皇の宮、小墾田宮に来たとされる。宮殿は南面していて、裴世清は山田道から入ったとされるので、宮は山田道の北側に造られていたと推測される。雷丘(いかずちのおか)東方遺跡に小墾田宮があったとされる山田道の北側の地点に立つと、そこは田んぼのあぜ道だった。標識も案内板も何もない。ところが、ここからは360度の展望が開け、北には耳成山、やや右には天香具山、南側には飛鳥の平地が広がり、西には甘樫丘、その北側に畝傍山、彼方に二上山が見渡せる。大和盆地南端部に位置し、四面を山々に囲まれた広大な平野の真ん中にあり、宮殿を造るには絶好のポイント、ロケーション的にはそう確信させられるのだが、実際にはやや異なる。
上左:雷交差点から見た山田道(県道124号線) 同右上:雷丘 同下:山田道北側の田畑一面が雷丘東方遺跡とされる 下左から:西方の雷丘と畝傍山・二上山、北方の耳成山、南方の飛鳥と甘樫丘
雷丘周辺の発掘調査で、奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物跡や礎石などが確認され、「小治田宮」と書かれた奈良時代の土器が雷丘の東南部で出土したことから、奈良時代の小墾田宮(小治田宮)は雷丘を中心とするその周辺にまで広がっていたのは事実だろう。淳仁朝、称徳朝には天皇が長期にわたって滞在されることもあり、飛鳥・奈良時代を通じて行宮として存在していた。それでは飛鳥時代の小墾田宮はどこにあったのだろうか。
山田道はどこを通っていたか
小墾田宮は南門から入ると左右に朝堂が並び、その北には大門があって、天皇の住まいがある大殿に通じていた、と『日本書紀』に記されている。裴世清がこの南門から入ったとされているが、彼が来日したのは608年で、この頃には山田寺から小墾田宮までの道筋には道路の遺跡はなく湿地帯だったという。今の山田道は7世紀半ば以降つけられたとされ、新山田道と言っても良い。それなら古い山田道はどこを通っていたのだろうか。

近江俊秀先生の説によると、山田寺の南部を回り、新山田道より南方300mほどのところを東西に走り、6世紀末に建築された飛鳥寺の北垣に沿い、石神遺跡の南部にある飛鳥水落遺跡に至る道だと推測されている。
飛鳥時代の小墾田宮
石神遺跡とされる迎賓館施設は斉明天皇の時代(655~661)、雷丘より南方、飛鳥川に沿って建築されたものだが、発掘調査によると、石神遺跡の東限塀が確認されており、そこから16m離れて再び南北塀があり、二つの塀の間が通路となっていた。東西130m、南北180mの石神遺跡の東側には、石神と同等の規模を持つ石神東方遺跡が想定されていて、その南北塀は、石神東方遺跡の西限塀であったとされる。つまり、迎賓館施設の東側に16mを隔てて、正方位をもつ、迎賓館と並列する同規模の施設があったと推測されるのである。これが推古朝の小墾田宮だったのではないか、そういうことなのである。


上左:左に石神遺跡、東隣に石神東方遺跡(小墾田宮)があったと思われる場所、彼方に天香具山が見える 同下:飛鳥寺の北垣があったと思われる東方を見る 上右:石神遺跡の発掘図、東限塀から16m隔てて石神東方遺跡(小墾田宮)の西限塀、その間を中ツ道が・・・ 下左:空撮で見る石神遺跡と石神東方遺跡(小墾田宮)、中ツ道の推定図 同右:石神遺跡、石神東方遺跡(小墾田宮)、飛鳥寺、および水落遺跡の再現模型
石神遺跡北方から北西にかけて広がっていた湿地を整地によって埋め立てたのは、640年頃と考えられ、その頃山田道の移設もされた。斉明朝の頃、小墾田宮の西側に迎賓館が造られ、新山田道がメインとなり、古山田道の役割はあいまいになった。その後飛鳥寺北方地域では、藤原京の条坊地割と奈良時代の条里地割という2度の土地区画整理が行われ、小墾田宮の断絶と位置変更が行われた可能性がある。その時に古山田道はかなり改造され、現在その跡は発見できないでいる。飛鳥寺、小墾田宮、石神遺跡という、飛鳥時代の国の重要施設が古山田道に面して建てられていたのであり、この辺り一帯が政治の中心地であったと言えるのではないだろうか。
中ツ道を探す
石神遺跡と小墾田宮の間の16mの道が中ツ道と推定されるが、そこへ至る道として先ほどの新山田道北側の雷丘東方遺跡に戻って中ツ道を探していきたい。横大路に面した三輪神社の西側を走るのが中ツ道だと言われているが、そこから真直ぐ南に向かい、天香具山を通り抜けて飛鳥に降りてくる。下ツ道とともに平城京の軸線となる道で、藤原京の東縁を通る道なのだが、雷丘付近のどこを探してもそんな形跡はない。あぜ道のような細い道を手繰って南の方へ行くと、7世紀中ごろから後半にかけて斉明天皇が迎賓館として造った石神遺跡に至る(実はこの道は中ツ道と想定される道より1本西側の道だった)。石神遺跡と並立する小墾田宮の間を幅16mの中ツ道は通り、建物が途切れた所で元々の山田道と交差する。古山田道に沿って東西に延々と続く北垣があり、その南方に飛鳥寺がそびえていた。飛鳥寺の寺域の西側に沿って、さらに幅広の中ツ道が南へと伸びていたはずなのだが、今はわずか2~3mの農道といった雰囲気の道が通っているに過ぎない。周りは田畑だらけのこんなところに、飛鳥の都大路がゆったりと通っていたとは、とても想像できない。

左上から:中ツ道と推定される道(実際にはこ道より一本東側)を石神遺跡へ向かって南方へ歩く 右:中ツ道の想定線を横大路の三輪神社西側寄り真南に向かって線を引く
飛鳥の里を歩く
水落遺跡は日本最古の時計である漏刻、つまり飛鳥川の水を使って時を計っていた水時計施設を再現しているが、これは中大兄皇子が造ったとされる。石神遺跡南端部と水落遺跡の間に古山田道が通っていたように推測されるが、迎賓館や水時計施設の建設で道はかなり改変され、発掘しても何も出てこなかったという。水落遺跡の縁をさらに南に行き、飛鳥坐神社から真直ぐやって来る県道124号線(橿原神宮東口停車場飛鳥線)を越えると、道は緩やかにクネクネしてきて、この道をぶらぶら歩いているのが気持ち良い。いわゆる飛鳥の里と呼ばれるこの地独特のひなびた雰囲気があり、そんな中に飛鳥寺の甍が見え、蘇我馬子の首塚がある。多くの飛鳥ファンが大好きな風景だ。
上左:稲刈りが済んだ飛鳥の里の風景 同右上:水落遺跡 同下:民家を越えて南に進む 下左上:飛鳥の里 同下:入鹿の首塚と飛鳥寺の甍 同右:飛鳥宮跡方面を眺める
地図上で推測される中ツ道は、飛鳥寺の西門前で首塚を右に見て通り、飛鳥宮の西側を抜けていく道のようだ。今でこそのんびりした風景が広がるが、650年ころの飛鳥時代には、そびえる甍が目印の飛鳥寺という大寺院、その南方に飛鳥宮の宮殿を中心としたさまざまな王宮関係施設、役人の住宅などが建て込む整然とした街並みの中を通り、引っ切り無しに人が行き交うにぎやかな道であったに違いない。やがて飛鳥川沿いに進み、飛鳥町役場旧庁舎辺りに至るとみられる。
飛鳥京跡苑池
中ツ道と思われる田畑の中の道を歩いて来て、やや上り坂になる道に差し掛かると、西側一帯に草地が広がっているのが目に入る。田畑でないことは一目瞭然だが、丘の頂にある休憩舎に着いてみて、草地が何であるのかはっきりした。先ほどの草地はまさに飛鳥京跡苑池で、ここからその全景が眺められる。飛鳥京で各時代の宮殿跡が発見されたのと同様に大発見だったのが、池のある庭園跡だった。飛鳥宮の西側にあり、天皇の憩いの場であり、客を招いての儀式や饗宴の場だったわけだが、とてもゴージャスな遊び場を作っていた。隋や唐、また百済や新羅などで盛んに造られていた庭園を見習ったのだろう。本格的な調査は平成11年1月から始まったが、古代史に興味もなかったあの頃でも、この苑池発掘のニュースは知っていた。飛鳥時代にすでにこのような庭園を楽しむという文化があったことに驚かされたのだ。
左上:中ツ道と思われる道を飛鳥宮跡の方に歩く 同下:飛鳥京跡苑池発掘地は一面に草が覆っている 右:石神遺跡、飛鳥寺、飛鳥京跡苑池と内郭を両側に見て南方に進んだとみられる中ツ道
南北に二つの池があり、南池の規模は南北55m、東西65m、面積が2200㎡で、平面形が五角形を成している。池の中に中島や石積み島、石造物が設置されていて、中島北張り出し池内にせり出す木製施設が造られていた。南池から6m上がった南東の高台上では、掘立柱建物が2棟あり、苑池を上から眺めるための施設も造られていた。北池の規模は、南北46~54m、東西33~36m、深さ約3m、面積1450㎡、北東隅には階段状の施設がある。南北にのびる水路は、長さ80mあり、上下2段構造になっている。上段幅は13m、下段幅は6mで、間にあるテラス部分が東側は階段、西側は砂利敷になっている。
上左:飛鳥京跡苑池の航空写真 同右:同場所の発掘図 下左:南池(中島)、北池の航空写真 同右上:発掘当時の南池の中島 同下:南池を見て遊ぶ貴族たち(イメージ絵)
休憩所の周りを掃き掃除されていた御婦人に声掛けして立ち話をしていたが、小学校の時の教科書は「シロこいシロこい」だったとか、自転車の漕ぎ方は足を斜めに入れて漕いだとか、毛糸をほどいてセーターを編んでもらったとか、飛鳥京のガイド話はさておいて、昔ばなしに花が咲いて、心楽しいひと時だった。
明日香村
飛鳥宮正殿跡から内郭前殿、南門跡に回って来て、明日香郵便局がある県道155号線に出てきた。斜め前には昭和39年東京オリンピックの時に完成した明日香村役場旧庁舎がある。高度経済成長期に入りかけた頃、活力みなぎる時代だったが、丹下健三のカーテンウォールとコンクリートむき出しの近代建築、旧東京都庁舎や香川県庁舎、奈良県庁舎もそうだが、その頃の最先端建築だった。当時はカッコイイとは思わなかったが、今のペラペラのモダン建築と比較すると、重厚で力強さを感じて、良いように思う。新庁舎は600mほど西の方に建設され、2024年5月にオープンした。旧庁舎はちょうど飛鳥宮全体を見渡せる場所にあり、できたら屋上が全体を見渡せる展望台になればなあと思う。
上左上:飛鳥宮正殿跡 同下:飛鳥宮内郭前殿柱跡の再現 同右:飛鳥宮正殿跡を西から撮った説明写真 下左:明日香村役場旧庁舎 同右上:県道155号線沿いの明日香郵便局 同下:内郭前殿近くの蔵のある民家
最終回のはずだったが、なかなか終わらない。次回こそ後編②として、石舞台、野口王墓古墳、梅山古墳など墓回りで締めくくりたい。
今回も楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。
ありがとうございます。よいお年をお迎えください。